やがて、その先生の作文のテストがかえってきた。見ると、言い回しなどでたくさんの減点がつけられていた。作文だから先生の考えひとつで点数をつけられるはずだ。だから、甘くしてくれることを期待してのプレゼントだったのだが、そんな手加減はまるでない。句読点の位置までも全部チェックされ、結局、履《り》修《しゆう》表にはCがついてしまった。
日本人はなんて情実のない冷たい人たちなのか、いったい、人間関係をどう考えているのだろうかと思った。すべてを理性的に処理して情を持たないのが日本人だと思いこんだ私は、その冷たさを心から憎んだ。また、これは韓国人差別ではないかとも思った。
高い香水をあげたのにもかかわらず、安いコーヒーカップを、しかもたった一組で使いものにならないものを返されたし、おまけに点数もいっそう厳しくされた——。
いまでは笑い話なのだが、当時の私が悩んだように、最近の留学生たちの多くもまた、こうした「いき違い」で悩んでいることを思うと、やはり笑うことはできない。
韓国でならば、試験の自信がないときは先生と仲よくしたりお土産をしたりすれば、いくらか手加減してくれるのが普通だ。そうしてあげることが、単なる教師ではなく情のあることの証拠となり、人間的に善いこととされるのである。また、それでなくては先生の人気がなくなる。ここでも、善と悪が韓日では正反対になってしまう。
最近知り合った、韓国の大学で日本語の先生をしていたという日本人が、韓国の学生のプレゼント攻勢のすさまじさに憤慨していた。彼女は、学生からたくさんのプレゼント攻勢にあったが、それにはいっさい振り回されなかったと言う。さすが日本人である。しかし、そうとう裏で悪口を言われたことだろう。なんと融通がきかない先生と思われたに違いない。
交通違反をしても警官にお金をあげれば、だいたいが許すか罰金を軽くしてくれる。その場合、多くの警官は、お金が欲しいというよりは、それくらいの気持ちがあるならと、人情として許すのである。ここでお説教をしておけば、罰を受けるのと同じだと考える。市民は「なんて心の大きいおまわりさんか」と思うし、警官もそういう自分に満足できるのだ。