また、その教えは一八〇度とも言える改革が行なわれた。個人の現実的な欲望(利己心)は抑圧しなくてはならないというキリスト教の教えは、いまや多くの韓国の教会では過去のものにすぎなくなっている。教会の教えは、「個人の現実的な欲望を神が受け止めて下さる」と書きかえられていったのである。この教えによって、キリスト教会は、当時の韓国人の間に蔓《まん》延《えん》していた虚無感を埋めてくれる、格好の場として人々の集まるところとなっていった。
それまでの、飢えているときにこそ「神さまに感謝します」というお祈りが大切だという考えを、二次的、三次的なものへと後退させた。そして、飢えていることは神さまの祝福ではないから、まず、「空腹が満たされますようお願いします」というお祈りが第一だとなっていった。もちろん、病気も神さまの願いではないからと、「病気をなおして下さい」と祈るのだ。
貧困とは悪魔に呪《のろ》われていることであり、病気をもたらすのも悪魔だと説明される。その日の礼拝が終わると、牧師から直接悪魔祓《ばら》いを受けようとする人びとの行列ができる。
話はそれるけれども、教会の信徒たち数人が私の事務所を訪れたときのこと。一人の地域長クラスの上級信徒が、私が部屋に飾っている般《はん》若《にや》心《しん》経《ぎよう》をしたためた書を見て、「これには悪魔がとりついている」と言い出した。そして、「みんなでお祈りしましょう」と促《うなが》す上級信徒に従って、数人が一斉に「この悪魔出て行け」と口々に叫びはじめた。それも、あらゆる汚い言葉を使い大声で罵《ののし》るのである。
真昼間のことで、隣の貿易会社でも仕事をしている。私が困ったなと思っていると、案《あん》の定《じよう》、「静かにしてくれ」と文句が来た。私が「小さな声でやって下さい」と頼むと、その上級信徒は、「小さな声では悪魔は出て行かない。あなたも悪魔にとりつかれているから、もっと真剣に祈りなさい」と強い語調で指示し、さらにみんなで大声を張り上げるのだった。
さて、韓国のキリスト教会では、お祈りの内容はきわめて現実的、具体的なものでなくてはならないと教えられる。たとえば、ある牧師はこんなふうに指導している。
「あなたが十五平方メートルの家に住んでいれば、『明日は三十平方メートルの家を下さい』とお祈りしなさい。そして、それが達成されたなら、感謝してその上に希望を持ち、さらに『明日は五十平方メートルの家を下さい』と祈りなさい。また、それがかなったら、さらに次の目標をたてて祈りなさい」
本来のキリスト教の教えのように、「現在に感謝しなさい」とも言うのだが、「その後で必ず条件を述べなさい」と指示するのである。
「具体的に祈りなさい」とは、目に見える幸せの証拠物を求めなさい、ということである。精神的にいくらその人が幸せを感じると言っても、現在、目の前にそのことを示す物質がなければ幸せにはなれないという、韓国的な価値観に教義を一致させているのだ。
このように、韓国のキリスト教会の主流(福音派)は、教会を人びとの限りのない欲望の上昇を楽しむ機関としている。また、こうした考え方が、韓国では他の教派にも、またカソリックにまで影響を与えている。