一九六五年の夏、私はモスクワにいた。その年はモスクワで、ザ・ピーナッツの〈恋のバカンス〉が大流行していた。私たちがホテルのレストランへ顔を出すと、顔見知りのバンドの連中は、必ずその曲を演奏してくれるのだった。
バイオリンがかなでるジャズというのも、奇妙な面白さがあるものだ。ホテル・モスクワのバンドは女だけの編成で、ドラマーはもの凄《すご》いグラマーだった。彼女の手にかかると、ドラムのスティックが、本当にツマヨウジのように見えるのである。
私がミーシャという少年と知り合ったのは、六月下旬の深夜だった。プーシキン広場で夕涼みをしていた私に、彼の方から話しかけてきたのである。
彼はいわゆるスチリャーガだった。スチリャーガという言葉は、最近では余り使われなくなっているらしい。日本で言うなら、さしずめマンボ族とか、みゆき族などという感じだろう。
ミーシャは痩《や》せぎすの、少しひねた顔をした少年だった。粗末な服を着ていたが、それなりにスタイルには気を使っていたらしい。
彼は仲間のドラマーを連れて私の所へやってきた。
「煙草を一本くれよ」
彼が最初に発したのは、そんな言葉だった。私はピースを一本彼にやり、ガスライターで火をつけてやった。
「そのライターを売らないか」
と、彼は言った。
「いいとも。いくらだ?」
と、私。
「五ルーブル」
「十ルーブルだ」
「高いぜ」
「特別製のライターだからな」
「見せてくれ」
私は彼にそのライターを渡した。それは、私が訪ソする時に、ラジオ関東から托《たく》されたもので、モスクワ放送の連中に会ったらプレゼントしてくれとあずかった品物だった。ライターの横腹には、ラジオ関東と金文字が入っている謝礼用のやつだ。
「これは何と書いてあるのかね?」
と、少年は聞いた。
「ラジオ関東」
私が読んでやると、彼は「ラジオカントー、ラジオカントー——」と何度も口の中でくり返して、
「OK、八ルーブル」
私はそのライターを八ルーブルで彼に売った。彼は仲間のドラマーから金を借りて、私に払った。
次の日、私はまた彼とプーシキン広場で会った。少年は懐《なつ》かしそうに片手をあげて、私の所へやってくると言った。
「ゆうべのライターは良かったぜ。日本人からこれまでPとかMとか、いろんなメーカーの品物をもらったけど、あんたから買ったのが一番上等だ。あのラジオカントーというメーカーは、日本でも一流のライター会社じゃないのかね?」
ミーシャは、闇《やみ》商人としては、まだ駆け出しに違いなかった。私のところへやってきたある中年男などは、日本の弱電メーカーのカタログを、ずらりと揃《そろ》えて持っていた。日本人旅行者などが、旧式のトランジスターラジオなどを高い値段で売りつけようと企《たくら》んでも、彼には通用しなかった。
「これは二年前の○○型で、現金正価六千八百円の品物ですね。最近では、この会社からはもう出てないでしょう」
などと微笑しながら言うのである。腕時計や、電気カミソリのカタログなども持っていた。
逆にアメリカ人や、日本人に偽《にせ》のイコンを売りつける連中もいた。古い聖像を安く買い込んで、無智《むち》なロシア人を旨《うま》く欺《だま》したような気になっているアメリカ人たちは、帰国後、ロシアの熊《くま》さんたちが、彼らが思っているほど薄ノロではない事に気づくのだろう。商売の道のきびしさに東西の別はないのである。
ミーシャと私は、たびたび彼らのたまり場になっている音楽喫茶へ遊びに行った。その店は〈青い鳥《シーニャ・プチーツア》〉という名前だった。私は帰国後、ミーシャとその仲間たちの事を〈さらばモスクワ愚連隊〉という小説に書いたが、その中では〈赤い鳥《クラースナヤ・プチーツア》〉と変えてある。
ミーシャは音楽、ことにジャズの熱狂的なファンだった。一度、彼にモスクワで一番ヒットしている流行歌のレコードを買いたい、と頼んだことがある。彼はすぐに〈トーリコ・トゥイ〉という題のレコードを持ってきてくれた。日本語に訳すると、〈君だけを〉という題になる。
私は帰国後、そのレコードを、レコード会社へ持って行き、ソ連のヒット曲を聞かせると称して人々を集め、プレイヤーにかけた。
なんと、流れ出したのは重々しい赤軍合唱団の歌う〈オンリー・ユー〉だったのである。ザ・プラターズが歌って大ヒットしたおなじみの曲だ。おそらくミーシャも、それがアメリカで大流行した曲だとは、思っていなかったに違いない。
六月十四日の深夜、私とミーシャと、もう一人のドラマーの三人で、ゴーリキイ街の裏通りを歩いていた。
左が煉《れん》瓦《が》塀《べい》で、右手に古い建物が続いていた。街灯は暗く、中世のヨーロッパの街を歩いているような気がした。ミーシャは、東京へ行ってみたい、と言っていた。
突然三方から、目のくらむようなライトの照射が浴びせかけられた。自動車のエンジン音が響き、その光の輪は私たち三人を、塀ぎわに追いつめるようにせばまった。
一台の乗用車から平服の青年が三人、バラバラと飛びおりて私たちを取りかこんだ。
「ドキュメント!」
と、額の広い知的な青年が厳《きび》しい声で言った。
「おれたちは何もしていない!」
ミーシャが叫んだ。「ただ話をしてただけだ」
「ドキュメント!」
と、目の鋭い青年が私に手を差し出した。
私は、一通の政府の要人に当てた私自身の紹介状のコピーを出して相手に渡した。
青年が軽くうなずいて英語で言った。
「日本人ですね」
「そうです」
「早くホテルに帰っておやすみなさい」
「あなたは?」
「この少年たちの友人です。少し話があるので、彼らをお借りして行きますよ」
ミーシャはちらと私を見て指をあげ、
「グッバイ・マイ・フレンド——」と言った。
ミーシャと、その友達のドラマーとは、三人の青年たちに腕を取られて、乗用車の中へ連れ込まれた。エンジン音が高まり、ライトが消え、タイヤのきしみがきこえて車は見えなくなった。私は一人で暗い塀の前に立っていた。
ミーシャたちを連行していったのが誰なのか、彼らはなぜ逮捕されたのか、いったいどこへ連れて行かれたのか、私には何もわからない。ただ、そうなっても不思議ではないという気はした。あの少年たちを待っているのが、そんな結末だろうという予感はあったのだ。「グッバイ・マイ・フレンド——」というミーシャの呟《つぶや》きだけが残っていた。私は独《ひと》りでゴーリキイ街の裏通りを歩いて、ナショナル・ホテルへ帰った。
翌日、私はいつもの時間にプーシキン広場へ行った。だが、ミーシャは現われなかった。
私は次の日、レニングラードへ発《た》った。そして、七月下旬、再びモスクワに舞いもどって来た。モスクワは、暑い盛りで、街中に白い綿毛のようなトーポリの羽毛が流れていた。プーシキン広場のライラックは、もう散ってしまい、白夜の季節も、そろそろ終ろうとしていた。
その年の秋、私は北陸の金沢にいた。私は何年ぶりかで一つの物語を書きはじめようとしていた。
バイオリンがかなでるジャズというのも、奇妙な面白さがあるものだ。ホテル・モスクワのバンドは女だけの編成で、ドラマーはもの凄《すご》いグラマーだった。彼女の手にかかると、ドラムのスティックが、本当にツマヨウジのように見えるのである。
私がミーシャという少年と知り合ったのは、六月下旬の深夜だった。プーシキン広場で夕涼みをしていた私に、彼の方から話しかけてきたのである。
彼はいわゆるスチリャーガだった。スチリャーガという言葉は、最近では余り使われなくなっているらしい。日本で言うなら、さしずめマンボ族とか、みゆき族などという感じだろう。
ミーシャは痩《や》せぎすの、少しひねた顔をした少年だった。粗末な服を着ていたが、それなりにスタイルには気を使っていたらしい。
彼は仲間のドラマーを連れて私の所へやってきた。
「煙草を一本くれよ」
彼が最初に発したのは、そんな言葉だった。私はピースを一本彼にやり、ガスライターで火をつけてやった。
「そのライターを売らないか」
と、彼は言った。
「いいとも。いくらだ?」
と、私。
「五ルーブル」
「十ルーブルだ」
「高いぜ」
「特別製のライターだからな」
「見せてくれ」
私は彼にそのライターを渡した。それは、私が訪ソする時に、ラジオ関東から托《たく》されたもので、モスクワ放送の連中に会ったらプレゼントしてくれとあずかった品物だった。ライターの横腹には、ラジオ関東と金文字が入っている謝礼用のやつだ。
「これは何と書いてあるのかね?」
と、少年は聞いた。
「ラジオ関東」
私が読んでやると、彼は「ラジオカントー、ラジオカントー——」と何度も口の中でくり返して、
「OK、八ルーブル」
私はそのライターを八ルーブルで彼に売った。彼は仲間のドラマーから金を借りて、私に払った。
次の日、私はまた彼とプーシキン広場で会った。少年は懐《なつ》かしそうに片手をあげて、私の所へやってくると言った。
「ゆうべのライターは良かったぜ。日本人からこれまでPとかMとか、いろんなメーカーの品物をもらったけど、あんたから買ったのが一番上等だ。あのラジオカントーというメーカーは、日本でも一流のライター会社じゃないのかね?」
ミーシャは、闇《やみ》商人としては、まだ駆け出しに違いなかった。私のところへやってきたある中年男などは、日本の弱電メーカーのカタログを、ずらりと揃《そろ》えて持っていた。日本人旅行者などが、旧式のトランジスターラジオなどを高い値段で売りつけようと企《たくら》んでも、彼には通用しなかった。
「これは二年前の○○型で、現金正価六千八百円の品物ですね。最近では、この会社からはもう出てないでしょう」
などと微笑しながら言うのである。腕時計や、電気カミソリのカタログなども持っていた。
逆にアメリカ人や、日本人に偽《にせ》のイコンを売りつける連中もいた。古い聖像を安く買い込んで、無智《むち》なロシア人を旨《うま》く欺《だま》したような気になっているアメリカ人たちは、帰国後、ロシアの熊《くま》さんたちが、彼らが思っているほど薄ノロではない事に気づくのだろう。商売の道のきびしさに東西の別はないのである。
ミーシャと私は、たびたび彼らのたまり場になっている音楽喫茶へ遊びに行った。その店は〈青い鳥《シーニャ・プチーツア》〉という名前だった。私は帰国後、ミーシャとその仲間たちの事を〈さらばモスクワ愚連隊〉という小説に書いたが、その中では〈赤い鳥《クラースナヤ・プチーツア》〉と変えてある。
ミーシャは音楽、ことにジャズの熱狂的なファンだった。一度、彼にモスクワで一番ヒットしている流行歌のレコードを買いたい、と頼んだことがある。彼はすぐに〈トーリコ・トゥイ〉という題のレコードを持ってきてくれた。日本語に訳すると、〈君だけを〉という題になる。
私は帰国後、そのレコードを、レコード会社へ持って行き、ソ連のヒット曲を聞かせると称して人々を集め、プレイヤーにかけた。
なんと、流れ出したのは重々しい赤軍合唱団の歌う〈オンリー・ユー〉だったのである。ザ・プラターズが歌って大ヒットしたおなじみの曲だ。おそらくミーシャも、それがアメリカで大流行した曲だとは、思っていなかったに違いない。
六月十四日の深夜、私とミーシャと、もう一人のドラマーの三人で、ゴーリキイ街の裏通りを歩いていた。
左が煉《れん》瓦《が》塀《べい》で、右手に古い建物が続いていた。街灯は暗く、中世のヨーロッパの街を歩いているような気がした。ミーシャは、東京へ行ってみたい、と言っていた。
突然三方から、目のくらむようなライトの照射が浴びせかけられた。自動車のエンジン音が響き、その光の輪は私たち三人を、塀ぎわに追いつめるようにせばまった。
一台の乗用車から平服の青年が三人、バラバラと飛びおりて私たちを取りかこんだ。
「ドキュメント!」
と、額の広い知的な青年が厳《きび》しい声で言った。
「おれたちは何もしていない!」
ミーシャが叫んだ。「ただ話をしてただけだ」
「ドキュメント!」
と、目の鋭い青年が私に手を差し出した。
私は、一通の政府の要人に当てた私自身の紹介状のコピーを出して相手に渡した。
青年が軽くうなずいて英語で言った。
「日本人ですね」
「そうです」
「早くホテルに帰っておやすみなさい」
「あなたは?」
「この少年たちの友人です。少し話があるので、彼らをお借りして行きますよ」
ミーシャはちらと私を見て指をあげ、
「グッバイ・マイ・フレンド——」と言った。
ミーシャと、その友達のドラマーとは、三人の青年たちに腕を取られて、乗用車の中へ連れ込まれた。エンジン音が高まり、ライトが消え、タイヤのきしみがきこえて車は見えなくなった。私は一人で暗い塀の前に立っていた。
ミーシャたちを連行していったのが誰なのか、彼らはなぜ逮捕されたのか、いったいどこへ連れて行かれたのか、私には何もわからない。ただ、そうなっても不思議ではないという気はした。あの少年たちを待っているのが、そんな結末だろうという予感はあったのだ。「グッバイ・マイ・フレンド——」というミーシャの呟《つぶや》きだけが残っていた。私は独《ひと》りでゴーリキイ街の裏通りを歩いて、ナショナル・ホテルへ帰った。
翌日、私はいつもの時間にプーシキン広場へ行った。だが、ミーシャは現われなかった。
私は次の日、レニングラードへ発《た》った。そして、七月下旬、再びモスクワに舞いもどって来た。モスクワは、暑い盛りで、街中に白い綿毛のようなトーポリの羽毛が流れていた。プーシキン広場のライラックは、もう散ってしまい、白夜の季節も、そろそろ終ろうとしていた。
その年の秋、私は北陸の金沢にいた。私は何年ぶりかで一つの物語を書きはじめようとしていた。