実際、そういう現実に直面している韓国の女が友だちにいる。彼女は、二人の弟たちを大学にやって卒業させてやるためのお金を稼ぐため、三十八歳までの十数年間、結婚もすることなく、懸命に日本で働いて来た。彼女はホステスではないので、必要な仕送りをすると、自分の手元にはほとんどお金が残らない状態だった。
やっと弟たちが大学を出て、親たちから「ほんとにご苦労だった。もう迷惑はかけない、これからは自分のための人生に生きてくれ」と言われたとたんに、悩むことになってしまったのである。
自分は何のために生きてきたのか? 考えてみれば、娘時代のすべてが家族のための人生だった。恋愛をするなど頭になかったし、毎日が住み込みの働きづめで、男の人とゆっくり話す余裕もなければ、きれいな服を着るお金もなかった。
いまでは余裕が出来て、お金もたくさんあるのに、それを送る相手がどこにもいない。いったい、私はどうこれから生きればいいのか、私の人生はなんなのか——。
夜中に私のもとを訪れ、そのように嘆く彼女に、私は言葉少なく、ただあいづちを打つしかなかった。しかし、彼女はまたそういう自分の恨《ハン》を楽しんでいる。だからこそ、韓国の女たちはこれまでずっと男たちの下で生きて来ることができたのである。
私はあるとき、「これからは自分のために生きる」と言う彼女を旅行に誘った。彼女は、「はじめての日本での旅行よ」と感激しながら、土産《みやげ》もの屋では、嬉《き》々《き》として弟たちのお土産を選びたくさん買い込んでいた。彼女は、自分のために生きる、と言いながら、自分のための買物を一切することがなかった。
また、ある韓国人ホステスの話。
彼女は父親を早くなくし、弟が一人いる。やはり家族を支えるため、日本にやって来たのだった。家にはずっと仕送りを続けていたのだが、半年ほど、ビザの問題があって仕事ができず、仕送りを滞《とどこお》らせてしまった。
その間、弟が事故にあったと知らせて来ていたので、ビザの問題が解決するや、彼女はすぐに実家へ向かった、家へ帰ってみると、仕送りが途絶えたため、弟は大学を途中でやめて工場に勤めたのだったが、事故で右手首を切断してしまっていた。
彼女はそれを自分のせいにした。
「私がお金を送らなかったために、私は弟の人生をだいなしにしてしまいました。私が苦労して働いているのは弟のためなのに、弟に大学を出してやることが出来なかった、そのうえ手までなくさせてしまって……」
それも、すべてが自分の責任なのだと嘆くのである。
彼女ももはや弟の学資稼ぎの必要がなくなって、働く気力を失ってしまった。働く甲《か》斐《い》を自分は失った、いまの私は何なのかと、まるでタリョンのようなトーンで訴えるのである。
いざとなったとき女は身体を張ることができる、心に傷を受けながらでも、家族のためならば何でもできる。そうして働いて来て、その必要性がなくなったとき、女にはまるで力がなくなってしまうのだ。
また、ある赤坂の韓国人ホステスは、さんざん母親にお金を送っているのに、まだまだ送れというので、ついグチを言ってしまった。すると彼女の母親は、「わかったよ、一生安心できる老人ホームに行ってあげるよ。それならもうお前も心配ないだろうから」と言ったという。私営の高級な老人ホームで五千万ウォンが入所に必要だ、だからそのお金を送れと言うのである。
彼女は、この母親の言葉に、一晩を泣き明かしたという。母親が老人ホームに行って心配がなくなってしまえば、娘はもはや自分の生き甲斐を失ってしまう。そのことを承知の上での金せびりなのである。
日本で働くホステスのなかには、こうした仕送りの悪循環に陥っている者もいる。
結局、彼女たちは家族の犠牲となることを犠牲とは思わずに、それを親孝行と感じて嫌な仕事にも就《つ》き、そのことによって喜びを感じ、自分の人生が文字通りの犠牲であることがはっきりしたとき、生きる力を失ってゆくのだ。