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スカートの風142

时间: 2020-07-28    进入日语论坛
核心提示:ある日本人学生の死に思ったこと悲しいのは韓国の父母であれ日本の父母であれ同じはずなのに、なぜ日本人はそれを我慢することが
(单词翻译:双击或拖选)
ある日本人学生の死に思ったこと

悲しいのは韓国の父母であれ日本の父母であれ同じはずなのに、なぜ日本人はそれを我慢することができるのだろうか? いや、なぜ我慢するのだろうか? 私はそれを単に説明的に知っているに過ぎず、感覚的に「わかった」ということができない。
韓国では人が死んだとき、声をあげて泣くし、また泣かなければならない。それは礼儀でもある。家族だけで居るときには、泣くこともなく静かにしていたとしても、客が来たならば、わざわざ声を出して泣く。それは儀式でもある。
韓国の葬儀では、慟哭を専門にする人を雇うことも稀《まれ》ではない。慟哭の専門家たちは、葬列に加わりながら、大声を張り上げて泣くのだ。
一緒に悲しみを分かち合い、少しでも悲しみを解消しようとする韓国人に対して、悲しい心の解消はできるだけ自分の内部で処理し、周りの人びとには迷惑をかけまいとする日本人。そこには、自分だけの特別な感情をあらわにすることで、他の人びとから孤立することを避けようとする、申し訳なさそうで、小さな姿を感ずることができる。日本人は明らかに、すでに亡くなった家族との関係よりも、いまに生きている人びととの関係の方を重要視している。
こんなこともあった。
何年か前の夏、学生仲間数人が連れ立っての九州旅行の途中で、一人が海に溺《おぼ》れて亡くなった事件があった。私たちは旅行を中断し、急《きゆう》遽《きよ》かけつけたご両親を迎えた。
ご両親は私たちの待機する所へやって来るや、「息子の死のために旅行を中断させることになって、ほんとうに申し訳ありません」と、何度も何度も頭を下げるのである。若かった私は、悲しみをすぐに見せようとしない親をまぢかに見て、死んでいった友がいかにも哀れで、心の底に強い反発を感じていた。
いまでも思う、そんなときに、お詫《わ》びを言う余裕はどこからくるのだろうかと。
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