では韓国人は誰にも弱点を見せないのかというと、そうではない。それは外に対してだけであって、家族や仲のよい友だちの間では、それこそ心の底まで披《ひ》瀝《れき》するのである。
最近は少なくなったが、二、三十年前までの韓国では、同級生、同窓生など同年代の間で、仲のよい友だちどうしが、擬似的な兄弟姉妹の関係を結ぶことが多かった。その関係はどうやら親《しん》戚《せき》との間のそれよりも深いものとしてあったようだ。私の父とか母の世代では当然のことだったという。
私が小さいとき、父と兄弟のようにしていた人たちは、いまに至るまで、ずっと仲よくしている。大部分は男は男どうし、女は女どうしが関係を結ぶのだが、なかには男と女が義兄弟となるケースもあったようだ。
こうした義兄弟の関係は韓国の史書にも見られるが、その関係の意識は「ひとつの身体になること」と言っても過言ではない。こうしたことは、現在の四十代以上の世代にはよく見られる。それより下の世代では、その青春時代にはすでに、社会が急変して人口の移動も激しくなり、目まぐるしく世の中が移り変わる時代に入っていたこともあって、義兄弟の縁を結ぶといった、牧歌的な風習は影をひそめてしまったように見える。
確かに韓国は、この十数年の間で、人びとの服装も町並みも、その外見はすさまじい勢いで変《へん》貌《ぼう》を遂げている。しかし、その精神面ではほとんど大きな変化を見ることができない。事実、義兄弟といったものも、その形を変えて、現在でもなお生き続けている。
現在でも、学校の友だちで気に入った者がいると、それが兄弟のようになって、無意識のうちにひとつの身体になってゆくのだ。とくに男たちでは、大部分がそういった友だちを持っていて、結婚をした以後も、なおかつその友だちに大きな親愛の情を寄せて頼ろうとしている。たとえ真夜中であっても、友だちが訪ねてくれば、夫は友だちを歓待し、妻も一緒に友だちを接待しなくてはならない。
また、妻を家において遠くの地に行かなくてはならない夫は、友だちに妻の面倒を頼むこともよくあることだ。これが最近では変な事件となってしまう場合も多いのだが、これは女どうしの友だちでも同じこと。妻に独身の友だちがいたりすると、その夫までが妻の友だちの身辺のことについていろいろと心配し、また世話をするのである。