韓国の学生運動が焼身自殺者を出すと言っても、それはインドの宗教者たちの、抗議の焼身自殺とはまるで異なるものだ。はっきり言えば、デモをしていながらしだいに気持ちがエスカレートしていって、気持ちを抑制することができなくなり、ついに自殺にまで至るのだ。
私はそれほどでもなかったが、何回かデモに参加したことがあるので、そうなってゆく心のプロセスがよくわかる。韓国の学生運動家たちは、イデオロギー以前に、なんとしても道理をとおすのだという、まぎれもない純粋な気持ちに満ちている。
この純真さが花郎精神に魅了されてゆく。いさぎよく死にゆく自分の姿が、デモの最中に頭をよぎる。仲間が一緒に死のうと言えば、ほとんど躊《ちゆう》躇《ちよ》がないような気分……。韓国の学生運動に参加したことのある者ならば、誰でも一度はそんな雰囲気を味わっているものである。
この学生大衆の気分の最先端で死が選ばれている。しかし、それが焼身自殺という形をとるところには、死ぬことにおいて目立ちたいという気持ちがある。自分の心情をわかって欲しいと言うよりは、自分の存在をアピールしたいのだ。
かつての私自身のことを言えば、死ぬならば軍隊で死にたいと思っていた。そうすれば、私の死は人々に立派だと思われるだろう。その死は、普通の死ではなく国のための死であり、非日常的な死である。だからこそ、人々の記憶のなかに私が焼き付けられる——。自殺する学生運動家たちのなかにも、こうした「名誉の死」への希求があったに違いない。
花郎精神では、そのような死の希求は卑《いや》しいものであり、死はあくまで自己を無にした犠牲的な精神に基づくものとしていた。それはかつての日本の武士や軍人の「滅私奉公」に似ている。
しかし、かつての私が思った死も、デモからの連続で自殺する学生たちの死も、正義のための犠牲的な死だと主張するものの、ほんとうのところは、それが自分のための死となるような、自己主張のための死だった。
学生運動家のなかでは、「学生会長のために自分は死んでゆく」とか「民主化のためにお前は死ねるか」といった言葉が当然のように出される。韓国の大学の学生会長室は会社の社長室のように立派な部屋で、調度品や持ち物も多く、会長の身の回りの世話をする専門の部下がいる。そこでは学生会長は、かつて、若者たちのリーダーとして奉《ほう》戴《たい》された、青年貴族としての花郎であるかのようだ。