諺や言い回しとは違うが、韓国人はスローガンも大好きである。ソウル・オリンピックのスローガンは「韓国を世界へ世界を韓国へ」だった。それに対して、東京オリンピックのスローガンは「世界に学ぼう」だった。
この二つのスローガンの差は実にうまく二つの国の国民性の違いを表わしていると思う。日本人なら、まず「日本を世界へ……」といった、外部への指向を露《あらわ》にした強い自己主張を持ったスローガンはつくらない。「世界に学ぼう」とは、まさに日本人が好む「謙虚さ」の精神パターンにスッポリとはまっている。また、「学ぼう」という姿勢も、きわめて日本的な対人関係の意識を物語っている。あくまで受け身なのだ。
おおかたの日本人は、相手から学ぶことに熱心な割には、相手に教えようとする意識が稀《き》薄《はく》なように思う。これも「受ける力が強く出す力が弱い」ことの現われかもしれないが、韓国人はしばしば、「日本人は技術のノウハウを教えてくれないケチな人たちだ」とも言う。
もっとも、「ケチ」とは韓国側の「言いがかり」と言うべきで、実際には日本は韓国に対して大きな技術供《きよう》与《よ》を行なっている。「韓国側の受け皿の方により問題がある」とは、多くの日本人ビジネスマンたちから聞かされる言葉だが、客観的に言えばその通りだと思う。が、具体的なそれぞれの場面では、教えることの好きな人たち(韓国人)に学ぶことが好きな人たち(日本人)が教えるという、ある種の感覚的な軋《きし》みのようなものがあることは事実のようだ。
大枠での技術供与に問題があるのではない。小さな、ちょっとした技術やノウハウについて、そこまでいちいち言わなくてもいいだろうという感じが日本人にあって、それが積もって全体の印象となり、韓国側の「ケチ」という非難になってしまっているのではないだろうか。どうも、そう思える話をよく聞くのである。
たとえば、ある大手企業の日本人技術者は、「望んでいない人に教えるのは失礼だ」と言う。なぜかと聞くと、「この程度のことは当然相手が知っていると思えれば、こちらからいちいち、ああです、こうですと言うのは相手の尊《そん》厳《げん》を傷つけることになるから」なのだそうだ。したがって自分は、「積極的に教えてくれと言われれば、喜んで教えます」といつも公言しているのだと話す。
こうした態度は日本人どうしならばよく理解できることに違いないが、韓国人にはちょっとわかり難い。
私が日本の大学で勉強していたときのこと。先生に質問されて私が困っているとき、友だちがまるで助けてくれない。韓国の友だちなら私の目つきを見て横からコソッと教えてくれるのである。こうした日本人の態度に困惑していたが、やがて私は日本人に教えてもらうコツをつかんだ。そんなときには、「ちょっと助けて」と言えば、必ずメモなどを渡して教えてくれるものだということを知ったのである。