女が結婚して苦労すれば、それはいい夫に出会えなかった自分(の運命)に対する恨となり、経済力も権力もないのは、能力を持てない自分(の運命)への恨となる。
このように、恨はもともとは、何か具体的な対象があって感じるものではなく、生きることそのものに感じる、欠如の感覚だと言ってよいと思う。したがって、その原因を運命とみなして、ただただ自分自身を嘆くのである。そこでは恨は、自分自身に対する深いコンプレックスに変わってゆく。
このように、恨はその対象があいまいなのだが、それだけ、対象を求めて常に彷徨《さまよ》うものだとも言える。そして、具体的な対象との出会いを持つことがなければ、恨はそのまま自らの運命に対する嘆きとして、自分の内面に向けて表現されるのである。
一方、恨が具体的な対象を獲得することがある。
たとえば、個人生活が苦しいのは税金が高いためだと感じるとする。それは、政治家の無能力のためであるし、それが個人生活にまで及んでいると考えられれば、自分を不幸にした対象がはっきりする。そこでは、恨は「政治家」という具体的な対象を獲得することになる。自分の恨が何によって固まるかが見えていることが、自分の運命を嘆く恨とは異なっている。
もちろん、ほんとうに政治家が悪いのかどうかは別の話である。したがって、次のようなプロセスで、恨の対象が日本になってもくる。
自分が貧乏なのは韓国の経済発展がうまくいかないせいだ。それは、朝鮮戦争が起きて多くの被害を受けたからで、そのため今日でも国防に多くの費用が費やされているからだ。その根本の原因は南北分断をもたらした日本にある——。
このように、それが正しいか正しくないかは別にして、今日の不幸の原因をあてはめられるはっきりした対象がある場合には、その対象に対して攻撃できるので、ストレスを解消することができ、それが自分自身のコンプレックスへと変化してゆくことはない。そこでは、攻撃を続けている限り、恨が外に向けて表現されるからである。