現在の韓国での子どもの過保護ぶりには目をそむけたくなるものがある。小学生の時代から大学受験、就職に至るまで、母親が、いい塾はないか、どの学校がいいか、どんな仕事がこの子に向いているかと、あちこちと走りまわりながら、情報を得ては子どもに指示し、どこまでも子どもについてまわる。
何よりも文を重んじ、科挙試験への合格をすべてに優先させ、受験のための勉学へと一《いち》途《ず》に子どもを向かわせた、かつての上流階級の伝統を、近代以降に民衆が引き継いで来たことがひとつ。そして、夫の浮気に耐え、姑《しゆうと》の厳しい指示に従うことへの我慢の生活のなかで、子どもへの愛に生きることを女の最大の喜びと感じる以外になかった韓国の母の伝統がひとつ。
この二つの伝統が、消費社会にそのまますべりこみ、歪みをもった激しさで生き続けようとする姿が、現代核家族の子どもの過保護ぶりの正体である。
日本では消費社会の価値観が家族内部を攪《かく》乱《らん》し、韓国では家族の価値観が消費社会を攪乱していると、そんなふうに見えてならない。
そうした構図でたったひとつだけ、韓国の家族主義のよさを認めたいことがある。それは、日本では次のような事件がたくさんあることを知ったからである。
たとえば、ある男が犯罪を犯し、ライフルを手にビルの一部屋に立て籠もった。地の利がよいため、警察は周りを取り巻くだけで、どうにも手の出しようがない。そのとき、警察に依頼された犯人の母親が、拡声器から自分の息子に呼びかける。
「○○や、お母さんだよ、どうかこれ以上世間さまに迷惑をかけないで出て来ておくれ。そうでないと、お母さんは世間さまに申しわけが立たないよ」
これを聞いた犯人の目にはみるみるうちに涙が溢《あふ》れ、やがて、自らビルを出て、逮捕に向かう警察官におとなしく両手を差し出した——。
私はこのような事件を報道で知るたびに、何かいいようのない怒りがこみ上げて来るのを感じてしまう。韓国ではこのような母親の行動は絶対と言ってよいほど起こらないと思う。
犯罪者であろうがなんであろうが、自分の子どもである。社会では悪くとも自分にとって悪い子であるわけがない。社会が息子を裁こうとするのはわかる。が、なぜそれに母親が手を貸す必要があるのだろうか、いやなぜ日本の母親はそうできるのだろうか?
もちろん、日本人が家族を私事とし、自分たちが所属する集団を公として、公の秩序あってこその自分たちと考え、公に対しては私事を犠牲にすることをよしとする人びとだということは知っている。また、そのことのよさにも計り知れないものがある。しかし、もしかすると日本は、家族が社会秩序に従うことにあまりに批判意識を持たなかったために、現在のように社会に攪乱された家族が出現しているのではないのだろうか。
私はそんなふうに思って、韓国の家族主義によいところがあるとすれば、家族と社会とをしっかりと分けているところだと思うのである。もちろん、そのための家族エゴイズムによって、韓国にはまともな市民社会が容易につくられないままである。そうなのだが、日本のように社会が母親の威力を借りる、また母親が力を貸すという一点だけは、なぜかうまく言うことはできないが、どうにも納得することができない。
お国のために家族として動こうとする者は韓国にはいない。あくまで社会の一員としての個人として動くのである。韓国人なら誰でもそう考えるので、あえて言ってみた。
もしものときには、どうかお母さんは、あくまで家族のなかにとどまり、静かに子どものために祈ってあげていただきたいと思う。