こうした韓国の強い友だち関係の結び方は、私にとっては身に深く染み込んだものであって、なんとしても変えることのできないものとしてあった。そのため、どうしても日本人の友だち関係のあり方は理解することができなかった。いや、理解できなかったばかりではなく、私の心に大きな葛《かつ》藤《とう》をもたらし、私はどうすることもできない寂しさに襲われ、身も心もぐったりと萎《な》えきったような気分に陥ってしまったのだった。
まの悪いことに、日本の大学に入ってみると、同期生のなかで韓国人は私一人だったのである。友だちなしではいられないと、私は懸命に日本人の学生に積極的に接触した結果、やがて、数人のグループの一員となることができた。
何をするにも一緒で、トイレまで全員で行くような、楽しい仲間であった。私が外国人だということで、彼女たちはよく私を助けてくれもした。講義をよく聞き取れずにノートを取りそびれている私にノートを貸してくれたりしながら、積極的に私を助けてくれようとする彼女たちの真心は肌で感ずることが出来た。
しかし、それでも私はとても大きな寂しさを感じ続けていた。私はなんとしても心を開いて話し合いたかった。彼女たちは、お互いにいいことばかりを話そうとし、それぞれの秘密や悩みに関する話は避けようとしているのである。彼女たちはいつも快活で明るく、また笑える話ばかりしていて、個人的な悩みを話そうという雰《ふん》囲《い》気《き》を誰もがつくろうとしなかった。したがって、彼女たちの個人的な事情のようなものは、まるで聞くことができなかった。そうならば、彼女たちはどのようにして個人個人の悩みを解消しているのだろうか。そのことがどうしても理解できなかった。
ただ、私が韓国人そのままに、親しいどうしの間でよくやるように、知らずに彼女たちにスキンシップをしていて、気持ち悪がられたことがあったかもしれないとも思う。それには、こんなエピソードもあった。
ゼミの合宿のとき、みんなでお風呂に入った。なかの一人がとてもきれいな乳房をしていたので、私は思わず「きれいねえ、うらやましいわ」と、手を出して彼女の身体に触れようとした。すると、彼女はパッと身を引き、無言のまま、怒ったような顔をして私の側を離れて行った。
当時、私はこうした日本人の態度がまったく理解できなかった。欧米でならば同性愛的な感じになるのかもしれないが、韓国では同性の身体に触れることは、親しさのせいいっぱいの表現でこそあれ、決して嫌らしいことでも失礼なことでもないのである。
そんなこんなで友だち関係で壁にぶつかった私は、可能性をもとめて、それまで仕事だけのつき合いだった勤務先で出会う日本人ビジネスマンたちと、ビジネスを離れた個人的なつき合いを積極的にやっていこうと思った。
しかし、そこでも、人の悩みを聞こうとする雰囲気がまるで生まれない。思い切って、ある気のあった人といるときに、私は自分の悩みを話そうとした。ところが、その人は、「何だか知らないけれど、他人の悩みを聞いても解決するもんじゃないし、心が痛くなるだけだから止めようよ」と、話を切られてしまったのだった。
なぜなのか? なぜなのか? いくら考えても日本人というものがわからなかった。同じ人間なのに、なぜ悩みを分かち合おうとしないのか? 人間ならば当然することを日本人はやろうとしない、そうならば、日本人は人間じゃない——そう思った。