私は旧制中学の一年生の頃まで外地に住んでいた。旧大日本帝国の植民地で育ったわけである。
そのためかどうか、植民地という言葉に対して、他人より幾分敏感に聴《き》き耳を立てるような傾向があるらしい。それだけでなく、現在はすでに異国となってしまったそれらの土地に対して、常に一種の郷愁のようなものを感じ続けている。
いささか誤解をまねきそうな言い方だが、支配者側の一員として過した日々に懐旧の念を抱《いだ》いているわけでは毛頭ない。つまり、私の心をそそるのは、それらの土地の自然であり、風習であり、自分自身の幼年、少年期の記憶と固く結びついた〈時間〉そのものなのである。
〈ふるさと〉という語感に触発されるものは、私の場合つねに二つの引き裂かれた状態にあるわけだ。私は九州の出身であり、両親もその土地の人間だが、それとはまた違った〈ふるさと〉をも持っているといえるかも知れない。
あの乾《かわ》いた大気の中、見上げると吸い込まれて行きそうなほど見事に澄んだ秋空の青さとか、赤茶けた低い丘状の山肌《やまはだ》とか、冬の凍結した河《かわ》面《も》を渡る牛車の音だとか、そういったものが、ふっと時間の淵《ふち》を飛び越えて噴水のようにふきあげてくることがある。
そして、それらの土地が、すでに私とは全く無縁な、失われた場所として在《あ》ることが、私の感慨を一そう色濃いものとして強くよみがえってくるわけでもあろう。
そしてまた、それが私白身の意識するとせざるとにかかわらず、自分に取って一つの罪の土地であったという観念もまた逃《のが》れ難い重さで迫ってくるのだ。
私たちは敗戦後、非英雄的な栄光への脱出を強《し》いられた。
旧大陸から半島へ南下した難民の大群は、一つの民族移動のようなものだった。そこには、悲惨と滑稽《こっけい》の入りまじった集団的な極限状態があった。人々はデマと幻想の中で〈内地〉に帰る日を夢み、まるで盲目的に一定の地点を求めて直進するネズミの大群のように進んだり、倒れたりした。
〈内地〉はすでに私たちにとって、いや、正確には大人《おとな》たちにとって、一つのフェティッシュとなっていた。彼らは、現在の悲惨と不幸のすべてが、その約束された土地へ帰りつくことで解決すると信じ込んているようだった。
内地につきさえすれば——そんな文句を私たちは何度大人たちからきかされたことだろう。だが、私たち植民地で育った世代の少年たちには、それは全く実感のない呪文《じゅもん》のように思われた。
たとえ敗戦と追放という、異常な事態の中にあっても、人間としての現実的な苦悩や、階級的な対立は、明らかに存在していた。にもかかわらず、大人たちは、それが内地へ帰りつくことで全《すべ》て一挙に解決すると信じ込んでいるかのようだった。
大人たちは、発疹《はっしん》チフスで倒れた死者を片づける作業の中で、何度となく内地の素晴らしさと美しさについて語った。
だが、私たち少年に取って、それは信じられない物語に過ぎないように思われた。
時に夏休みに訪れた内地は、私たちにとって余り良い記憶につながってはいなかったためである。私について言えば、長い夏休みを内地で過すことになった間中、アカシアの木陰の涼しさや、黄色のウリの甘味を思い描いて、早く自分たちの土地へ帰りたがっていたものだった。ホームシックは、むしろ植民地の方へむかって作用したのである。
もちろん、子供心にも何らかの〈争い〉がその土地に存在することは感じ取っていた。祭日の人混みの中で、赤インクを筆にひたして白衣の老人を追い回す憲兵の姿を見たこともあったし、〈万歳《マンセイ》事件〉などという言葉を耳にしたこともあった。
「あいつらは民族意識が強くて」
などと大人たちが語りあっているのを聞いたこともあった。しかし、明確なそれについての知識はなく、自分たちはこの土地の住人であると素朴に信じ込んでいたのだった。
引揚時代の悲劇については、今更ここで語るまでもあるまい。それは、当然、世界各地で旧支配者側の人間が植民地を去る時の形式をとって現われただけの話だから。
しかし、その当時の私は、大人たちが日夜くり返す、「なぜ?」という言葉に、かすかに引っかかるものを感じていた。
「なぜこんな目に合わなければならないのか?」
と、大人たちはくり返していた。「内地に帰りさえすれば——」
しかし、と私は思ったのだった。それほど素晴らしい内地なら、どうして両親たちはその土地を離れてここへ来たのか? あの無数の難民たちは、なぜ内地からやってきたのか?
私は後になって、ロシア文学風の観念的な発想から、こんなことを思ったことがあった。
彼らが苦難に見舞われたのは、彼らが植民地で行なった何らかの行為のためではないのではないか。「なぜこんな目に?」と、呟《つぶや》く、その精神の構造そのものの罰を、引揚者は払わなければならなかったのではあるまいか。
私自身の気持としては、当時の大人たちと同じように、内地にあこがれる意識は毛頭なかったのだった。
内地とは、私にとっては異国だった。私はそのまま、自分の育った土地に留《とど》まりたかったのである。だが、私は、その土地から去らねばならなかった。私も日本人の一人として、そこに止《とど》まる権利を持たなかったためである。
物心ついてから、私の頭の中に大きな比重を占めた思考の場には、常にこの〈植民地〉という問題があった。私はそれを考えつづけ、論理的には一応の結論をみちびき出すことができたように思う。しかし、心情の問題は別だった。私はいまだに幼年時代の郷愁として外地の空の色の記憶を自分のものと感ぜずにはいられないのだった。
現在の私にとって、〈内地〉はやはり祖国であると同時に、〈異国〉でもある。個人的な事を語れば、私は母を敗戦の翌月、九月十五日に失った。それは当時のありふれた敗戦国民の側の被害の一つであり、その事件について感情的な怨念《おんねん》といったものは今の私にはない。
在外財産の補償うんぬんという記事を目にすることがあるが、補償に価するほどの財産を植民地に所有した人々とは、いったいどのような人々であろうか。
私自身も何がしかの金をもらう権利があるらしい。
だが私はそれは許されないことのような気がしてならない。
私は昨日、マドリッドの〈コロン広場〉という場所に立って、コロンブスの像を眺《なが》めていた。今日、リスボンの市内の一角でこの文章を書いている。リスボンの街には、アカシアの花がまっ盛りで、舗道にはり出したテラスには雪のように黄白色の花が降ってくる。私はこのヨーロッパ大陸最西端の土地で、アカシアとポプラと、青い空と、頭に物を乗せて運ぶポルトガル婦人たちの列を見た。それは私がかつて育った土地の自然と同じものだった。
私の足もとには七、八歳の子供が地面に坐りこんで、せっせと私の靴をみがいている。ホテルのドアボーイは、少年たちばかりで、新聞売子も幼児が多い。この国は、現在、世界で最も多い二十三の植民地を持つ国だという。
にもかかわらず、なぜこの国は貧しいかを私はアカシアの花の驟雨《しゅうう》の中で考え続けているのだ。
そのためかどうか、植民地という言葉に対して、他人より幾分敏感に聴《き》き耳を立てるような傾向があるらしい。それだけでなく、現在はすでに異国となってしまったそれらの土地に対して、常に一種の郷愁のようなものを感じ続けている。
いささか誤解をまねきそうな言い方だが、支配者側の一員として過した日々に懐旧の念を抱《いだ》いているわけでは毛頭ない。つまり、私の心をそそるのは、それらの土地の自然であり、風習であり、自分自身の幼年、少年期の記憶と固く結びついた〈時間〉そのものなのである。
〈ふるさと〉という語感に触発されるものは、私の場合つねに二つの引き裂かれた状態にあるわけだ。私は九州の出身であり、両親もその土地の人間だが、それとはまた違った〈ふるさと〉をも持っているといえるかも知れない。
あの乾《かわ》いた大気の中、見上げると吸い込まれて行きそうなほど見事に澄んだ秋空の青さとか、赤茶けた低い丘状の山肌《やまはだ》とか、冬の凍結した河《かわ》面《も》を渡る牛車の音だとか、そういったものが、ふっと時間の淵《ふち》を飛び越えて噴水のようにふきあげてくることがある。
そして、それらの土地が、すでに私とは全く無縁な、失われた場所として在《あ》ることが、私の感慨を一そう色濃いものとして強くよみがえってくるわけでもあろう。
そしてまた、それが私白身の意識するとせざるとにかかわらず、自分に取って一つの罪の土地であったという観念もまた逃《のが》れ難い重さで迫ってくるのだ。
私たちは敗戦後、非英雄的な栄光への脱出を強《し》いられた。
旧大陸から半島へ南下した難民の大群は、一つの民族移動のようなものだった。そこには、悲惨と滑稽《こっけい》の入りまじった集団的な極限状態があった。人々はデマと幻想の中で〈内地〉に帰る日を夢み、まるで盲目的に一定の地点を求めて直進するネズミの大群のように進んだり、倒れたりした。
〈内地〉はすでに私たちにとって、いや、正確には大人《おとな》たちにとって、一つのフェティッシュとなっていた。彼らは、現在の悲惨と不幸のすべてが、その約束された土地へ帰りつくことで解決すると信じ込んているようだった。
内地につきさえすれば——そんな文句を私たちは何度大人たちからきかされたことだろう。だが、私たち植民地で育った世代の少年たちには、それは全く実感のない呪文《じゅもん》のように思われた。
たとえ敗戦と追放という、異常な事態の中にあっても、人間としての現実的な苦悩や、階級的な対立は、明らかに存在していた。にもかかわらず、大人たちは、それが内地へ帰りつくことで全《すべ》て一挙に解決すると信じ込んでいるかのようだった。
大人たちは、発疹《はっしん》チフスで倒れた死者を片づける作業の中で、何度となく内地の素晴らしさと美しさについて語った。
だが、私たち少年に取って、それは信じられない物語に過ぎないように思われた。
時に夏休みに訪れた内地は、私たちにとって余り良い記憶につながってはいなかったためである。私について言えば、長い夏休みを内地で過すことになった間中、アカシアの木陰の涼しさや、黄色のウリの甘味を思い描いて、早く自分たちの土地へ帰りたがっていたものだった。ホームシックは、むしろ植民地の方へむかって作用したのである。
もちろん、子供心にも何らかの〈争い〉がその土地に存在することは感じ取っていた。祭日の人混みの中で、赤インクを筆にひたして白衣の老人を追い回す憲兵の姿を見たこともあったし、〈万歳《マンセイ》事件〉などという言葉を耳にしたこともあった。
「あいつらは民族意識が強くて」
などと大人たちが語りあっているのを聞いたこともあった。しかし、明確なそれについての知識はなく、自分たちはこの土地の住人であると素朴に信じ込んでいたのだった。
引揚時代の悲劇については、今更ここで語るまでもあるまい。それは、当然、世界各地で旧支配者側の人間が植民地を去る時の形式をとって現われただけの話だから。
しかし、その当時の私は、大人たちが日夜くり返す、「なぜ?」という言葉に、かすかに引っかかるものを感じていた。
「なぜこんな目に合わなければならないのか?」
と、大人たちはくり返していた。「内地に帰りさえすれば——」
しかし、と私は思ったのだった。それほど素晴らしい内地なら、どうして両親たちはその土地を離れてここへ来たのか? あの無数の難民たちは、なぜ内地からやってきたのか?
私は後になって、ロシア文学風の観念的な発想から、こんなことを思ったことがあった。
彼らが苦難に見舞われたのは、彼らが植民地で行なった何らかの行為のためではないのではないか。「なぜこんな目に?」と、呟《つぶや》く、その精神の構造そのものの罰を、引揚者は払わなければならなかったのではあるまいか。
私自身の気持としては、当時の大人たちと同じように、内地にあこがれる意識は毛頭なかったのだった。
内地とは、私にとっては異国だった。私はそのまま、自分の育った土地に留《とど》まりたかったのである。だが、私は、その土地から去らねばならなかった。私も日本人の一人として、そこに止《とど》まる権利を持たなかったためである。
物心ついてから、私の頭の中に大きな比重を占めた思考の場には、常にこの〈植民地〉という問題があった。私はそれを考えつづけ、論理的には一応の結論をみちびき出すことができたように思う。しかし、心情の問題は別だった。私はいまだに幼年時代の郷愁として外地の空の色の記憶を自分のものと感ぜずにはいられないのだった。
現在の私にとって、〈内地〉はやはり祖国であると同時に、〈異国〉でもある。個人的な事を語れば、私は母を敗戦の翌月、九月十五日に失った。それは当時のありふれた敗戦国民の側の被害の一つであり、その事件について感情的な怨念《おんねん》といったものは今の私にはない。
在外財産の補償うんぬんという記事を目にすることがあるが、補償に価するほどの財産を植民地に所有した人々とは、いったいどのような人々であろうか。
私自身も何がしかの金をもらう権利があるらしい。
だが私はそれは許されないことのような気がしてならない。
私は昨日、マドリッドの〈コロン広場〉という場所に立って、コロンブスの像を眺《なが》めていた。今日、リスボンの市内の一角でこの文章を書いている。リスボンの街には、アカシアの花がまっ盛りで、舗道にはり出したテラスには雪のように黄白色の花が降ってくる。私はこのヨーロッパ大陸最西端の土地で、アカシアとポプラと、青い空と、頭に物を乗せて運ぶポルトガル婦人たちの列を見た。それは私がかつて育った土地の自然と同じものだった。
私の足もとには七、八歳の子供が地面に坐りこんで、せっせと私の靴をみがいている。ホテルのドアボーイは、少年たちばかりで、新聞売子も幼児が多い。この国は、現在、世界で最も多い二十三の植民地を持つ国だという。
にもかかわらず、なぜこの国は貧しいかを私はアカシアの花の驟雨《しゅうう》の中で考え続けているのだ。