直木賞をもらった後で、いろんなかたから祝電をいただいた。先輩作家の方々からのものもあり、編集者や、未知の読者からのもある。赤い祝電の山の中に、灰色の弔電がなかったことが私をほっとさせた。というのは、以前ある雑誌の新人賞に決った当日、私の家人に不幸があり、お通夜《つや》の席にどっと祝電が殺到して大騒ぎになった経験があるからである。今回はその点、混乱はなかった。顔なじみの電報配達氏がニコリともせずに「こんどは赤だけです」と言い「よかったですね」とつけ加えた。よかった、と私も思いながら少し物足りない感じもした。
祝電の中に、横田瑞穂先生からのものもあった。賞をもらって良かった、とまたそのとき思った。文学賞についての、花田清輝氏の否定的なエッセイが頭に残っていたからである。
横田先生は、私が早稲田の露文科に入学し、はじめて教えを受けた先生である。昭和二十七年の、メーデー事件、早大事件と、いろいろ問題の多い年だったから、教室も何となく落ちつかぬ感じだった。学生たちも貧しかったし、私の考えでは先生も経済的には決して楽な時代ではなかったように思う。
私たちがロシア語の厄介な変化に疲れてくると、先生は授業をやめ、一服するのだが、この時間がとても良かった。
くしゃくしゃのたばこの袋から貴重品であるかのごとく一本を抜き出し、さらにそれを半分にちぎって火をつける。ちぎった半分はまた大事そうに袋にもどされた。そのもどす際の真剣な動作が、私にはおもしろかった。先生はまだその時分、助教授にもなっておられなかったはずだし〈静かなドン〉の名訳も世に出てはいなかった。
私自身、ひどく貧乏していたが、先生がそんなふうなので、こちらも気が楽だった。
どうにもならなくなると、私はしばしば京成電車に乗って、青《あお》砥《と》だったか立石《たていし》だったか、あの辺の製薬会社に血を売りに行って急場をしのいだ。ある冬の午後、やはり売血を終えて上野から高田馬場へ出た。授業に出るつもりで来たのだが、気分的に疲れていてどうも学校まて歩く気がしない。駅から学校まで二、三十分はかかるので、思いきってスクールバスに乗ることに決めた。学校まで片道十円、往復だと十五円になる。私たち学生はほとんど歩いていたし、それまで私はバスに乗ったことはなかった。それはたいへんなぜいたくのように思えた。だが、自分の血をガソリンに代えるだけだと考えると少し気が楽になった。
戸塚のロータリーを過ぎたあたりで、ふと窓の外に横田先生の後ろ姿が目にはいった。黒っぽいオーバーを引きずるようにして、時代もののカバンを下げ、少しねこ背の先生は、古いチャップリン映画にでも出てきそうな、疲れた感じで歩いておられた。
何ぶん初めてのバス旅行とあって、窓から首をつきだしてキョロキョロしていた私は、一瞬、ひどく狼狽《ろうばい》した。だが、まったくの偶然にちがいないが、その時ひょいと先生がバスを振り返って、私と目が合ったのである。
その時の先生の目の色を、私は今でもはっきりと思い出すことができる。時々ひどくこわい感じになる目だが、その時はちがった。
「やあ、バスに乗ってるな。いくらか景気がいいんだね。よかったなあ」
といった優しい感じでもあり、
「ぼくは今ちょいと景気が悪くてね。今日は歩きさ。風が冷たいねえ」
と自嘲《じちょう》されているようでもあった。私はどうにも身のおき所がなくて、もじもじし、もう血を売った日でもバスに乗るのはやめようと考えていた。寒い、風の強い日の午後だった。
米川《よねかわ》正夫氏とか、除村《よけむら》吉太郎氏とかいった先生たちは遠くにいたが、横田先生は私たちの近くにいた。私は先生の訳でゴーリキイや、ゴーゴリの短篇を読んだ。
〈静かなドン〉の完訳は、私が学校を追い出されてから、ずっと後に出た。見事な美しい日本語であり私は感動したが、そのとき思ったのは、これで先生はいつもスクールバスに乗られるかもしれない、ということだった。
金沢で先生からの祝電をいただいて、賞をもらって良かったと感じた。いつか、機会があれば早稲田をおとずれて、ご一緒にスクールバスに乗ってみたいものだと思う。
祝電の中に、横田瑞穂先生からのものもあった。賞をもらって良かった、とまたそのとき思った。文学賞についての、花田清輝氏の否定的なエッセイが頭に残っていたからである。
横田先生は、私が早稲田の露文科に入学し、はじめて教えを受けた先生である。昭和二十七年の、メーデー事件、早大事件と、いろいろ問題の多い年だったから、教室も何となく落ちつかぬ感じだった。学生たちも貧しかったし、私の考えでは先生も経済的には決して楽な時代ではなかったように思う。
私たちがロシア語の厄介な変化に疲れてくると、先生は授業をやめ、一服するのだが、この時間がとても良かった。
くしゃくしゃのたばこの袋から貴重品であるかのごとく一本を抜き出し、さらにそれを半分にちぎって火をつける。ちぎった半分はまた大事そうに袋にもどされた。そのもどす際の真剣な動作が、私にはおもしろかった。先生はまだその時分、助教授にもなっておられなかったはずだし〈静かなドン〉の名訳も世に出てはいなかった。
私自身、ひどく貧乏していたが、先生がそんなふうなので、こちらも気が楽だった。
どうにもならなくなると、私はしばしば京成電車に乗って、青《あお》砥《と》だったか立石《たていし》だったか、あの辺の製薬会社に血を売りに行って急場をしのいだ。ある冬の午後、やはり売血を終えて上野から高田馬場へ出た。授業に出るつもりで来たのだが、気分的に疲れていてどうも学校まて歩く気がしない。駅から学校まで二、三十分はかかるので、思いきってスクールバスに乗ることに決めた。学校まで片道十円、往復だと十五円になる。私たち学生はほとんど歩いていたし、それまで私はバスに乗ったことはなかった。それはたいへんなぜいたくのように思えた。だが、自分の血をガソリンに代えるだけだと考えると少し気が楽になった。
戸塚のロータリーを過ぎたあたりで、ふと窓の外に横田先生の後ろ姿が目にはいった。黒っぽいオーバーを引きずるようにして、時代もののカバンを下げ、少しねこ背の先生は、古いチャップリン映画にでも出てきそうな、疲れた感じで歩いておられた。
何ぶん初めてのバス旅行とあって、窓から首をつきだしてキョロキョロしていた私は、一瞬、ひどく狼狽《ろうばい》した。だが、まったくの偶然にちがいないが、その時ひょいと先生がバスを振り返って、私と目が合ったのである。
その時の先生の目の色を、私は今でもはっきりと思い出すことができる。時々ひどくこわい感じになる目だが、その時はちがった。
「やあ、バスに乗ってるな。いくらか景気がいいんだね。よかったなあ」
といった優しい感じでもあり、
「ぼくは今ちょいと景気が悪くてね。今日は歩きさ。風が冷たいねえ」
と自嘲《じちょう》されているようでもあった。私はどうにも身のおき所がなくて、もじもじし、もう血を売った日でもバスに乗るのはやめようと考えていた。寒い、風の強い日の午後だった。
米川《よねかわ》正夫氏とか、除村《よけむら》吉太郎氏とかいった先生たちは遠くにいたが、横田先生は私たちの近くにいた。私は先生の訳でゴーリキイや、ゴーゴリの短篇を読んだ。
〈静かなドン〉の完訳は、私が学校を追い出されてから、ずっと後に出た。見事な美しい日本語であり私は感動したが、そのとき思ったのは、これで先生はいつもスクールバスに乗られるかもしれない、ということだった。
金沢で先生からの祝電をいただいて、賞をもらって良かったと感じた。いつか、機会があれば早稲田をおとずれて、ご一緒にスクールバスに乗ってみたいものだと思う。