友だちがいまどんなことで悩んでいるのかを知り、そして友だちと一緒にそれを悩み、痛みを分かち合うということは、文化の差別なくすべての人間のなすべきことだということは、私は心から信じられる。しかし、日本人はどうもそうではないらしい、そうならば彼らは人間ではないのか?
何度も何度も自分にそう問い返してみた。
人間ではない? やはりどうしてもそうは思えない。どこか私には見えない何かが隠れているのではないのだろうか? 私はそう思い直して、会う日本人ごとに、こんな質問をしてみることにした。
「心の悩みを友だちに話していますか? 個人的な悩みは誰によって解決していますか?」
多くの人は、心の苦しみは一人で解決し、他人に話す場合は、その間に距離を置くことになってしまう、と答えるのだった。私は呆《あつ》気《け》にとられてしまった。
私は昔ほどではないが、いまでも友だち関係については少々悩んでいる。もちろん、日本的な友だち関係の、淡くて長続きする、ほのぼのとした情感が行き交うよさも、いくらかは体験している。そして、相手によけいな負担をかけたくないからこそ、容易なことでは個人的な悩みを話そうとしないことも、理解できているように思う。
確かに、韓国人のように、すぐ相手に自分の悩みを話し、人に頼ることは甘え過ぎだと言えるかもしれない。でも、と思う。どうして人はそんなにも強くなれるものなのか、それがいまだによくわからない。
受けることに強く、出すことに弱い日本人という私の感じ方は、こんなところでも出てくる。
あなたにとって友だちとは? という私の問いに対して、最近、ある日本の男性がこんな話をしてくれた。
「人間、人生に一度くらいはにっちもさっちも行かないことがある。そんなときには『こいつがいる』と思える友だちが僕にはいるよ。いまだにそいつに自分の悩みを話したことはないけれど、また一生話すことはないかもしれないけれど、いざここ一番というときに、こいつだけは信じられるという感触を持てる相手、で、そいつには絶対に迷惑をかけないというこちらの思い、それが互いに通じ合えていると感じられていれば、僕はそれで満足だね」
この人の友だち観がどれほど日本人の間で共通性を持つものかはわからないが、この言い方には私も納得できるところがある。徹底した受け身の姿勢とも言える。しかも、これは最終的な何かを信じようとする、一種の信仰であることも事実だろう。