窓の向こうの方からこちらの部屋の中を見ている人物がいるとする。そんな場合、日本人ならば受け身形で「誰かに見られている」と表現する。韓国人ならば能動形で「誰かが見ている」と表現する。これは私が何回か実験してみて確かめたことである。
この表現の違いは、単なる文法的な形の違いであって、意味としては同じものである。しかし、表現を支える両者の心理は正反対となっている。
私は小さな教室で韓国人に日本語を、日本人に韓国語を教えている。この教室は、大きな通りに面していて展望がきき、窓も広くとってあって明るく、私はとても気に入っている。ある日、韓国の女たちに日本語を教えているとき、一人の生徒が叫んだ。
「あら、向こう側から誰かがのぞいているわ」
瞬間、全員が窓の向こうのビルディングへ顔を向けた。一人の男が望遠鏡で向かい側のビルディングのベランダからこちらを見ているのだった。彼女たちは、「なんか変態みたいな人ね」と、口々に言う。若い美人ばかりが集まっている私の教室に、好奇心を持ってこちらを見ているのだろう。
そのとき私が気づいたことは、誰一人自分たちの方に関心を向けて装いを正すとかいったことはなく、こちらを見ている男について、あれこれと言うばかりだったことである。
「いやらしそうなおじさんね」
「日本人には変態が多いってね」
と、そのまま日本人の変態へと話題が流れていった。
「私の部屋は二階なんだけど、ベランダに干してある下着が毎日少しずつなくなっていくのよ、とても怖くて」
「変態みたいな電話が多いでしょう? いやになっちゃうわね」
「日本の雑誌って、どうしてあんなにヌードの写真ばっかり載せるの?」
こうして教室がうるさくなり、しばらくは授業が中断してしまう。
そして、私の教室を日本人の友だちが訪れたときのこと。彼女は、「部屋が明るくていいわねえ」と言ったあと、
「でものぞかれやすいわよ、気をつけないと変な男に狙《ねら》われるわよ、ついカーテン引くの忘れちゃうときもあるから」
と言うのである。あくまでも、のぞかれるのも狙われるのもこちらの責任だから、こちら側が気をつけないといけない、のぞかれないように必要なときはカーテンを引きなさい、という言い方なのである。
韓国の女たちの話では、のぞかれたり下着を盗られたりするから、こちらが何か気をつけなくてはならない、という話はいっさい出なかった。
韓国の女たちの場合は、のぞく方が悪い、のぞくのは止めなさいという主張。日本人の場合では、のぞかれる方が悪い、あるいはそんな状態ではのぞかれても仕方がない、気をつけなさい、という主張になる。
「誰かに見られている」では、こちら側の状況が重視され、こちら側の行動へと注意が向けられている。一方、「誰かが見ている」では、こちら側の行動より、誰がこちら側を見ているのかという相手側に関心が向けられている。
日本のテレビではアナウンサーが、「子どもが何者かに連れられていって山で殺された事件がありました」と述べている。韓国でならば、「何者かが子どもを連れていって山で殺した事件がありました」と言うだろう。子どもに関心がゆく日本人と犯人に関心がゆく韓国人の違いがここに見えている。
電車に乗ろうとホームの階段を駆け昇りながら、大学の先生が私を急《せ》かせて言う。
「早く走ろう、電車に逃げられるよ」
あなた、いくつなの? と聞く私に少女が恥ずかしそうに言う。
「えへへー、聞かれちゃった」
知人がそっと私に耳打ちする。
「あの人は奥さんに逃げられたのよ」
乗ろうとしたタクシーに、先に他の人が乗ってしまった。
そこで、「ああ、あの人が乗ってしまった」と言う韓国人。先に乗った人を非難することになる。「ああ、乗られちゃった」と言う日本人。先を越された自分への悔しさに重点が置かれている。
気がつかなかったこちらが悪いという日本人。あちらが悪いという韓国人……。