賄賂というほどではなくとも、ともかく相手にお金や物品をあげることが、相手の気持ちを和《なご》やかなものにすることができる韓国の常識を、日本でもそのままやって失敗する韓国人は絶えない。そのような韓国人の行為が、日本人には喜劇的に見えるのだが、見えない部分で韓国人が味わっているのは悲劇である。
その典型的なひとつの例をお話ししてみたい。
あるとき、日本に駐在する韓国人ビジネスマンの奥さんから、こんな相談を受けた。
彼女は小学校五年生の息子を、日本人の学校に通わせていた。自分が日本の教育レベルの高さに興味を持っていることと、日本人との交流で国際的な感覚を子どもに身につけさせたいというのが目的である。
しかし、入学して少したつと、息子が毎日いじめられて帰って来るようになった。彼女は子どもがうまく日本語ができないからと、たまに息子について学校へ行くことがある。また、自分の子どもと仲よくしてもらいたいからと、他の子どもたちと遊ぶこともよくある。さらには、子どもたちを家に呼んで御《ご》馳《ち》走《そう》したり、そのたびにノートとか日記帳などのプレゼントをしていた。それなのに、なぜ? と彼女は思った。
息子がちょくちょく泣きながら帰ってくるので、ある日学校へ行ってみると、クラスの子どもたちが彼女の息子を、鉛筆でつついたり、筆箱を足で踏みつぶしたりしていじめている。彼女は子どもたちに、やさしい声で「いじめちゃいけないわよ、みんないい子ね、この子と遊んでやってね」と言い、いじめている子どもたちみんなにチョコレートを配ったのである。
それなのに、最近ますますいじめが激しくなってきた——。
話し終わると、彼女は実に悲しそうな表情で、次のように言うのである。
「日本人は植民地時代に朝鮮人差別をしただけではないんですね。もともと日本人の血のなかには、人を差別する汚い血が流れているようですね。どうしたらいいんでしょうか」
話をさらに聞いてみると、彼女は、息子が日本語がうまくできないので、当然試験の点数も悪くなる、だからこそと、服装は他の子どもたちより高級で綺《き》麗《れい》なものを着せ、晴れやかな心でいさせてやろうと思っていたと言う。韓国ならば目立たない子がいじめを受けやすいが、日本では反対となることを彼女は知らない。
韓国の小学校では、母親たちが少しでも目立つ子になって欲しいと、できるだけ他人よりも目立つ服装をさせて、子どもたちを学校へ通わせている。日本ではほとんど似たような服装をさせ、韓国人とは反対に、できるだけ特別な目立ちをしないようにと気を配る。
服装も原因のひとつかもしれないが、もっと重要なことは、彼女の子どもたちへのプレゼント攻勢である。これが子どもたちに、何か気持ちの悪い感じを抱かせたのだと思う。「仲よくしてやって」とプレゼントをくれる親など日本にはいやしないからだ。たぶん子どもたちはそのことを親に話したことだろう。そして、もらってはいけませんと叱《しか》られたに違いない。そこで、この母子が、クラスの子どもたちにとっては完全な異人化をとげてゆく。
私は韓国人差別などではないと思う。逆に、韓国の学校に日本人の子どもが入った場合のことを想像してみれば、同じようないき違いのなかで、日本人の子がいじめられることになるに違いない——そういう問題だと思う。
習俗とか文化とかの無意識に規制されて自然に出る人間の仕《し》草《ぐさ》、言葉、態度……。それがそれぞれ異なる二者の間でのやりとりが、どこかで大きなくい違いに発展するとき、お互いに相手に対して異人という意識が生まれる。これは私の日本体験から感じることである。
その、ほとんど生理的な反応が、子どもの場合には正直に、だからこそ残酷なまでに出てしまうのだ。
私はそのようなことを念頭に、彼女に対して、差別とは別の問題があるから、まず息子の服装をみんなと同じようなものにあらため、プレゼントをやめ、それから先生に相談した方がいいと意見を述べた。でも、彼女は私の言うことが理解できないと言い、やがて息子を韓国人学校へ転校させてしまった。
韓国人をはじめ、多数の外国人たちの流入がはじまった日本は、いやでも「異人問題」と、真っ向から取り組まなくてはならない時代を迎えている。外部から流れて来る異質なものを受け入れ、それを自らのものと混ぜ合わせることで独自の文化をつくりあげて来た日本。あらゆるものを受け入れて来て、ようやくその最後のものが「人」となって、いま、目前の課題となっている。