あれは去年の夏のことだったと思う。
私は、ある雑誌社の編集者に連れられて、銀座の〈M〉という酒場にいた。いわゆる銀座の高級バーに客として足を踏み入れた事は、それまで一度もなかった。そのため、私はいささか身心の平衡を失っていた。つまり、固くなっていたわけである。
私が緊張していたのは、左右に坐っている女性たちのためではなかった。私は、それまで、かなり長い間、女性たちを見て来ていた。SKDや、日劇の踊り手さんたちのために、放送台本を書いていた時期もある。またCMや、テレビや、レコードの世界にもいた。そのため、美しい女を見て動揺するようなナイーブな感性は、ほとんど失ってしまっていた。私が固くなっていたのは、その店のそこここに発見できる知名な客たちのためだった。
そこには、私がそれまで活字か写真でしか知らなかった、作家や、ジャーナリストたちが幾人もいた。その夏、はじめて文学賞の候補になり、落ちたばかりの私には、そこはかなり気の張る場所だったのである。私はやはりあがっていたのだろう。その晩、どういう人と会ったか、どんな会話を交《か》わしたか、ほとんど憶《おぼ》えていない。
ただひとつ、妙に鮮明に記憶にのこっている印象があった。それは、私の前に坐っていた、初対面の立原正秋さんが、その店の女性と交わした断片的な数語である。
「君、その立原先生《・・》という奴《やつ》はやめてくれないか」
「そう? だったら何と呼べばいいの?」
「立原さんでいいじゃないか」
「だって——」
その夏、直木賞を受けたばかりの立原さんは、その店でも少しも気押された風《ふ》情《ぜい》はなく、のびのびと振る舞っていた。だが、店の女性に先生、先生と連呼される事に対する含羞《がんしゅう》の表情が、ふともらした言葉の響きにあった。
〈正直な人なんだな〉
と、私は思い、その不敵な面構《つらがま》えの背後にある純粋なものを見たような気がした。
だが立原さんの言葉が、妙に頭にのこっているのは、その時、私が感じたあるうしろめたさのためである。私ならそんな場合どう応ずるだろうと考えたのだった。
私なら、たぶん、——先生、と呼ばれてもべつに何とも感じなかっただろうと思う。先生、という言葉の響きに対するイメージが、私の場合は、すっかり変ってしまっていたからだ。私は、自分を、ひどいすれっからしの中年女のように感じて、いやな気がした。
私は、それまで、先生、と呼ばれる事になれっこになっており、その言葉に対する正常な語感を失ってしまっていたように思う。
それまで、私が生きてきた世界では、先生という言葉が、よそとはかなり違った感じて用いられていた。
私は現在でも、あるレコード会社に作詞者としての専属契約が残っているが、ここでは社のアーチストは、すべて先生と呼ばれていた。作詩家、作曲家は、年齢、キャリアの如《いか》何《ん》にかかわらず、みな先生、だった。
先生の中にも、大先生と、木っ葉先生がいるのは、いたしかたない。だから、ディレクターや、社員たちが、彼らを呼ぶ時のニュアンスは、すこぶる微妙なものがあった。
「何とかひとつ良い歌をお願いしますよ、先生」
と、こんな具合に敬意をこめて発言される場合もあるが、そうでない時も多い。
何年たっても一曲も書かせてもらえぬ先生たちが、制作室の壁際《かべぎわ》にたくさん立っていた。そんな先生たちは、ディレクター氏が出入りするたびに、少しでも注目を引こうと腐心していた。彼らは、別に社に呼ばれたわけてもなく、用件があったわけでもない。ただ、ディレクターや社員たちに忘れられないために、毎日そこに顔を出しているのだった。何か偶然の事故や、担当者の気まぐれから、お声がかかるのを、じっと弱々しい微笑をうかべながら待ちつづけているのである。
そんなふうにして、チャンスを掴《つか》み、一発のヒットで有名になった先輩たちの伝説が、レコード会社には、いくらも転《ころ》がっていた。
「おまえ、そんなに毎日顔出したって無駄だよ。仕事なんかないんだから。あきらめたほうがいいぜ、先生」
そんな言葉をあびせられても、黙って通ったSは、今、ある社のスター作曲家の椅子についている。ディレクターの前に直立不動の姿勢で、最敬礼をくり返していた某先生は、近頃はテレビ番組に、にこやかな笑顔を見せるようになっていた。
その幸運が、いつ自分にも訪れるかも知れない、と、先生たちは思っているのだった。
「おい、先生、ちょっとハイライト一つ買ってきてくれ」
「はッ」
先生は、ディレクターに目をつけられた喜びに胸をふくらませながら、階段を転《こ》けつまろびつ駆け下りて行く。
「やあ、すまんな、先生」
ディレクターと対等に口をきける先生連中もいた。何々ちゃん、と呼ぶかわりに、そう呼ぶのだ。一種の親愛感がそこにはある。
「よう、先生」
「やあ、巨匠」
と、いった具合である。先生、という語感には、このような三つの用途があった。すなわち、蔑称《べっしょう》としての先生、愛称としてのそれ、そして敬称である。ほかに、事務的なものもあり、揶揄《やゆ》的に用いられるものも、イヤ味として使われる場合もあった。
十五、六歳の人気歌手が、先生、と付き人たちに呼ばせているのは、めずらしい風景ではない。政府から勲章をもらった某歌手が、敬意をこめて、先生、と呼ばれるのは、それほど似合わなくはなかった。
いずれにせよ、みな先生だった。レコード会社だけではなく、芸能の世界はそうだ。台本書きや、作詞者たちは、先生、と呼んでやりさえすれば、それで結構良い気持でついてくるもんだ、という見くびった感覚が、そこにはあった。
また、コメディアンや、漫才師たちの間には、楽屋では先生と呼ばないと返事をしない連中も少なくなかった。
そのような優越感と、劣等感のからみ合いの中で、先生、と呼ばれる事に私はなれて行ったのだった。
先生、と呼ばれて抵抗感を覚える人々を、私は正直、うらやましいと思う。
これまで私の生きてきた世界では、人々は経済的に不当な扱いに対する怒りを、先生、と呼ばれる事で中和されているようなところがあった。
私の知っている先生の一人は、バス代を節約するために、駅からかなりの距離を歩いて社に通ってきていた。別に用事があるわけではない。時に社宛《あて》に電話がかかってくる事がある。
「○○先生、Kテレビからお電話です」
「はい、はい」
女事務員から、そう呼ばれることのために顔を出したのだった。Kテレビなどとは嘘《うそ》っぱちだ。電話は夫がいつか大ヒット曲を書いてくれると、信じて、レストランに働きに出ている細君からである。Kテレビから、といって電話をかけるように先生が命じているらしい。さも忙しそうなポーズで受話器を耳に当てている先生の薄い肩に、西日が斜めにさしている。
�やるぞ見ておれ 口には出さず
そんな歌詞がふと頭にうかんで、しめた、と思った時、それがヒット曲の一節だと気づいて、淋《さび》しくなった、と、その先生は私に語った事があった。
私は、ある雑誌社の編集者に連れられて、銀座の〈M〉という酒場にいた。いわゆる銀座の高級バーに客として足を踏み入れた事は、それまで一度もなかった。そのため、私はいささか身心の平衡を失っていた。つまり、固くなっていたわけである。
私が緊張していたのは、左右に坐っている女性たちのためではなかった。私は、それまで、かなり長い間、女性たちを見て来ていた。SKDや、日劇の踊り手さんたちのために、放送台本を書いていた時期もある。またCMや、テレビや、レコードの世界にもいた。そのため、美しい女を見て動揺するようなナイーブな感性は、ほとんど失ってしまっていた。私が固くなっていたのは、その店のそこここに発見できる知名な客たちのためだった。
そこには、私がそれまで活字か写真でしか知らなかった、作家や、ジャーナリストたちが幾人もいた。その夏、はじめて文学賞の候補になり、落ちたばかりの私には、そこはかなり気の張る場所だったのである。私はやはりあがっていたのだろう。その晩、どういう人と会ったか、どんな会話を交《か》わしたか、ほとんど憶《おぼ》えていない。
ただひとつ、妙に鮮明に記憶にのこっている印象があった。それは、私の前に坐っていた、初対面の立原正秋さんが、その店の女性と交わした断片的な数語である。
「君、その立原先生《・・》という奴《やつ》はやめてくれないか」
「そう? だったら何と呼べばいいの?」
「立原さんでいいじゃないか」
「だって——」
その夏、直木賞を受けたばかりの立原さんは、その店でも少しも気押された風《ふ》情《ぜい》はなく、のびのびと振る舞っていた。だが、店の女性に先生、先生と連呼される事に対する含羞《がんしゅう》の表情が、ふともらした言葉の響きにあった。
〈正直な人なんだな〉
と、私は思い、その不敵な面構《つらがま》えの背後にある純粋なものを見たような気がした。
だが立原さんの言葉が、妙に頭にのこっているのは、その時、私が感じたあるうしろめたさのためである。私ならそんな場合どう応ずるだろうと考えたのだった。
私なら、たぶん、——先生、と呼ばれてもべつに何とも感じなかっただろうと思う。先生、という言葉の響きに対するイメージが、私の場合は、すっかり変ってしまっていたからだ。私は、自分を、ひどいすれっからしの中年女のように感じて、いやな気がした。
私は、それまで、先生、と呼ばれる事になれっこになっており、その言葉に対する正常な語感を失ってしまっていたように思う。
それまで、私が生きてきた世界では、先生という言葉が、よそとはかなり違った感じて用いられていた。
私は現在でも、あるレコード会社に作詞者としての専属契約が残っているが、ここでは社のアーチストは、すべて先生と呼ばれていた。作詩家、作曲家は、年齢、キャリアの如《いか》何《ん》にかかわらず、みな先生、だった。
先生の中にも、大先生と、木っ葉先生がいるのは、いたしかたない。だから、ディレクターや、社員たちが、彼らを呼ぶ時のニュアンスは、すこぶる微妙なものがあった。
「何とかひとつ良い歌をお願いしますよ、先生」
と、こんな具合に敬意をこめて発言される場合もあるが、そうでない時も多い。
何年たっても一曲も書かせてもらえぬ先生たちが、制作室の壁際《かべぎわ》にたくさん立っていた。そんな先生たちは、ディレクター氏が出入りするたびに、少しでも注目を引こうと腐心していた。彼らは、別に社に呼ばれたわけてもなく、用件があったわけでもない。ただ、ディレクターや社員たちに忘れられないために、毎日そこに顔を出しているのだった。何か偶然の事故や、担当者の気まぐれから、お声がかかるのを、じっと弱々しい微笑をうかべながら待ちつづけているのである。
そんなふうにして、チャンスを掴《つか》み、一発のヒットで有名になった先輩たちの伝説が、レコード会社には、いくらも転《ころ》がっていた。
「おまえ、そんなに毎日顔出したって無駄だよ。仕事なんかないんだから。あきらめたほうがいいぜ、先生」
そんな言葉をあびせられても、黙って通ったSは、今、ある社のスター作曲家の椅子についている。ディレクターの前に直立不動の姿勢で、最敬礼をくり返していた某先生は、近頃はテレビ番組に、にこやかな笑顔を見せるようになっていた。
その幸運が、いつ自分にも訪れるかも知れない、と、先生たちは思っているのだった。
「おい、先生、ちょっとハイライト一つ買ってきてくれ」
「はッ」
先生は、ディレクターに目をつけられた喜びに胸をふくらませながら、階段を転《こ》けつまろびつ駆け下りて行く。
「やあ、すまんな、先生」
ディレクターと対等に口をきける先生連中もいた。何々ちゃん、と呼ぶかわりに、そう呼ぶのだ。一種の親愛感がそこにはある。
「よう、先生」
「やあ、巨匠」
と、いった具合である。先生、という語感には、このような三つの用途があった。すなわち、蔑称《べっしょう》としての先生、愛称としてのそれ、そして敬称である。ほかに、事務的なものもあり、揶揄《やゆ》的に用いられるものも、イヤ味として使われる場合もあった。
十五、六歳の人気歌手が、先生、と付き人たちに呼ばせているのは、めずらしい風景ではない。政府から勲章をもらった某歌手が、敬意をこめて、先生、と呼ばれるのは、それほど似合わなくはなかった。
いずれにせよ、みな先生だった。レコード会社だけではなく、芸能の世界はそうだ。台本書きや、作詞者たちは、先生、と呼んでやりさえすれば、それで結構良い気持でついてくるもんだ、という見くびった感覚が、そこにはあった。
また、コメディアンや、漫才師たちの間には、楽屋では先生と呼ばないと返事をしない連中も少なくなかった。
そのような優越感と、劣等感のからみ合いの中で、先生、と呼ばれる事に私はなれて行ったのだった。
先生、と呼ばれて抵抗感を覚える人々を、私は正直、うらやましいと思う。
これまで私の生きてきた世界では、人々は経済的に不当な扱いに対する怒りを、先生、と呼ばれる事で中和されているようなところがあった。
私の知っている先生の一人は、バス代を節約するために、駅からかなりの距離を歩いて社に通ってきていた。別に用事があるわけではない。時に社宛《あて》に電話がかかってくる事がある。
「○○先生、Kテレビからお電話です」
「はい、はい」
女事務員から、そう呼ばれることのために顔を出したのだった。Kテレビなどとは嘘《うそ》っぱちだ。電話は夫がいつか大ヒット曲を書いてくれると、信じて、レストランに働きに出ている細君からである。Kテレビから、といって電話をかけるように先生が命じているらしい。さも忙しそうなポーズで受話器を耳に当てている先生の薄い肩に、西日が斜めにさしている。
�やるぞ見ておれ 口には出さず
そんな歌詞がふと頭にうかんで、しめた、と思った時、それがヒット曲の一節だと気づいて、淋《さび》しくなった、と、その先生は私に語った事があった。