恨が強く自分のなかにあることを、しばしば「恨が固まる」と表現する。
たとえば、韓国では再婚したくとも社会通念の上で難しいため、早く夫に死に別れた女などは、もはや結婚はできないという思いをずっと抱え込んで生きてゆくことになる。そんな場合にも、「恨が固まる」と言う。
また、自分がよい学校へ行けなかった場合、その行けなかったことの「恨が固まる」のである。この場合、その原因を、父母のせいにすることは儒教倫理の上で出来ない。だからそこでは、よい父母に出会えなかった自分自身の運命に対して恨を持つのである。
恨はどちらかというと未来への希望のために持ち出されるものであるため、「〜すれば恨がなくなるだろう」という未来形を使った言い方をよくする。ただ、目先の小さな問題については、まずこういう言い方はしない。「自分が強く願っていることを達成できるならば、死んだ後には恨がなくなる」という、将来の人生へ向けての願望の意味で使うのである。
たとえば、「息子が勉強をよくしてくれれば恨がなくなるだろう」「立派な家で生活してみれば恨がなくなるだろう」「食べたいものをいっぱい食べてみれば恨がなくなるだろう」「持ちたいものを持てば恨がなくなるだろう」など、具体的にそのときそのとき必要なものに対しての恨として使う。ここでは、自分の無能力に対する悲嘆が恨なのである。
現在に恨がないことを言う場合には、「あの人は恨がなく生きていた人だ」という言い方がよくされる。これは、普通の人より経済的に余裕があって、自分のやりたいことをやって死んでいった人のことである。同じように、「自分は人生でやりたいことをやったから恨がない」とも使う。
恨があること、恨を持っていることは、悪いことなのではない。あるからこそ未来への希望が持てる——そういうものとしてあるのが恨である。
日本人が未来への希望を語るとき、「こんな兆《きざ》しがある」とか、「こんな曙《しよ》光《こう》がある」とか、現在へと射してくる明るさをもって言うことが多い。また、自分のみじめさに対する「がんばり」を主張する。そこでは、じぶんの不幸とかみじめさの感嘆は、堕落、あるいは甘えのように感じられていると思う。