直接的、間接的という言葉を使えば、韓国人の友だち関係はきわめて直接的なものであり、日本人のそれはずい分と間接的である。韓国人の直接性を好む性格は、色でいえば直接目に鮮やかな原色の派手な色が好きだとか、味で言えば舌に直接強い刺激を与えるものが好きだとかいうところにも、よく現われているように思う。
物事の理解についても、韓国人には、諺のように、体験的に直接理解できる言い方が好まれる。現代韓国でよく使われる諺を頭に浮かぶままアトランダムに上げてみると——。
「瓢《ひよう》箪《たん》をかぶる」(物を普通より高く買ってしまった)
「瓢箪をひっかく」(いやな音がでる。女が男にキーキー文句を言う)
「女の運命は瓢箪(釣《つる》瓶《べ》)の運命」(上下する釣瓶のように、男によって女の運勢は変わってくる)
「飛行機に乗せる」(おだてる、ごまをする)
「寝て餅を食べる」(仕事をしなくても必要なものが手に入る=朝飯前=簡単だ)
「ころがって入ってきた餅」(棚からボタ餅)
「虎穴に入っても精神さえ正しく持てば生き残れる」
「知っている道でも聞いて行け」
諺にはよく瓢箪が登場するのだが、古くは宗教的な意味もあったらしい。しかしいま残っているものは、かつて身近な生活用具としてあった瓢箪への親しみからのものが多い。
日本と同じように、韓国にも新旧とりまぜてさまざまな諺や言い回しがあるし、その多くが日本や中国のものとの共通性を持っている。また、諺のあり方にも大きな違いはないようだ。
ただ、韓国人が諺から感じるイメージには、どうも日本人のそれよりもかなり直接的なものがあるような気がする。たとえば、「〜の現象があると〜が起きる」といった、未来を予兆するような諺は韓国にも日本にもあるが、実際にそうした現象が起きると、日本人が「縁起でもない」と苦笑いする以上に、韓国人にはそのことが大きく気にかかるものである。
それが重要な事柄にかかわるものであればとくに、とてもそのままにしてはおけない気持ちになってしまう。それは、迷信を信じる信じないということよりも、物事をより直接的・感覚的にとらえてしまう、性《しよう》分《ぶん》のようなものからきているように思われる。
その典型的な例を、私が幼いころにした体験からお話ししてみよう。
韓国でいまでもささやかれる、「メンドリが鳴くと家が滅びる」という諺は、中国から入ったもので、日本にも入っていた。これは、「メンドリが時をむすぶ(鳴く)ことは尋常ではないことであり、オンドリをさしおいてメンドリが時をむすぶということは、自然のあり方に逆らうことで、天を支える中心が倒れ、世の中が崩壊するときである」という意味になる。
そこから、妻が夫をさしおいてしゃしゃり出ると、家を支える主人が倒れ、家庭が崩壊するとか、その家の女が男をさしおいて社会的な活動をしたりすれば家が崩壊する、といった意味として通用している。
私が小さいとき、家にニワトリを飼っていた。私たち家族は、毎日タマゴを生むメンドリに、いつも感謝していた。産んだばかりの暖かいタマゴをそのまま街に持っていってお菓子と交換したこともある。
ある日の明け方近く、私はすぐ側で寝ている母の、何かブツブツとつぶやく声に目が覚めた。
「どうしたの?」と私が聞くと、母は、「メンドリが鳴いたのよ。あれはオンドリとは違う声よ、大変だわ」と言う。確かに、私の耳にもメンドリ特有の声が聞こえてくる。
私は起き上がって外に出た母のあとをついて、まだ暗い庭をソロソロと鶏小屋へと歩いて行った。鶏小屋に入った母は、私の見ている前で、すぐさまそのメンドリをつかむや、おもいきり首をひねって殺してしまったのである。
私も例の諺をよく耳にしていたから、そのメンドリを殺さなくてはならないという母の気持ちはよくわかった。でも、あの暖かいタマゴの感触をいつも楽しんでいた私は、メンドリが可《か》哀《わい》相《そう》でならなかった。
翌日、そのメンドリは母に料理されて私たちの食卓を飾った。家族はみんな喜んで食べ始めたのだったが、とりわけトリ肉が好きだった私は、どうしても食べることができなかった。
そのとき私は子ども心にこんなふうに思った。
鳴けば死につながることも知らずにいた哀れなメンドリは、昨日まで、どこまでも生きようと懸命にエサを食《は》み、私たちのためにタマゴを生んでくれていた。家が滅びると言われるから、とても残酷なことだけど、殺してしまわなくてはならなかった。なんて悲しいことなんだろうか。
以来、ずっと長い間トリ肉を食べる気になれなかった。
翌日、近所のおばさんが、わざわざ「ゆうべメンドリが鳴いたよ」と知らせに来た。メンドリが鳴けば、いち早くその家に知らせてあげて、家の崩壊の原因を排除することが、村の人びとの当然なすべきことなのだった。
この諺の韓国での現代的な解釈では、男の蔭にいてこそ女はその美しさを発揮することができるものであり、女が男より目立つようになり、あちこちと走り回ってゆくと、男が力をだせなくなって家が滅びるのだという。女が社会に出ていろいろと活動することを、チマパラム(スカートの風)と名付けて韓国の男たちが嫌がるのも、ひとつにはそうした背景があるからである。
縁起をかつぐ場合でも、男権社会韓国では、悪いことにはしばしば「女」が引き合いに出される。たとえば次のように。
「その日の(タクシーに)最初に女を乗せると運が悪い」
「正月に最初に会った者が女だとその年の運が悪い」
「会社で最初の電話が女だとその日の運が悪い」
実際、私はいまでも、朝早く会社に電話することにはためらいを感じてしまう。韓国ではとても失礼なことになるから、つい躊《ちゆう》躇《ちよ》してしまうのである。