韓国が家族主義の国だと言うと、日本もそうだと言う人が多い。そして、「いまの韓国の封建的な家族関係は、かつての日本と同じではないか」とも言われる。確かに半分は当たっている。しかし、残りの当たっていない半分に目を向ける日本人はとても少ないように思う。
そのため、いつも私はその残りの半分について強調することになってしまう。
韓国人が友だちをつくるとき、お互いの秘密を話し合い、きわめて緊密な関係を結ぼうとすると先にお話しした。しかしこれはよく誤解されるのだが、家族に模《も》して家族同様の親しい関係をつくろうとするものではまったくない。家族制度があまりにも強力なものであるため、なんとか家族から離陸した関係をつくろうと、そうするのである。それだけ特別な契《ちぎ》りを交わさなくては、他人どうしが互いに信用し合うことができないのである。
たとえば、次のような実話が抗日運動時代の韓半島にある。
抗日戦線を戦うある一部隊が、日本軍の背後に迫りあと一歩でその軍団を全滅させられるという状態に至った。そのとき、隊長のもとへ父親が亡くなったという知らせが届いた。そのため、隊長は即座に部隊をひきあげ、自分は国に帰って三年の間喪に服した。
この隊長は韓国では孝をつくした立派な人だと尊敬されている。これが日本であれば、私事のため敵前逃亡をはかった非国民と非難されたに違いない。もちろん戦前の日本に限らず、現在でも、家族よりも会社(家族以外の社会関係)を優先する日本人は厳然として生きている。
日本のプロ野球で、大切な試合の最中に親が亡くなり、その報告を受けながらもバッターボックスに立った選手に、よく悲しみをこらえてガンバッタと、多くのファンから称賛の声が送られたということを本で読んだこともある。韓国でならば、「なんという親不孝者か」と非難されることは火を見るよりも明らかである。
いや、私はそうではないという日本人もいる。でも話を聞いてみると、例外なく、制度としての家族をではなく、家庭という名のプライバシーを大切にしているということなのである。
私が言うまでもないことだが、韓日の伝統的な家族制度は次の点で大きく違っている。
韓国の家族制度は、血の純粋性を守ること、しかも父系の血統を持続させることが最大の目的である。一方、日本の家族制度は非血縁の参入を容認する擬似血縁の家族制度であり、血統ではなくイエの持続が最大の目的である。
したがって、日本人が「家族同様のおつき合いを」と言えば、それは「ひとつのイエのもとにいる同じメンバーのように」という意味である。
私は日本人からはじめてこの言葉をかけられたとき、何を言いたいのか意味がよくわからなくて聞き返したものだ。そして、それが言葉どおり「同じ家族のメンバーのように」の意味だと言われて、ゾッとしたことを覚えている。血のつながりを他人との間に連想して、生理的な気持ちの悪さを感じたのである。
日本の家族制度は韓国と比較すればとても緩《ゆる》やかで弱いものである。だから、友だちとの関係に強力な契りを必要とはしないのだ。そこに、韓国のように激情の通じ合いを求めることのない、淡くほのぼのとした友情が可能となっている。