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風に吹かれて08

时间: 2020-07-29    进入日语论坛
核心提示:私たちの夜の大学 世の中を見るのに、ふたつの考え方があるように思う。進歩、という観念がひとつ。もうひとつは、世の中はだん
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私たちの夜の大学

 世の中を見るのに、ふたつの考え方があるように思う。
進歩、という観念がひとつ。
もうひとつは、世の中はだんだん悪くなって行く、という感覚である。
〈青春〉という、えたいの知れない時代について語るとき、誰でもが後者の立場に接近して行くようだ。グッド・オールド・デイズ。人間的な娼婦《しょうふ》。酒と、友情と、そして闘争。
「最近の若い連中は可《か》哀相《わいそう》だよなあ」
大人《おとな》たちのほとんどが、その青春回顧を、そういったセリフでしめくくる。そして変に嗜虐《しぎゃく》的な目つきで、青年たちの肩を叩《たた》くのだ。
こいつは本当だろうか、と、私は思う。本当に昔の方が良き時代だったのだろうか?
私にはわからない。自分の青少年期を、まるごと全体としてふり返ってみるとひどく怖《こわ》い気がする。もう一度、あの頃に帰ってみたいなどとは、金輪際《こんりんざい》おもわない。だから、今の若い連中を不幸だと考えた事は、これまでなかった。また同時に、うらやましく感じた事もなかった。
「ぼくらの時代は悲惨なものだったんだよ。きみたちは幸《しあわ》せだなあ」
こんなふうに微笑する大人もいる。だが、そんなふうにも言いたくないし、言えない。
昭和二十八年から三十年にかけての中央線沿線には、不思議な自由さがあったように思う。それ以前の事も、最近の事も知らないが、それは奇妙な季節だった。ある街の空気を作るのは、そこに集まる種族たちであり、また同時に、街が人間を惹《ひ》きつけるのでもあるのだろう。
当時、私たちは、中野駅北口の一画を中心にして出没していた。その地帯は、私たちにとってのメコン・デルタであり、〈私の大学〉でもあった。〈私の大学〉というのは、ゴーリキイの自伝青春小説のタイトルである。モーイ・ウニヴェルシチェート。私の大学。
当時、私たちの仲間の間では、ドストエフスキイが人気があった。ゴーリキイをかつぐのは、事大的な社会主義リアリストか、素朴なヒューマニストかに偏《かたよ》っていたように思う。
「ゴーリキイか。そうだな、初期の短篇にはいくつか良いのがあったっけ」
多少とも文学的なセンスのある連中は、そんなふうな言い方をする事が多かった。だから、ゴーリキイを好きだ、と公言する場合、私はいつも一種の抵抗と、いなおり《・・・・》を必要とした。しかし、私は彼の自伝的な小説や、エッセイが大変好きだった。ドストエフスキイを読む時に、私が受ける感動には、必ずある種の怖《おそ》れがともなっていた。だが、ゴーリキイは、偉大ではなかった。私は彼を、気の弱い、傷つきやすい友人のように感じたし、彼の小説もそういうものだった。
人はどう思うか知らないが、私は、自殺したマヤコフスキイや、批判されたパステルナークや、文化人エレンブルグなどよりも、もっと複雑な辛《つら》い生き方をしたソ連文学者が、たくさん居たと思う。たとえば、ファジェーエフとか、ゴーリキイとか、最近のショーロホフなどがそうだ。公的な立場に立つことを迫られ、それに企投した作家の悲劇といったものが、そこにはある。それは、〈テロリストの回想〉を書いたサヴィンコフに見られる不幸とは、また違った形での悲劇なのだ。
いずれにせよ、当時の中野界隈《かいわい》は、私たちにとって、本当の大学のようなものだった。私たちは、そこで酒を飲み、女とつき合い、議論をし、時には稼《かせ》ぎ、ごくまれに勉強をした。その時々の人間との触れ合いには、ひどく心に残るものがあった。
 国電中野駅北口に降りると、当時は正面に〈中野美観街〉の入口があった。この美観街という名称には、横尾忠則《ただのり》氏描くところのイラストレイションみたいなユーモアが感じられない事もないと思うが、どうだろう。
左手に警察学校が見え、右手に公衆便所があって、雨の日にはよく臭《にお》った。美観街をまっすぐ行くと、ぽつりぽつりと私たちの記憶に残る店があった。今はもう消え失《う》せた名前が多い。いったいに中央線沿線の酒場の名前は変っていて、それぞれにイメージがあった。
美観街を少し行くと、〈人魚〉という酒場があった。私は何百回となくその店の前を通りながら、最後までその店にははいらずじまいだった。扉《とびら》を開けると、深海のように暗い店内に、人魚のような女たちがじっとこちらを見ていそうな気がしていた。そのイメージをこわすのが惜しかったのと、店頭に定価表が出ていないのが不安で、私はためらったのだった。こんな店名は損ではないかと思う。
さらに進んで、右に小路を折れ、体がやっとはいる位の暗い階段を上ると、〈シャノア〉という店があった。ここに最初に迷い込んだ晩に、非常な美人に遭遇した。友人たちは〈シャノア〉のミッちゃん、と彼女の事を呼んでいた。何でも銀座の松屋に勤めているという噂《うわさ》だった。今と違って現役のデパートガールのホステスというのは、めずらしかったので、われわれは一日、ベトコン狩りをめざす海兵隊員のように、松屋デパートをくまなく捜索した。あのデパートの中で、特定の個人を発見する事は、至難な作業だった。だが、〈シャノア〉のミッちゃんは、いた。私たちは仰天して、彼女に発見されまいと松屋の階段を駆け降りて逃げた。
「シャノワールじゃないのよ。シャノアよ」
と、いうのが彼女の客に発する最初の言葉だった。決して高い店ではなかった。学生が百円札一枚にぎってでも、行ける酒場だった。中野には、そんな人民大衆的なバーが少なくなかった。それでいて、〈シャノア〉のミッちゃんのような美人が確かにいた。美人とは言えなくとも、魅力的な女の子が随所にいたように思う。私にはその事が不思議でならない。中野に見事なマンモスビルや、近代的な商店が増《ふ》えるにつれて、そんなひとたちが少なくなって行ったような気がする。
美観街をさらに進むと、左に数本のせまい小路が走っており、その一本に風変りな喫茶店があった。いや現在も残っているから、ある、と書くべきだろう。
古典を意味する〈K〉という名のその店は、私たち中野コンミューンの昼間の議場のようなものだった。
その店は九州出身の画家が経営する喫茶店で、クラシック・レコードのコレクションでも有名な店だった。店に一歩ふみ込むと、最初の客は一瞬ぎょっとする。店内の構造は一種の木造の蜂《はち》の巣城であり、ブンブン言う羽音のかわりに、バルトークやバッハの音楽が響いていた。雑然というか、整然というか、とにかく様々なガラクタや、古色蒼然《そうぜん》たる蓄音器の砲列が客席をとりかこんでいる。回廊風の二階席は、歩くたびにきしみ、手すりにもたれるのは危険だった。
その後、改装したらしいから、今はもうあんなではあるまい。だが、当時の〈K〉は、きわめてファンタスティックなカフェだったといえよう。私はそこではじめて〈不合理ゆえに吾《われ》信ず〉などという奇妙な本を教えられたり、〈キージェ中尉〉のレコードを聞いたりした。詩人であり、戦後有数のオブローモフであった友人のNは、その暗い店内で、アポリネールの〈オノレ・シュブラックの失踪《しつそう》〉のあら筋をくり返し私に話してうまなかった。
入口で三十円の紅茶券を買えない連中も、中にはいた。そんな連中の名誉を守るためにも、仲間は絶えず〈K〉に現われなければならなかったのだ。
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