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風に吹かれて10

时间: 2020-07-29    进入日语论坛
核心提示:SKDの娘たち 浅草の国際劇場に出入りしていたのは、あれはいつ頃の事だったろうか。たぶん私が二十代の終りに差しかかってい
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SKDの娘たち

 浅草の国際劇場に出入りしていたのは、あれはいつ頃の事だったろうか。
たぶん私が二十代の終りに差しかかっていた時期だと思う。当時、私は三木トリロー氏のテレビ工房にわらじを脱ぎ、放送関係のライターとして働いていた。国際劇場に出入りしていたと言っても、遊びではない。と、いって、単なる仕事《・・》とも言いきれないところがあった。二十代の青年にとって、SKDの若い踊り手たちと一緒に番組を作る仕事が、楽しくないはずはなかった。今にして思えば、あれは私の苦い青春における、奇妙に幻想的な一時期であったような気がする。
その頃、CMソングの作詞や、音楽番組の構成などをやっていた私に、新番組のスクリプトを書いて欲しいと言ってきたのは、あるラジオ局のプロデューサーであるFさんであった。
Fさんと私は、かなり以前からの仲間だった。私は大学をやめて数年後に、ある広告代理店の制作部員として働いていた。その頃、局側の番組担当者として私と組んだのが、そのFさんだったのである。
このFさんの事を思い出すたびに、私は一種の感慨を覚えずにはいられない。Fさんもまた、私の青春放浪の中で出会った、記憶に残る顔のひとつである。創生期の民放ラジオマン気質とでも言える雰《ふん》囲気《いき》を、いつまでも失わない不思議な人だった。Fさんに関して、私は個人的な事は何も知らない。ただ、この一見童話作家ふうのプロデューサーが、ひたすらラジオとショウビジネスを愛している人物だという事だけは、信じられた。
Fさんと私が、はじめて会ったのは、四谷荒木町の料亭で、局と代理店側スタッフの顔合せがあった晩である。局側からは、当時報道部長で、またニュースキャスターとしても異色の存在だったI氏が姿を見せていた。代理店側からは社長と私が出席した。I氏も私の方の社長も、いずれ劣らぬ座談の名手だったから、私とFさんは、黙って箸《はし》を動かしていれば良かった。
私はビールを飲んでいたが、Fさんは酒は駄目らしかった。私たちは番組の話ばかりしていた。
その晩から、私とFさんのつき合いが始まった。私たちの作っていた録音構成番組は、時間こそ短かったが、かなり熱のはいった仕事だったと思う。制作費が限られていたので、遠出の取材の場合など、自腹を切って交通費に当てたりしたものだ。
一度、フェリーボートの取材に行った時、私たちの前にタブロイド版の新聞をもって、金をゆすりに来ている男がいた。その男と入れ違いに私たちが名刺を出すと、フェリー会社の気の弱そうな所長は、おずおずと千円札の包みを差し出して、頭を下げた。
「これで、ひとつよろしく」
と、彼は言った。私とFさんはあっけに取られてその金を眺《なが》めた。こいつがあれば、今度の取材費は心配せずに済むのに、と思いながら私たちはそれを丁重に辞退した。すると所長は、不意にそわそわして、金包みを引っこめ、机の下で更に何枚かの札を追加し出したのである。私たちは苦笑して彼を制止し、そのまま事務所を退散したものだった。それは風の強い日で、フェリーボートの窓から乗り出して波の音を録音しようとしたFさんが、何度も波をかぶってずぶ濡《ぬ》れになったのを憶《おぼ》えている。
かなり長くその番組を続けたのち、私たちは別れた。私の勤めていた代理店が左前になって、局とうまく行かなくなったためだった。
その後、私は引き抜かれて小さなPR誌の編集長をやっていた。そして、何年かたって私が放送ライターに転じた頃、Fさんは再び私の前に現われたのである。
私たちは今度は少し違ったニュースショウ的なラジオ番組をはじめた。その中に〈ダンシングパトロール〉という小さな、お喋《しゃべ》りの部分が出来たのは、もちろんFさんの仕事だった。
それは、SKDの幹部クラスから若手まで、毎日一人ずつ番組に引っぱり出して喋らせようという、はなはだ欲の深い企画である。Fさんの顔で、SKDの方が好意的なキャストを揃《そろ》えてくれ、私が彼女らのお喋りの台本を書くことになった。
これが普通の番組なら、ライターが自分で勝手なスクリプトを書きあげて、それをタレントに読ませるだけでいい。だが、今度の場合は少しちがっていた。
SKDの踊り手たちは、最初に自分の名前を名乗り、それから何かパーソナルなお喋りをして、最後をドライバーへの呼びかけでしめくくるという約束だった。この、パーソナルなお喋りの部分は、空想では書けない。彼女らの芸名の由来や、出身地や、歌劇を志望した動機や、日常生活や、趣味や、将来の抱負など、やはり一対一で面接し取材をする必要があった。
私が浅草の国際劇場へ出入りしていた、というのはそんないきさつである。毎週一回、私は浅草へ出かけ、国際劇場を訪れなければならなかった。それは私にとっては、かなり面倒な仕事だったが、反面、若い娘たちの王国を観察する得難い機会でもあった。
その頃、NHKの〈若い季節〉の音楽を書いていたSさんに、
「いいなあ。ぼくとかわろうよ」
と、まんざら冗談でもないような口調で言われたのを憶えている。
私はその仕事を通じて、あの華《はな》やかな舞台が、大変な重労働である事を知った。そして彼女らを、その労働に耐えて踊り続けさせるものが何かを考えさせられた。
その後、私はやはり同じ企画で、日劇ダンシングチームの楽屋へかよったが、その時はもうSKDの時のような新鮮な印象は、はね返ってこなかった。重山規《しげやまのり》子《こ》とか、立川真理とか、西川純代とかいった独特の個性をもったスターたちの記憶が残っているだけである。
国際劇場の正面から、ひとこと「事務所へ」と告げて通るのは、悪い気持ではなかった。すぐ左へ降りて行くと、航空母艦の内部へもぐったような気がした。頭をぶっつけそうな低い天井、曲りくねった通路、衣裳《いしょう》や道具が所せましと積み重ねられている小部屋、そして暗い階段。
私はその地下道を歩くたびに、現実というものの透視図を見るような気がした。私はすでに二十代の後半にさしかかっていたし、少年時代からすでに人生をあるがままに受け入れる習慣が身についていた。頭の上から響いてくるオーケストラの音と、地下道の沈んだ空気の間に、さほど違和感はおぼえなかった。
いちどヨーロッパのショウビジネス関係の人を、そこへ案内したことがある。
「驚いたでしょう」
と、私が地下道を通りながら言った。
「いいえ」
と、その人は首を振って言った。「ショウの世界はどんな国でも、みんな同じようなものですよ。ここは良いほうです」
屈折する地下道を抜け、階段をどこまでも上って行くと、少しずつ周囲が明るさを増してくる。網タイツの踊り手たちが上から駆け降りてきたり、弾力性のある笑い声がひびいてきたりした。
私の面接場は、楽食の片隅《かたすみ》にあった。楽食、すなわち楽屋の食堂であろうか。そこに一週間分、六人の踊り手たちが待っていてくれるはずだった。その時会った人々の名前を、私はもう全部は憶えていない。だが、学生時代の同級生の名前よりは、多く憶えているような気がする。一度か、二度、わずかな時間語り合っただけの人の名前を忘れないでいるのは、やはりあの楽食の印象が、かなり強烈だったせいに違いない。
レビュー《・・・・》という言葉には、どこかカフエー《・・・・》という言葉に相通じる、甘《あま》酸《ず》っぱい語感がある。
もちろん、ここでいうカフエー《・・・・》とは、私たちの知らない、あの伝説的な社交場のことだ。なにかの写真集などで見るカフエー《・・・・》は、エプロン姿のホステスがいて、主婦連の集会みたいな感じを受ける。あれはあくまでカフエー《・・・・》であって、カフェでないほうがいい。レビュ《・・・》ー《・》も、レヴュウと書くと感じがでない。
ラジオ局のプロデューサーであるFさんと仕事をするようになって、私はSKDのファンに意外に男性が多いことを発見した。それまで私は、SKDと宝塚を、ほとんど同じタイプのショウと思っていたのである。
だが国際劇場の天井裏の食堂には、私が予想していたような倒錯した奇妙な雰囲気は全くなかった。そこに充満しているのは、健康な舞台労働者の見事な食欲であり、若々しい笑い声と、汗と、網タイツに包まれた逞《たくま》しい脚《あし》のパレードだった。
私は後日、一度その楽食へ外国人のお客さんを連れて行ったことがある。
「これは何であるか?」
と、その外国人がきいた。
「当劇場のアーチストたちのための専用のレストランである」
私の説明に相手は一瞬とまどった様子だった。それは、こちらの英語がいいかげんだったせいもあるだろう。
「レストラン・フォー・アーチスツ」
と、私がくり返すと、相手はようやく納得したように手をひろげて、
「OH、ワンダフル」
と首を振った。
この「ワンダフル」は、なかなか含蓄のある言葉で、その外国人は、いろんな意味でそれを使う男だった。国際劇場の楽食を見て彼が発した「ワンダフル」には、二つの驚嘆が含まれていたと私は思う。
ひとつは、あの豪華な舞台を創《つく》り出すアーチストたちのレストランが、余りにもせまい小空間であり、貧弱であったことへの驚きであろう。その食堂へ足を踏み入れるたびに、私はいつも泰平ムードにたるんだ皮膚を鞭《むち》打たれるような感じがするのだった。そこは、余りにも敗戦直後のブラック・マーケットに似ていた。
私はそれまでに、ほぼ人生と現実というものの仕組みを、自分なりに理解しているつもりでいた。しかし、これほど鮮《あざ》やかなコントラストをもってその表裏の縮図を示されると、やはり一種の感慨を覚えずにはいられなかった。
その外人の「ワンダフル」のひとつの側面は、その感慨だったにちがいない。数分前にカブリツキで見たラインダンスが、感動的であればあっただけ、彼のショックも大きかったのであろう。その外国人のオッサンは、網タイツのラインダンスが続いている間、うわごとのように、
「おれはキョートへ行くのをやめた。明日もここへくるぞ」
と呟《つぶや》き続けていたのだから。
その外国人の「ワンダフル」の、もうひとつの意味は、その貧弱な食堂に充満している、陽気なバイタリティに対する嘆声であったと思う。
浅草という土地柄とは無関係に、私はSKDの持っている伝統的な大衆性が好きだった。楽食には、その良き伝統が集約的に表現されていたようだ。ガタビシのテーブルは、見事な果実のような娘たちの体重できしみ、ひくい天井は、彼女らの笑い声や叫びで震えていた。食堂が貧弱であればあるほど、踊り手たちの若々しさが印象的だった。ギリシャ神殿の円柱のような白く輝く脚が、現われては消え、交錯してはほぐれた。
真夏の午後、私はその食堂の一角で、彼女らのひとりひとりと、台本を書くための取材をしていた。彼女らは、驚くほど率直で、よく笑った。みんな平凡な、ふつうの娘さんたちで、地方から来ている人も多かった。取材を終えて帰りぎわに、客席から舞台をのぞくと、さっきの平凡な娘たちが、全く信じられない迫力て踊っているのだった。舞台の魅力のひとつは、あの変身の秘密にあるのではなかろうか。
私はそのラジオ番組の仕事を通じて、沢山の踊り手さんたちに会い、時には彼女らと個人的なお喋りをしたりした。
モダンダンスの勉強に渡米中の藤代暁子《きょうこ》さんとは、よく踊りの話をしたし、多角的な才能の持主である幸《さち》わたるさんには、ラジオの歌を何度も歌ってもらった。その頃、私とFさんは埼玉県庁がスポンサーになっている朝の番組で、月に一つずつオリジナルの歌を作っていて、乏しい制作費の中で四苦八苦しながら仕事を進めていた。毎月、何がしか自腹を切って作った歌を、私たちはSKDの踊り手さんたちに歌ってもらった。熱海かほるさんには、スタジオでずいぶんお世話になった思い出がある。先日、SKDをやめた彼女と何年ぶりかで出会ったら、銀座の〈蛙《かえる》たち〉というお店でまた歌ってます、と笑っていた。蛙が出てくる子供の歌を歌ってもらった事があって、その歌を、私も彼女も大変気に入っていたからだろう。
いつだか、都さくらさんに歌ってもらった歌があり、それも私の好きな歌のひとつだった。そのほかにも、小波月子、南州かほり、紅ひかる、嬢《じょう》珠美、などという人たちが印象に残っている。SKDの踊り手さんたちの芸名には、いろいろと変った面白い名前があり、勢眉子《きおいまゆこ》、鞠《まり》カンナなどという人たちの名前は一度で憶えてしまった。
考えてみると、これも何年も昔の話であり、今は舞台を退いた踊り手さんも多いはずだ。最近、行く機会がないので知らないが、あのせまい食堂も、もうなくなっているのではあるまいか。みんな昔の語り草で、今は「レストラン・フォー・アーチスツ」の名にふさわしい立派な食堂に変っているのかも知れない。
私が舞台裏をのぞいて、強く印象に残ったことのひとつは、レビューの仕事が、大変な重労働だということだった。踊り手は、アーチストとしてのセンスのほかに、肉体労働者としてのタフな体力が不可欠のようだった。そして、もうひとつ、彼女らの給与が、ほとんど給与の名に価しない額であることが私を驚かせた。それを支《ささ》えているのは、彼女らの踊りやショウビジネスに対する情熱以外の何ものでもあるまい。
「好きで踊っているのだから、給料は安くてもいいのよ」
と、いう娘もいるに違いない。しかし、ショウビジネスが企業として成立している以上、いつまでもそれによりかかっていては、良い舞台は創り出せないのではないかと思う。
楽団員や、美術や効果や演出をも含めて、日本という市場は、何と人間を安く使うところだろうという気がしてならない。
踊り手さんたちの中には、途中で退団して結婚する人や、テレビその他の世界に転進して行く人も少なくない。また、舞台で準幹部、幹部、大幹部待遇と階段をのぼって行く人もいる。
しかし、私は国際劇場のラインダンスを踊っている頃が、彼女たちの最も幸福な時代ではあるまいか、と思う。
長く歌劇団に残ってやって行く人たちは、いずれプロフェッショナルとして自分を規定する立場と、企業との間のギャップに悩むことがあるにちがいない。途中で去って行った人たちは、またそれで何がしかの心残りがあるだろう。朝、家を出て、夜おそく家へ帰ることの繰返しという、あの意外に単調な日常を耐えて行けるのは、やはりライトを浴びて舞台へ出る一瞬の燃焼感にほかなるまい。それだけに、あのラインダンスには、ショウとしての面白さより、うつろい易《やす》い青春の一瞬を燃えつくす可《か》憐《れん》な生きものの哀感が色濃く翳《かげ》を落していて、それが人々を惹《ひ》きつけるのではあるまいか。
二十代の終りにさしかかっていて、まだ自分の望んでいた作品ひとつ書いていなかった当時の私には、あの陽気なラインダンスが、ひどく哀切なものとして映っていたのだった。
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