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風に吹かれて04

时间: 2020-07-29    进入日语论坛
核心提示:歌はどこへ行ったか? 私が早稲田にはいって、最初に覚えたのは、〈国際学連の歌〉というやつだった。九州の地方の高校からやっ
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歌はどこへ行ったか?

 私が早稲田にはいって、最初に覚えたのは、〈国際学連の歌〉というやつだった。
九州の地方の高校からやってきた私にとって、その歌は一種の驚きだった。それまでに知っている歌といえば、軍歌と、流行歌と、外国民謡ぐらいのものだったからである。
戦争中は、〈ああ、特幹の太刀《たち》洗《あらい》……〉とか、〈轟沈《ごうちん》、轟沈、凱《がい》歌《か》があがりゃ……〉などと、ボーイ・ソプラノで歌っていた。
敗戦直後に覚えたのは〈……ウリ・ナラ・マンセイ〉とかいう朝鮮語の歌である。その歌は〈螢《ほたる》の光〉のメロディーなので、歌いやすかった。
引揚船のリバティの甲板《かんぱん》で、〈リンゴの唄《うた》〉というやつを教わった。仁川《じんせん》から乗った船に、コレラが発生して、博多《はかた》港外で長い間ストップをくらっていた時期だ。船の横っ腹から流れだす黄色の排泄物《はいせつぶつ》を、大きな魚が群がって食っていた。私は〈赤いリンゴに唇《くちびる》よせて……〉と口ずさみながら、それを見ていた。その時以来、私はチンという魚が苦手である。
九州に引揚げてきてからは、何を歌っていたのだろう。中学で音楽の時間に、〈追憶〉などという名曲を教わった記憶がある。〈星影さやけく またたくみ空……〉などと鼻歌を歌いながら芋掘りをやったものだった。英語の時間をつぶして、農業の実習にあてるのは農村の中学では、めずらしい事ではなかった。
当時、町の映画館で顔を切られた事があった。高校の徽章《きしょう》を刃物のようにといで、学帽につけている荒っぽい少年がいた。その帽子でビシッと顔を叩《たた》かれて、外へ出て見ると血が流れていた。その時かかっていた映画は、折原啓子という女優さんのメロドラマだった。〈……白い指先 入日がにじむ〉というメロディーを、今でも忘れないのは、その曲が、あの小事件のBG音楽だったせいだろう。
上京して間もなく、メーデー事件がおこった。続いて早大事件にぶつかった。
〈国際学連の歌〉は、その頃に覚えた。ほかにも続々と新しいレパートリイが増《ふ》えた。
〈憎しみのるつぼに 赤く燃ゆる……〉という革命歌は、当時の陰惨な文学部地下のせまい部屋に、よく似合った。生協の売店では、煙草を一本何円かでバラ売りしていた時代である。
〈若き親衛隊〉〈シベリア物語〉などのソ連名画が、大学で人気を集めていた。当時の私たちのナンバーは、〈シベリア大地の歌〉であり、〈バルカンの星の下に〉だった。気のきいた連中は、それをロシア語で歌った。学内では、〈自由舞台〉や〈劇研〉などが活溌《かっぱつ》な活動を続けていた。東京中の大学が、一種の高揚期、または躁《そう》状態にあった時期だったように思う。
友人のコミュニストが、当時、戸塚にあった〈らんぶる〉という名曲喫茶にしばしば通うのを、ブルジョア的であると、厳《きび》しく批判された時代である。
「おれはショスタコーヴィッチの〈森の歌〉を聞きに行ってるんだ。文句があるか」
と、彼は反論して相手をへこませたのだそうだ。
そんな中で、私はどこでどう間違ったか、ジャズや流行歌に興味をもちだした。ジャズなどというものは、アメリカ帝国主義末期の退廃文化のように言われていた時代だった。
私たちのグループは、しばしば銀座の〈テネシー〉だとか、高円寺の〈カブス〉だとか、渋谷の〈スイング〉だとかに通った。当時はディキシーランド・ジャズの活気があったころで、私たち初心者にもわかりやすいジャズが多かった。
私たちは当時、〈現代芸術の会〉というグループを作って、薄っぺらなパンフレットなどを発行していた。今にして思えば、私たちは、やはり一種の異端分子だったらしい。
〈凍河〉という露文科のクラス雑誌に、私は奇妙な〈毛沢東の文芸講話〉批判を書いている。私の立場は、基本的には今も変らないが、その文章に、ユーグ・パナシェの〈リアルジャズ〉の一部を引いているあたりが苦笑ものである。
アンドレ・ブルトンや、レーニンや、ロベルト・ゴーファンなどが五目ソバみたいにごたまぜになっているところが、私たちの会の面白さだった。
〈ホット・ペッパーズ〉が当時の私たちの親しいジャズバンドだった。のちに〈ディキシー・キングス〉に移った石川順三という地味なクラリネット奏者もアイドルの一人だった。なんでも予科練あがりのジャズメンだそうで、彼についてこんな話を聞いたことがある。
彼がまだプロになる以前、部屋で一生懸命にクラリネットを練習していると、見知らぬ客が現われた。「通りすがりに聞いたのだが、あんたの演奏は素晴らしい」と、その男は言ったそうだ。
「あなたはジャズの天分がある。どうかね、わしのバンドで吹いてみんかね」
アメリカのジャズ物語によくある話だが、石川青年は興奮した。早速その男について行くと、そのバンドというのが、大売出しのチンドン屋の楽隊だった、という話。
嘘《うそ》か本当か、私は知らない。だが、そんな伝説がぴったりくるようなプレイヤーだった。
〈シックス・ポインツ〉の森享《とおる》氏も、私たちのごひいきの一人だった。石川氏も、森氏も、私は個人個人に面識はない。当時、私たちは恐らくジャズを音楽としてではなく、一種の抗毒素のように服用していたのだろうと思う。
私たちは〈憂鬱《ゆううつ》なる党派〉ではなく、〈滑《こっ》稽《けい》なる党派〉をめざしていたのだった。
〈卑怯者《ひきょうもの》去らば去れ……〉といった歌声のパセティックな響きに、すっとぼけたディキシーのシンコペイションを対置しようと企《たくら》んでいたのだろう。
メーデーのプラカードに、
「原爆で殺すな キッスで殺せ!」
というコピーをかかげて、不真面目《ふまじめ》だと物議をかもしたのも私たちの仲間だった。当時そんな題のアメリカ映画が来ていたのを、もじった文句である。
その頃になると、〈国際学連の歌〉の悲壮な調子は、すでに私の心をとらえなくなっていた。私たちは中野界隈《かいわい》に基地をおく深夜のゲリラ化しており、友人のNは、その地区のサンドイッチマン組合の輝かしい創始者の一人として威勢をふるっていた。
最近の広告代理店時代に先がけて、彼が作ったユニオンは、〈ラグタイム宣伝広告社〉といった。
営業的には成功しなかったが、それは私たちが常に数周早過ぎるランナーだったためではないかと思う。
今はもうないが、中野北口、内外劇場手前の、〈ルドン〉という酒場が、私たちの基地だった。青春の追憶というやつは、物理的に甘美なものになりがちなものだが、この〈ヘルドン〉をめぐる一時期は、それだけで優に一編の物語が書けるだろう。
先日〈カルチェ・ラタンからモンマルトルへ〉という本をめくっているうちに、私はいつの間にか当時の中央線沿線の夜々を思いだしていた。
かつて、ある批評家が「過去を語らぬ」というスタンダールのモットーを信条としている、と書いているのを読み、感動したことがあった。私も、自分の過去を語りたくはない。たとえ、いかに客観的に書かれたとしても、自分について語る部分は、偽善か、偽悪かの匂《にお》いが漂うだろうと思う。
だから、私は、私をめぐる当時の風俗の表皮について、その記憶について書きたいと思う。そして、また、現在の私の漂流地点における個人的な感慨について書いてみたい。
いま、私はまたもや自分の歌を見失おうとしている。〈浪曲子《こ》守唄《もりうた》〉から〈がんばろう〉まで、〈○○灯油の唄〉から〈雨を汚したのはだれ?〉まで、目のくらむような亀《き》裂《れつ》をのぞきこみながら、歌うのをやめている。私の歌はどこへ行ったか? それを探《さが》すために、過去をふり返ってみるのも悪くはあるまい。
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