私の所属する教会も福音派のひとつだが、その説教は、いつも「今日は常に苦しい」という話から始まる。そして「明日を期待しなさい」と続く。そこで矛盾が起こる。つまり、昨日は苦しかったが今日は解放されて楽しいと感じている人にとっては、お祈りに足が向かなくなってゆくのである。極端に言えば、キリスト教が不必要なものとなってしまうのである。
私がそうした矛盾を感じていなかったころのこと。自分がいま苦痛だと感じているときには、教会はまたとない心の安らぎを得ることのできる場となったが、心に少しでも余《よ》裕《ゆう》のあるときは、なにか悪いことをしているような気持ちになり、罪意識を感じてしまうのである。そこで、変な話なのだが、少しでも苦痛を探さなくてはと思ったり、「自分はみじめだ、自分はみじめだ」と、自分自身に言い聞かせたりすることもあった。この点でも、韓国のキリスト教は、恨《ハン》を楽しむ人びとには、とてもうまく調和している。
いまでは私は、牧師の教えはキリストの教えというよりは牧師の解釈で、自分の信仰は自分の信仰と考えている。当たり前のことだけれども、韓国では、牧師はキリストの地上の代弁者、さらには、神さまと直接話すことのできる特別な聖人と考えている信者も多い。