私が大学をやめたのは昭和三十一、二年ごろだったと思う。
授業料の未納が重なると、文学部の廊下にずらりと名前が張り出される。そのうち、あわてて月謝を納めた者の名前の上に、赤インクで棒が引かれ、何名かの未納者の名前だけがぽつんと残るのだった。
私の同級生たちが卒業する頃に、私は学校を去った。そのため、いつまでたっても連中と一緒に学校を出たという印象が強い。
その頃、といっても、その前後からそうだったかも知れない。実に大変な就職難の時代だった。
政経や商学部の連中でさえ、なかなかまともに勤めるのが難《むず》かしかった時期である。まして、ロシア文学専攻、などという妙な学生たちに、それらしき就職先が待っていようはずがなかった。
私の親友の一人、仮にIとしておこう。Iは、北陸の富山の出身である。高校時代はバスケットで鳴らしたスポーツマンで、同時にドストエフスキイの熱烈な読者であるという独特の快男子だった。
Iにまつわるエピソードは無数にある。無言でいる時は地下生活者の横顔の厳《きび》しさをもち、笑えばナタマメ煙管《ぎせる》の一番よく似合いそうな無縫の人物であったが、時に初対面の他人に真価を理解されないうらみがあった。
Iは前に露文を受けて一度失敗していた。それは学力のためではなかった。のちにある先生からうかがったのだが、面接の際の某教授の心証がマイナスに働いたためだそうだ。たまたまその極度のハスキーボイスと、ドストエフスキイの作中人物のごとき風貌《ふうぼう》が、ある老先生をおびえさせたのだという。
ちょうど折しも、早稲田で学生運動と関連した事件が続発している時期だったので、先生方も極度に神経質になっておられる時代だったのがIの不運だった。
こういう面構《つらがま》えの男を入れたら何をやらかすかわからん、という凄《すご》味《み》のようなものがIの第一印象にあったのかも知れない。
入学の際に不運だったIは、卒業の際にも悪い時期にめぐりあった。
すでに郷里の北国から美しい恋人を上京させていたIは、就職運動にも疲れ、運を天にまかせたといったあきらめの表情で、中央線沿線のパチンコ屋に日参していたようだ。
いよいよ卒業をひかえた或《あ》る日、私たち友人に向ってIがつきつめた表情で言った。
「おれ、オデン屋かバーでもやってみようと思うんだが」
私たちは全員双《もろ》手《て》をあげて賛成した。彼が店を開けば、私たちは連日その店に押しかけて倒産させたかも知れない。中には、その店の従業員として使ってくれるように、売りこんでいた級友もいた。
その資金を彼は郷里の父君に相談したらしい。ご存知の通り万金丹《まんきんたん》の富山である。彼の家も売薬に関係した家業だった。父君は、彼のために、売薬の帳面を何冊か処分すると言ってくれたそうだ。売薬の帳面とは、私の勝手なネーミングで、正しくは何というのか知らない。
とにかく、全国津々浦々、その帳面をたよりにおとくい先を回って、薬を箱に補給したり、集金したりする帳面である。それを売ることは、同時に権利を売ることになるのであろう。当時でさえも、その帳面は高い金で売買されたもののようだ。
露文科でドストエフスキイに関する優《すぐ》れた卒論を書いたIが、売薬の帳面を売ってオデン屋の経営者になるというのは、なかなか味のある生き方だったと思う。
彼は私たちの級友の中で、最もデラックスな職場を持ちそうになったわけで、私たちは皆、彼をうらやんだものだった。私はといえば卒業証書を持っていてさえも就職できない時期に、大学抹籍《まっせき》の学歴でまともな職にありつけるわけがなかった。
しかし、その頃から、少しずつ世の中の風向きが変りはじめたらしい。週刊誌ブームとテレビ時代の本格化が、文学部出身の学生たちに新たな職場を開いてくれたのである。
私たちの級友は、少しずつ売れて行った。新聞社や雑誌社とならんで、民間放送局に採用される仲間がぽつぽつ現われて来た。Iも、また、当時関西に開局した某テレビ局に入社して、オデン屋への道は挫《ざ》折《せつ》した。
数年たって、会ったとき彼は第一線のディレクターとして活躍していた。私たちは、かつて学生時代の古戦場だった中野北口の呑《の》み屋《や》で再会した。Iはその頃、野球中継の仕事をやっており、南海の杉浦のカーブをどのようなカメラ・アングルでとらえるかについて、声涙ともにくだらんばかりの熱心さで喋《しゃべ》りつづけた。
私はIに作家としての最も重要な資質を見ており、文学をやっても良い仕事のできる男だと信じていた。それだけに、またかすかな淋《さび》しさを感ぜずにはいられなかった。
その後、Iとは時々会う機会があった。あれから十数年たって大阪のテレビ局で顔を合わせると、彼の頭がすっかり若白《わかじら》髪《が》でおおわれているのに私は驚かされた。もともとそういう資質だったのだが、私にはそれだけとは思えない。あの時代に卒業したり、卒業しそこねた連中は、みんな心の中のどこかに、そんな若白髪でおおわれた部分を持っているような気がする。
最近、私たちの年代、つまり昭和初年あたりから十年位までの間に生れた世代が、あちこちで目立って活溌《かっぱつ》な仕事ぶりを示しているような印象がある。
これまで機を得なかった世代が、ようやく長い沈潜の時代をくぐって、再登場してきたと感じるのは手前勝手な想像であろうか。
授業料の未納が重なると、文学部の廊下にずらりと名前が張り出される。そのうち、あわてて月謝を納めた者の名前の上に、赤インクで棒が引かれ、何名かの未納者の名前だけがぽつんと残るのだった。
私の同級生たちが卒業する頃に、私は学校を去った。そのため、いつまでたっても連中と一緒に学校を出たという印象が強い。
その頃、といっても、その前後からそうだったかも知れない。実に大変な就職難の時代だった。
政経や商学部の連中でさえ、なかなかまともに勤めるのが難《むず》かしかった時期である。まして、ロシア文学専攻、などという妙な学生たちに、それらしき就職先が待っていようはずがなかった。
私の親友の一人、仮にIとしておこう。Iは、北陸の富山の出身である。高校時代はバスケットで鳴らしたスポーツマンで、同時にドストエフスキイの熱烈な読者であるという独特の快男子だった。
Iにまつわるエピソードは無数にある。無言でいる時は地下生活者の横顔の厳《きび》しさをもち、笑えばナタマメ煙管《ぎせる》の一番よく似合いそうな無縫の人物であったが、時に初対面の他人に真価を理解されないうらみがあった。
Iは前に露文を受けて一度失敗していた。それは学力のためではなかった。のちにある先生からうかがったのだが、面接の際の某教授の心証がマイナスに働いたためだそうだ。たまたまその極度のハスキーボイスと、ドストエフスキイの作中人物のごとき風貌《ふうぼう》が、ある老先生をおびえさせたのだという。
ちょうど折しも、早稲田で学生運動と関連した事件が続発している時期だったので、先生方も極度に神経質になっておられる時代だったのがIの不運だった。
こういう面構《つらがま》えの男を入れたら何をやらかすかわからん、という凄《すご》味《み》のようなものがIの第一印象にあったのかも知れない。
入学の際に不運だったIは、卒業の際にも悪い時期にめぐりあった。
すでに郷里の北国から美しい恋人を上京させていたIは、就職運動にも疲れ、運を天にまかせたといったあきらめの表情で、中央線沿線のパチンコ屋に日参していたようだ。
いよいよ卒業をひかえた或《あ》る日、私たち友人に向ってIがつきつめた表情で言った。
「おれ、オデン屋かバーでもやってみようと思うんだが」
私たちは全員双《もろ》手《て》をあげて賛成した。彼が店を開けば、私たちは連日その店に押しかけて倒産させたかも知れない。中には、その店の従業員として使ってくれるように、売りこんでいた級友もいた。
その資金を彼は郷里の父君に相談したらしい。ご存知の通り万金丹《まんきんたん》の富山である。彼の家も売薬に関係した家業だった。父君は、彼のために、売薬の帳面を何冊か処分すると言ってくれたそうだ。売薬の帳面とは、私の勝手なネーミングで、正しくは何というのか知らない。
とにかく、全国津々浦々、その帳面をたよりにおとくい先を回って、薬を箱に補給したり、集金したりする帳面である。それを売ることは、同時に権利を売ることになるのであろう。当時でさえも、その帳面は高い金で売買されたもののようだ。
露文科でドストエフスキイに関する優《すぐ》れた卒論を書いたIが、売薬の帳面を売ってオデン屋の経営者になるというのは、なかなか味のある生き方だったと思う。
彼は私たちの級友の中で、最もデラックスな職場を持ちそうになったわけで、私たちは皆、彼をうらやんだものだった。私はといえば卒業証書を持っていてさえも就職できない時期に、大学抹籍《まっせき》の学歴でまともな職にありつけるわけがなかった。
しかし、その頃から、少しずつ世の中の風向きが変りはじめたらしい。週刊誌ブームとテレビ時代の本格化が、文学部出身の学生たちに新たな職場を開いてくれたのである。
私たちの級友は、少しずつ売れて行った。新聞社や雑誌社とならんで、民間放送局に採用される仲間がぽつぽつ現われて来た。Iも、また、当時関西に開局した某テレビ局に入社して、オデン屋への道は挫《ざ》折《せつ》した。
数年たって、会ったとき彼は第一線のディレクターとして活躍していた。私たちは、かつて学生時代の古戦場だった中野北口の呑《の》み屋《や》で再会した。Iはその頃、野球中継の仕事をやっており、南海の杉浦のカーブをどのようなカメラ・アングルでとらえるかについて、声涙ともにくだらんばかりの熱心さで喋《しゃべ》りつづけた。
私はIに作家としての最も重要な資質を見ており、文学をやっても良い仕事のできる男だと信じていた。それだけに、またかすかな淋《さび》しさを感ぜずにはいられなかった。
その後、Iとは時々会う機会があった。あれから十数年たって大阪のテレビ局で顔を合わせると、彼の頭がすっかり若白《わかじら》髪《が》でおおわれているのに私は驚かされた。もともとそういう資質だったのだが、私にはそれだけとは思えない。あの時代に卒業したり、卒業しそこねた連中は、みんな心の中のどこかに、そんな若白髪でおおわれた部分を持っているような気がする。
最近、私たちの年代、つまり昭和初年あたりから十年位までの間に生れた世代が、あちこちで目立って活溌《かっぱつ》な仕事ぶりを示しているような印象がある。
これまで機を得なかった世代が、ようやく長い沈潜の時代をくぐって、再登場してきたと感じるのは手前勝手な想像であろうか。
私は金沢に住んでいるため、つい最近まで11PMという高名なテレビ番組を知らなかった。
金沢ではNHKと、北陸放送の二つのチャンネルしか視聴できないからである。北陸放送では11PMをネットしていない。
だから私は週刊誌のグラビアであのA女史とか、K先生とかを知っているだけだった。先日、Iに会ったとき、私はその話をした。
「なるほど、日本中の連中が自分らのやってる番組を知ってると思いこむのは危険なことだな」
と、彼はうなずいて言った。そんな話をしながら、私はふと、そんな話をしている現在という時代が、どれほどあの十年前とかけはなれた地点まで来ているかを感ぜずにはいられなかった。
もしあの当時、民間テレビだとか、出版社系週刊誌だとかいった門戸が出現しなかったとすれば、Iと私は間違いなくオデン屋か酒場のマスターとして再会していただろう。さしずめ私は偽《にせ》洋酒を売りこみに行くインチキ・ブローカーにでもなっていたに違いない。そして、私たちは客の帰ってしまった店のカウンターで、グラスを傾けながら、とりとめのない話題にふけることだろうと思う。その時の私たちの話題はどんなものだったろうか、と考えた。
その日、TV局のあわただしいロビーで、タレントのA女史や、踊りのうまいUという子や、歌い手のKや、司会者のF氏などを私は見た。
私には、その人々が、なぜか遠い遠い国の異国の人間のように見えた。たぶん私は、その時、十年前のあの時代の空気の中にわずかながら再帰していたのではないかと思う。
タイムマシーンで過去にさかのぼったような感覚が、私の中にあった。そして、私は、そのあわただしいロビーにいて、自分たちが売薬の帳面を売ってオデン屋を始める相談をしている二人のとまどった学生であるような錯覚をおぼえていた。やがて、遠くまで来た、という感慨が一瞬後によみがえって来た。
金沢ではNHKと、北陸放送の二つのチャンネルしか視聴できないからである。北陸放送では11PMをネットしていない。
だから私は週刊誌のグラビアであのA女史とか、K先生とかを知っているだけだった。先日、Iに会ったとき、私はその話をした。
「なるほど、日本中の連中が自分らのやってる番組を知ってると思いこむのは危険なことだな」
と、彼はうなずいて言った。そんな話をしながら、私はふと、そんな話をしている現在という時代が、どれほどあの十年前とかけはなれた地点まで来ているかを感ぜずにはいられなかった。
もしあの当時、民間テレビだとか、出版社系週刊誌だとかいった門戸が出現しなかったとすれば、Iと私は間違いなくオデン屋か酒場のマスターとして再会していただろう。さしずめ私は偽《にせ》洋酒を売りこみに行くインチキ・ブローカーにでもなっていたに違いない。そして、私たちは客の帰ってしまった店のカウンターで、グラスを傾けながら、とりとめのない話題にふけることだろうと思う。その時の私たちの話題はどんなものだったろうか、と考えた。
その日、TV局のあわただしいロビーで、タレントのA女史や、踊りのうまいUという子や、歌い手のKや、司会者のF氏などを私は見た。
私には、その人々が、なぜか遠い遠い国の異国の人間のように見えた。たぶん私は、その時、十年前のあの時代の空気の中にわずかながら再帰していたのではないかと思う。
タイムマシーンで過去にさかのぼったような感覚が、私の中にあった。そして、私は、そのあわただしいロビーにいて、自分たちが売薬の帳面を売ってオデン屋を始める相談をしている二人のとまどった学生であるような錯覚をおぼえていた。やがて、遠くまで来た、という感慨が一瞬後によみがえって来た。