私は九州で生れた。育ったのは、かつての大日本帝国の植民地であった。外地からの引揚者である。
二十歳の時に上京してから、ほぼ十五年余りを東京で過した。いわゆる〈地方人〉というやつだ。福岡、京城《けいじょう》、平壌《へいじょう》、ハルビン、大《だい》連《れん》、開城《かいじょう》、仁川《じんせん》、大阪、モスクワ、レニングラード、ストックホルム、オスロ、金沢、等々、たくさんの街を見たり、暮したりしてきた。その中でも、東京は私の好きな街のひとつだった。だが、どうしても私にげせない《・・・・》部分も、いくつかあった。
例《たと》えば、食物の店で、調理労働者が客に対して、きわめて不当な取扱いをしたりするのが、私には理解できなかった。さらに奇怪に見えたのは、その暴言や非礼を、客たちがニタニタ笑って甘受している情景である。
そこには〈地方人〉のうかがい知れない、加虐と被虐の微妙な娯《たの》しみがあるのかも知れない。私はそう考えて、何度もそのような威勢のいい兄《あに》い連の店へ行った。そこで彼らの不当な扱いにじっと耐えていれば、それまで私に見えなかった新しい歓《よろこ》びが、突然見えてくるのではあるまいか、と思ったのだった。
だが、私は駄目な男だった。鮨などをつまみながら、ねじり鉢巻《はちまき》の男の冷笑的な言いたい放題を聞いていると、むらむらと腹が立ってくる。駄目なのである。
先日、面白い話を聞いた。話してくれたのは、ある中年の男性である。仮にA氏としておこう。
A氏は一流中の一流大学を出たサラリーマンである。ある年齢に達して、それにふさわしい〈長〉と名のつくポストが転《ころ》がりこんできそうになった。A氏の前には、エリートの道が坦々《たんたん》と続いているように見えた。普通の男なら、黙ってそのベルトに乗っただろう。だが、A氏は、自分からその場所を降りた。転がり込んできそうになったポストを辞退して、横道にそれたのである。その横道も、それなりに重要な部門だった。だが、それは明らかに重役へのコンベアーではなく、行き止りの道だった。A氏は降りたのである。何から降りたのかは、はっきりしない。だが、その決断が、A氏の背後に強く人を惹《ひ》きつける人間的な魅力として残った。A氏と話していると、そこには一箇の会社員ではない自分の顔をもった男が目の前にいる、という感じがした。
私が書こうとしているのは、A氏のことについてではない。そのA氏が、仕事の合い間にふと喋《しゃべ》った話の事だった。
ある日、A氏は自分の下で働いている一人の青年を連れて、鮨屋に行った。その店は、主人の歯に衣《きぬ》を着せぬ八方破れの毒舌で有名だった。機《き》嫌《げん》の悪い時には、それこそ客はこてんぱんにやっつけられる。威勢の良い早口で、痛烈な啖《たん》呵《か》を切られると、慣れない客などは腰を浮かせて席を立ちかけるほどだという。それを嬉《うれ》しがる馴《な》染《じみ》客で、店はいつも混んでいた。そんな場所だった。
その日、どんなやりとりがあったかは知らない。親《おや》父《じ》はテカテカと額を光らせて、当るを幸い客に片っぱしから毒舌を叩《たた》きつけていた。A氏らが席に坐ると、親父が、何にするかとたずねた。A氏と、その青年とは、首をのばして、タネを眺《なが》めた。一瞬おくれた。
「えーと、そうだな」
それが悪かった。とたんに親父の額に青筋が走った。
「てめえが食うものもわからねえような奴《やつ》はけえれ! この朝鮮人野郎!」
こんな場合常連の客である事を示すためには、嬉しそうな高笑いをあげて、
「まあまあ」と手で制しながら、「きびしいからなあ、この店は」と、連れに囁《ささや》けばよかった。そうでなければ、むっと押し黙ることだ。だが、いずれにせよ、その親父は許さなかった。客が下手に出ようと、上手に出ようと、更にサディスティックな追い討ちをかけてくる。
「朝鮮人野郎!」
と、怒鳴られて、私ならどうしただろう。その時になってみなければ、わからない。だが、場合によっては変な事になっただろう。その時、A氏は黙っていた。そんな人なのだ。一瞬、間をおいて、A氏の連れの青年が、ぽつりと言った。
「おっさん——」
彼の声は静かで、ゆったりとしていた。
「あんた、おれたちが朝鮮人でなくて、良かったなあ」
良かったなあ、としみじみとした調子で言うと、青年は目をあげてじっと親父の目を正面からみつめた。
親父が、ごくりと唾《つば》を飲みこんだ。何か言おうとしたが、何も出てこなかった。親父はとまどったのだろう。反撥《はんぱつ》か、追従《ついしょう》か、沈黙かのどれかを予想していたにちがいない。それを舌なめずりして、待ち構えていたのだ。その親父が、一瞬、鼻白んで黙り込むのをA氏は見た。
「最近の若い連中を、そのとき見なおしましたよ」
と、A氏は、その話をした後で、うれしそうに私に言った。
私は偏見について語りたかったのではない。私はヨーロッパで、白人の婦人たちが、黒人の青年たちと腕を組んで街を歩いている風景をしばしば見た。道路にはみ出したカフェで白人女たちは、黒人の胸に頬《ほお》をすりよせ、周囲の人々は微笑してそれを見ていた。それは私にとって、恐ろしい風景だった。私はその美しい白人の女と、それを見ている群衆の中に、黒人に人種差別をしないヨーロッパの目を感じたのだった。彼らは、黒人を差別して見てはいなかった。彼らは、黒人を区別《・・》していた。人間と、テリヤや、九官鳥が違うように。
私はアメリカに一つの希望をもっている。それは、あの国に黒人に対する人種差別があるからだ。
アメリカの男たちは、白人の女の入浴を盗み見た黒人に、激しい怒りを暴発させるだろう。彼らは、その黒人に嫉《しっ》妬《と》し得るからだ。つまり、黒人を同じ人間として感じているに違いない。アメリカにおける人種差別の背後に、私は白人種の黒人に対する不安と、嫌《けん》悪《お》の葛藤《かっとう》を感じる。それは、彼らが、黒人を人間と区別せず、同じ族として考えているからではないかと思う。アメリカの人種差別問題は、肉親の愛憎に似てはいないだろうか。今後、黒人問題はアメリカの最も大きな苦しみになるだろう。そこには、誰かが言ったように黒人問題ではなく、白人問題がある。
だが私は、黒人を区別《・・》する人間たちと、その世界を、ひどく怖《こわ》いものに感じる。アメリカの差別のほうに、より人間的な苦しみを見るような気がする。この人種差別の問題に悩みつづけているアメリカに、ある種の希望をもっているというのは、そういう意味だ。
ヘルシンキで東京の大学生と一緒になったことがある。ある日、ホテルに帰ってきた彼が、憤然として言った。
「頭にきたな、全く。街を歩いてたら外人が、おれに聞くんだよ。お前は朝鮮人か、って」
若くて恰好《かっこう》のいい彼は、それからこう続けたのである。
「見りゃわかりそうなもんだろ、えっ? 朝鮮人がこんな上等なカメラ下げて歩いてるかってんだ」
彼は〈ナイコン〉のカメラと、〈ソニー〉の携帯ラジオを、いつも離さない青年だった。私がA氏にその話をすると、A氏はうなずいて「最近の若い連中にも、いろんなのがいますなあ」と、遠くを見るような目つきをした。
二十歳の時に上京してから、ほぼ十五年余りを東京で過した。いわゆる〈地方人〉というやつだ。福岡、京城《けいじょう》、平壌《へいじょう》、ハルビン、大《だい》連《れん》、開城《かいじょう》、仁川《じんせん》、大阪、モスクワ、レニングラード、ストックホルム、オスロ、金沢、等々、たくさんの街を見たり、暮したりしてきた。その中でも、東京は私の好きな街のひとつだった。だが、どうしても私にげせない《・・・・》部分も、いくつかあった。
例《たと》えば、食物の店で、調理労働者が客に対して、きわめて不当な取扱いをしたりするのが、私には理解できなかった。さらに奇怪に見えたのは、その暴言や非礼を、客たちがニタニタ笑って甘受している情景である。
そこには〈地方人〉のうかがい知れない、加虐と被虐の微妙な娯《たの》しみがあるのかも知れない。私はそう考えて、何度もそのような威勢のいい兄《あに》い連の店へ行った。そこで彼らの不当な扱いにじっと耐えていれば、それまで私に見えなかった新しい歓《よろこ》びが、突然見えてくるのではあるまいか、と思ったのだった。
だが、私は駄目な男だった。鮨などをつまみながら、ねじり鉢巻《はちまき》の男の冷笑的な言いたい放題を聞いていると、むらむらと腹が立ってくる。駄目なのである。
先日、面白い話を聞いた。話してくれたのは、ある中年の男性である。仮にA氏としておこう。
A氏は一流中の一流大学を出たサラリーマンである。ある年齢に達して、それにふさわしい〈長〉と名のつくポストが転《ころ》がりこんできそうになった。A氏の前には、エリートの道が坦々《たんたん》と続いているように見えた。普通の男なら、黙ってそのベルトに乗っただろう。だが、A氏は、自分からその場所を降りた。転がり込んできそうになったポストを辞退して、横道にそれたのである。その横道も、それなりに重要な部門だった。だが、それは明らかに重役へのコンベアーではなく、行き止りの道だった。A氏は降りたのである。何から降りたのかは、はっきりしない。だが、その決断が、A氏の背後に強く人を惹《ひ》きつける人間的な魅力として残った。A氏と話していると、そこには一箇の会社員ではない自分の顔をもった男が目の前にいる、という感じがした。
私が書こうとしているのは、A氏のことについてではない。そのA氏が、仕事の合い間にふと喋《しゃべ》った話の事だった。
ある日、A氏は自分の下で働いている一人の青年を連れて、鮨屋に行った。その店は、主人の歯に衣《きぬ》を着せぬ八方破れの毒舌で有名だった。機《き》嫌《げん》の悪い時には、それこそ客はこてんぱんにやっつけられる。威勢の良い早口で、痛烈な啖《たん》呵《か》を切られると、慣れない客などは腰を浮かせて席を立ちかけるほどだという。それを嬉《うれ》しがる馴《な》染《じみ》客で、店はいつも混んでいた。そんな場所だった。
その日、どんなやりとりがあったかは知らない。親《おや》父《じ》はテカテカと額を光らせて、当るを幸い客に片っぱしから毒舌を叩《たた》きつけていた。A氏らが席に坐ると、親父が、何にするかとたずねた。A氏と、その青年とは、首をのばして、タネを眺《なが》めた。一瞬おくれた。
「えーと、そうだな」
それが悪かった。とたんに親父の額に青筋が走った。
「てめえが食うものもわからねえような奴《やつ》はけえれ! この朝鮮人野郎!」
こんな場合常連の客である事を示すためには、嬉しそうな高笑いをあげて、
「まあまあ」と手で制しながら、「きびしいからなあ、この店は」と、連れに囁《ささや》けばよかった。そうでなければ、むっと押し黙ることだ。だが、いずれにせよ、その親父は許さなかった。客が下手に出ようと、上手に出ようと、更にサディスティックな追い討ちをかけてくる。
「朝鮮人野郎!」
と、怒鳴られて、私ならどうしただろう。その時になってみなければ、わからない。だが、場合によっては変な事になっただろう。その時、A氏は黙っていた。そんな人なのだ。一瞬、間をおいて、A氏の連れの青年が、ぽつりと言った。
「おっさん——」
彼の声は静かで、ゆったりとしていた。
「あんた、おれたちが朝鮮人でなくて、良かったなあ」
良かったなあ、としみじみとした調子で言うと、青年は目をあげてじっと親父の目を正面からみつめた。
親父が、ごくりと唾《つば》を飲みこんだ。何か言おうとしたが、何も出てこなかった。親父はとまどったのだろう。反撥《はんぱつ》か、追従《ついしょう》か、沈黙かのどれかを予想していたにちがいない。それを舌なめずりして、待ち構えていたのだ。その親父が、一瞬、鼻白んで黙り込むのをA氏は見た。
「最近の若い連中を、そのとき見なおしましたよ」
と、A氏は、その話をした後で、うれしそうに私に言った。
私は偏見について語りたかったのではない。私はヨーロッパで、白人の婦人たちが、黒人の青年たちと腕を組んで街を歩いている風景をしばしば見た。道路にはみ出したカフェで白人女たちは、黒人の胸に頬《ほお》をすりよせ、周囲の人々は微笑してそれを見ていた。それは私にとって、恐ろしい風景だった。私はその美しい白人の女と、それを見ている群衆の中に、黒人に人種差別をしないヨーロッパの目を感じたのだった。彼らは、黒人を差別して見てはいなかった。彼らは、黒人を区別《・・》していた。人間と、テリヤや、九官鳥が違うように。
私はアメリカに一つの希望をもっている。それは、あの国に黒人に対する人種差別があるからだ。
アメリカの男たちは、白人の女の入浴を盗み見た黒人に、激しい怒りを暴発させるだろう。彼らは、その黒人に嫉《しっ》妬《と》し得るからだ。つまり、黒人を同じ人間として感じているに違いない。アメリカにおける人種差別の背後に、私は白人種の黒人に対する不安と、嫌《けん》悪《お》の葛藤《かっとう》を感じる。それは、彼らが、黒人を人間と区別せず、同じ族として考えているからではないかと思う。アメリカの人種差別問題は、肉親の愛憎に似てはいないだろうか。今後、黒人問題はアメリカの最も大きな苦しみになるだろう。そこには、誰かが言ったように黒人問題ではなく、白人問題がある。
だが私は、黒人を区別《・・》する人間たちと、その世界を、ひどく怖《こわ》いものに感じる。アメリカの差別のほうに、より人間的な苦しみを見るような気がする。この人種差別の問題に悩みつづけているアメリカに、ある種の希望をもっているというのは、そういう意味だ。
ヘルシンキで東京の大学生と一緒になったことがある。ある日、ホテルに帰ってきた彼が、憤然として言った。
「頭にきたな、全く。街を歩いてたら外人が、おれに聞くんだよ。お前は朝鮮人か、って」
若くて恰好《かっこう》のいい彼は、それからこう続けたのである。
「見りゃわかりそうなもんだろ、えっ? 朝鮮人がこんな上等なカメラ下げて歩いてるかってんだ」
彼は〈ナイコン〉のカメラと、〈ソニー〉の携帯ラジオを、いつも離さない青年だった。私がA氏にその話をすると、A氏はうなずいて「最近の若い連中にも、いろんなのがいますなあ」と、遠くを見るような目つきをした。