韓国人が、しばしばビジネス関係と個人関係が混同しているような様子を示すのは、集団に帰属しているという意識が稀《き》薄《はく》で、「たまたま集団に参加している自分」という意識を強く押し出してビジネスを進めて行こうとするからでもある。
日本の家族制度は非血縁を含むイエとしてあり、血統ではなくイエの存続を目的とした。そうした伝統があるため、「イエ」をするりと「会社」へ移し代えることによって、近代的な会社制度をうまく受容することができた。だから日本では、会社の持続が目的であり、社長あっての会社ではなく、会社あっての社長だという、会社制度の考え方を素直に受け入れることができている。
しかし韓国の家族制度は父系の血統維持を目的としている。そこで、会社と家族は基本的に矛盾したものとなるから、会社は家族とは違った個人の寄り集まりだという、これまた近代的な会社制度そのままの考えを持つことになる。
もちろん、血縁や地縁で幹部を固めるところが多いが、それは「信用」の問題であり、韓国の家族制度の伝統が会社制度に色づけをしているのではない。色づけをしているのは家族制度ではなく身分制度である。
一人の王を唯一の所有者とし、そこを頂点にしてピラミッド状に形づくられる身分制度が、ほとんど崩れることなく強力に生き続けてきた社会の伝統——。その伝統が、北朝鮮ほどではないにせよ、韓国人の社会秩序に対する考え方には大きく働いている。だからこそ、会社ヒエラルヒーの頂点に立つ社長こそが、会社そのものでもあるという価値観が、当然のように出てくるのである。
かつて、ビジネス通訳の仕事で、ある韓国財閥の会長と日本のビジネスマンとの会合に立ち会ったとき、日本人から一様に次のような感想が出た。
「韓国人の経営者って、どうして自分の自慢話ばかりしたがるんでしょうね。まるで自分一人で会社を運営しているみたいだ。なんて威張ることの好きな人かと思いますよ」
日本側が会社の概要の説明を求めたところ、その会長は、いかに自分が苦労したかの話ばかりを延々としたのである。
日本の「社史」の多くが客観的な企業史の体《てい》裁《さい》をとっているが、韓国の「社史」には社長の一代記に多くのページを割《さ》いているものが少なくない。