韓国に比べると、日本の流れはゆったりとした流れだ。外からのものが流入する経路が海であり、また背後も海で出てゆく所がないということで、ある種の余裕をもって日本が外部からのものを受け入れられていることは間違いない。日本の神社を見て、そのことがよくわかるような気がした。
現代韓国では一般に無視され、文化的には排除の対象となってしまっている伝統的な民間信仰(シャーマニズム)が、日本では、神《しん》道《とう》という文化装置によって、その直接的な刺激が和らげられ、しっかりと日常生活のなかに取り込まれているのだ。
韓国で伝統的な民間信仰と言えば、田舎のおばさんたちが、山や海に行って、大きな木の下などで祭をするのであって、現代韓国人にはかなりの拒否感を感じさせるものとなっている。ところが日本の場合は、東京の真中に多くの神社があり、そこで毎月のように例祭が行なわれている。また、観光地の海や山にも堂々と神社が立ち並び、そこでのお祭は観光名物ともなっている。また、会社の事務室にも神社のミニチュアを置いているし、大きな会社では庭にも神社を建てているのが見られる。そこに拒否感を感じる日本人はほとんどいないだろう。
私が最初に日本に来たとき、神社に大きな拒否感を感じ、なにかお化けでも出てくるのではないかと、とても嫌だったことを覚えている。
いまの私は慣れてしまって、むしろ親近感を感じるようになっているが、韓国から来る人たちに神社を見物させてあげようとすると、たいていの人は拒否感を感じてしまう。
日本に来てまだあまり日がたっていなかったころ、私は、東京のある神社でお祭があるということで、街のあちこちに注《し》連《め》飾《かざ》りや旗が飾られているのを不思議に思い、同じ大学の日本の男性にいろいろと質問をしていた。すると、その男性は私に「神社の祭に行ってみませんか」と誘う。私は、神社を気味悪く思っていたので気がすすまなかったのだが、とても親切に誘ってくれたので、それを無視することもできずについて行ったことがある。
彼は出店でタコヤキを買い、私に食べるようにすすめてくれたが、私は神社の気味悪さのイメージと重なり、口に入れたタコヤキを飲み込むことができず、彼には見られないようにして、そっと口に紙をあてて吐き出してしまった。
タコヤキそのものは私の好物なのだ。学校の近所や観光地ではよく買って食べる。が、私がクリスチャンであるから余計にそうだったのかもしれないが、神社で売っていたために、そのタコヤキが何か悪魔がついた食べ物のように感じられたのである。