一見、そんな気がなさそうに見えても、実は「教えてあげたい」という気持ちを、日本人はどの国の人よりも持っている。しかし、相手の立場を先に考えてしまうのだ。単に助けるのは相手に対して失礼になると考える。こちらの都合だけで助けることは、自分が上に立つことになり、相手を低く見たり、無視したりすることにもなるからなのである。
韓国人は混乱している人を見れば、まず助けてあげようという意志を見せ、実際可能ならば、積極的に相手を助ける。もっとも、ここでもしばしば性急であって、実際できないことでも、助けてあげたいという情が先に立ち、失敗することも多いのだが。
韓国人が困っている人を助けようとするのは、西洋的なヒューマニズムや福祉の精神からではない。日本人のように相手の立場を考えることなく、自分の判断ですぐ手を差し延べようとする。おせっかいだとか、親切の押し売りになるとかには頓《とん》着《ちやく》がない。では、なぜ助けようとするのかと言えば、自分が他者より力があること、自分が他者より上に立っているということを、そこで示すことができるからである。
このように言うと、多くの日本人が「それは言い過ぎじゃないですか」とか言って、なかなか信じようとはしない。しかし、韓国の社会関係とは、常に他者との力関係、上下関係の闘争なのである。そうした力関係の場のどこに自分が位置するかで、自分の社会的な評価が決まるのである。
韓国では助けた者は上に立ち、助けられた者は下に立つ。助けられた者は、助けた者を自分より上だと認めなくてはならない。これで上下関係がはっきりする。それが道徳的にいいことなのであり、日本のように悪いことでは決してない。仲のよい友だち以外の社会関係では、具体的な他者それぞれとの関係で、自分は誰より上なのか誰より下なのか、それが最も重要なことなのである。
韓国人は学ぶより教えることが数段好きな国民だ。もちろん、教えることで上に立てるからである。したがって、教師は大きな尊敬の対象となる。韓国で能力のある人とは、あくまで知識によって立派な社会的な地位を確保した人をいう。いくら知識が多くても、みすぼらしい生活をしていれば、人生の失敗者以外の何ものでもない。
実際、うんざりすることは、韓国からやって来て私を訪ねて来る韓国人のなかで、とくに男性がしきりに私に「教え」を説きたがることだ。
そこには、女は男に教えられる者、という通念の加担が見え見えなのだが、それはまだ我慢してもいい。しかし、私への対抗意識をあらわにして、「いいですか、教えて差し上げます。日本人というものはですね……いまの韓国はこんなによくなっていて……」と、延々と私に教えを説きはじめるのにはまいってしまう。それも、ほとんどが偏見に満ちた日本批判と、韓国の自画自賛なのである。エリートほどそうだと言っていいから、腹が立つより先に悲しくなってしまう。そうして、私からは何ら学ぼうとする姿勢を見せず、一方的に教えようとするからなおさら嫌になってしまう。
韓国人の男にとっては、私は女であることで「教え」を説くべき対象となるが、言葉を教える「先生」だということでは、一応尊敬の対象となる。しかし、私の教室が小さなみすぼらしい事務所だということを彼らが知ったとたんに、私は大きく価値を落としてしまうことになる。そこで、韓国から来た男たちの多くが、私に対して自然に、「教える」という位置からものを言うことになる。そこでは、自然に、私から学ぼうとする意識がなくなってしまっている。
韓国人が教えることが好きなのは、その能動的な性格をよく表わしており、日本人が学ぶことが好きなのはその受動的な性格をよく表わしている。そして、この能動性は直接的な関係を求める意識に支えられており、受動性は直接性を避けようとして間接的な関係を求める意識に支えられている。
現代韓国について話すたびに、「それは日本の三十年前と同じことだ」と言われる場合が多い。でも、果たして、そう簡単に、歴史段階的な社会の問題や、発展段階的な個人の問題へと解消することができるものだろうか。私はそこに大きな疑問を持っている。
疑問があるうちは、まだまだ、具体的な誤差に光をあてて行きたいと思っている。