韓国では「恨」をハンと読むが、これは「うらみ」の感情とは少々異なっている。最近では、日本人の情緒的な特性を「もののあわれ」に代表させ、それと「恨」を比較する試みなどもあるようだが、恨は韓国人特有の情緒を見るためには、ピッタリのものと言えるように思う。
恨は哲学的にまた美学的に語られることが多いけれども、私は生活の各場面でごく普通に見られる恨についてお話ししてみたい。
恨をひとことで言うのは難しいけれども、結論から言えば、韓国人にとっては生きていることそのものが恨なのである。自分のいまある生活を不幸と感じているとき、自分の運命が恨になることもある。自分の願いが達成できないとき、自分の無能力が恨になることもある。そこでは、恨の対象が具体的に何かということは、はっきりしていないのが特徴だ。
韓国人は、自分のおかれた環境がいかに不幸なものかということを、他者を相手に嘆くことがとても好きである。韓国の言い方では「恨《ハン》嘆《タン》」となる。「私はこんなふうに生きてきた。ああ、私の運命はなんて不幸なものなんだろう」という具合に。これは、日本人がよくやるような、相手に対して自分を卑下する言い方でもなく、また単に自分に悲観しているのでもない。
私の日本語教室に通う韓国の女たちは、何人か集まると、好んで身の上話に花を咲かせる。そんなとき、あたかも「みじめ競争」のようなことが起こるのである。
ある者が、「私はこんなに不幸な家庭に育った」と話す。すると、それを聞いている他の者が、「私なんかもっと不幸だった」と語りはじめる。また、もう一人が「そんなの不幸のうちに入らない」と話す……。そんな具合に、話はどんどんより不幸な話へと発展する。みんながみんな、自分こそ、誰よりも不幸でみじめな人生を背負っているのだということを、盛んに主張し合うのである。