前に戦争中に精神の形成期を過した人間の後遺症について書いた。その後、様々な反響があった。その多くは、内心で自分の症状に気づきながら、周囲の連中に言うのをためらっていたらしい純情な方々ばかりのように思われた。
「何だい、お前さんもそうか。いや、実は俺《おれ》はな……」
といった調子で照れくさそうに彼らは喋《しゃべ》り出すのだった。
私が前に書いたのは、こういうことだった。日常使う石油ストーブのための灯油をドラム罐《かん》で何本も買い込み、物置にそれをしまいこんでは何となく安心感を覚える、そういった話である。
精神の形成期といったところで、第一次戦後派の人々のように、戦争中にその文学的、思想的基盤を形成したという意味ではない。もっと単純な、いわば物心つく頃に戦争の時代という一つの洗礼をうけた、というほどの事である。
思想は変るが、生活感覚や、歩き方や、目つきというやつは仲々変らないものだ。戦後二十数年たって未《いま》だに、三十四歳の私が当時の影響を日々の生活の中に見つけて奇妙な感慨にふけるのである。
後遺症の一つは、まず、金銭に対する不信感と、物に対するフェティシズムとして現われる。つまり、価値観がどこか歪《ゆが》んでいると言ってもいいだろう。
例《たと》えば、私は今なお〈純綿〉という単語に一種の畏《い》敬《けい》の念を感ぜずにはいられない。テトロンとかビニロンとかいった新しい材質よりも、〈純綿〉という言葉に対して、はっと身のひきしまる感じをおぼえるのだ。
それから〈砂糖〉。
外国空路の機上で、コーヒー用の袋入りの砂糖が出る。私がジンジャエールか何か飲んだために、それがテーブルの上に残る。スチュワーデス嬢がやって来て、そいつをつまんで持って行こうとする。その時、私の手が反射的にそれをポケットにすべり込ませる。
砂糖なんて、どこにでもいくらでもあるではないか。それはわかっているのだが、条件反射的にそうなってしまうのだ。私が子供の頃、さる宮様が童謡の作詞をなすって、歌学者たちから激賞された事があったように憶《おぼ》えている。その歌詞の一節は、およそ次のようなものであった。なぜこんな歌詞を今まで忘れもせずに憶えているのか、考えてみると情けない限りだが。
「何だい、お前さんもそうか。いや、実は俺《おれ》はな……」
といった調子で照れくさそうに彼らは喋《しゃべ》り出すのだった。
私が前に書いたのは、こういうことだった。日常使う石油ストーブのための灯油をドラム罐《かん》で何本も買い込み、物置にそれをしまいこんでは何となく安心感を覚える、そういった話である。
精神の形成期といったところで、第一次戦後派の人々のように、戦争中にその文学的、思想的基盤を形成したという意味ではない。もっと単純な、いわば物心つく頃に戦争の時代という一つの洗礼をうけた、というほどの事である。
思想は変るが、生活感覚や、歩き方や、目つきというやつは仲々変らないものだ。戦後二十数年たって未《いま》だに、三十四歳の私が当時の影響を日々の生活の中に見つけて奇妙な感慨にふけるのである。
後遺症の一つは、まず、金銭に対する不信感と、物に対するフェティシズムとして現われる。つまり、価値観がどこか歪《ゆが》んでいると言ってもいいだろう。
例《たと》えば、私は今なお〈純綿〉という単語に一種の畏《い》敬《けい》の念を感ぜずにはいられない。テトロンとかビニロンとかいった新しい材質よりも、〈純綿〉という言葉に対して、はっと身のひきしまる感じをおぼえるのだ。
それから〈砂糖〉。
外国空路の機上で、コーヒー用の袋入りの砂糖が出る。私がジンジャエールか何か飲んだために、それがテーブルの上に残る。スチュワーデス嬢がやって来て、そいつをつまんで持って行こうとする。その時、私の手が反射的にそれをポケットにすべり込ませる。
砂糖なんて、どこにでもいくらでもあるではないか。それはわかっているのだが、条件反射的にそうなってしまうのだ。私が子供の頃、さる宮様が童謡の作詞をなすって、歌学者たちから激賞された事があったように憶《おぼ》えている。その歌詞の一節は、およそ次のようなものであった。なぜこんな歌詞を今まで忘れもせずに憶えているのか、考えてみると情けない限りだが。