技術を卑しいものと見るのもそのひとつだが、とかく韓国人は細《こま》々《ごま》としたことを嫌い、おおざっぱをよしとする。それに加えてヤンバン志向が強いので、小さな企業や店舗の経営者は、だいたいが子どもに後を継がせようとしない。継がせるに足らない小さなものと考える。そのため、日本のように、八百屋や魚屋で、その商売を何代にもわたってやってきたという店はまずない。
商店主などは、自分の仕事を小さな価値の低いものと考えて満足していない。子どもにはもっといい仕事をと考え、自分のヤンバンの夢を達成させたがるのだ。親が自分の夢を達成できなかった恨《ハン》を子どもによって溶かそうとするのである。
日本人のように、ひとつの仕事の歴史的な持続から、すばらしい製品、味、香りなど、どこにも負けないものが生まれる、といった発想はない。したがって、店の伝統を誇ることもない。歴史がつくり上げた仕事を引き受け、さらに自分が新たな仕事の歴史をつくって行こう——そう望むのではなく、常に他のもっとよい仕事をと考えているのだ。
私は蔵王の麓《ふもと》で、明治時代の初期から、代々葡萄ジュースのエキスを自家生産して売っている店に行ったことがある。みすぼらしいアバラ屋のような店だった。こんな店になぜ人気があるのだろうか? そう驚く一方で、そんなに人気があるのなら、なぜ事業を拡張し、大きく商売をしようとしないのかと思った。
同行の日本人に聞いてみた。
「大量生産で品質を落とすことを嫌がっているんだよ。だから一定量しか作らない。それで美《お》味《い》しく出来るし、作る量が少ないため、みんながこぞって買いに来るのさ」
日本の製造業が、一方で大量生産をおし進めていながら、品質を落とすことがないのはなぜなのか? 私は日本人の技術に対する姿勢の根本を見た思いがした。