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風に吹かれて20

时间: 2020-07-29    进入日语论坛
核心提示:われらの時代の歌 このところ、ユパンキに凝っている。ユパンキというと、何かカード遊びかオイチョカブの類《たぐ》いのように
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われらの時代の歌

 このところ、ユパンキに凝っている。
ユパンキというと、何かカード遊びかオイチョカブの類《たぐ》いのようにきこえるが、そうではない。
ユパンキ——正確に言うと、アタウアルパ・ユパンキとなる。インディオの血をひく五十九歳の男。アルゼンチンの魂の声といわれる、腰の低いギター弾《ひ》き。
いや、肩書きは外にも書ききれないほどある。哲学者、神学者、詩人、民謡歌手、そして、邦訳〈インディオの道〉の作家。
ユパンキの名前は以前から知ってはいた。今年の夏、彼は金沢の古い町に、ギターを一《いっ》梃《ちょう》かかえて飄然《ひょうぜん》と現われた。〈孤独の石〉〈五月の山〉などの作家として欧米でも有名な彼は、北陸の聴衆のつつましい拍手に、いちいち低く腰を折って実に物静かなお辞儀をくり返していた。家の者はその晩から、熱烈なユパンキの支持者になった。家人が買い込んできたレコードは、今も私のささやかな再生装置の上に乗せられたままである。このところ、旧式の扇風機をかけながらユパンキを聞き、縞瓜《しまうり》を食べて昼寝をするのが日課の一つになってしまった。
先月、私はヨーロッパの端っこの田舎《いなか》町で、ユパンキの名前を聞いた。レストランのテーブルで一緒になった南米のマダムと、手真似《てまね》足真似で話し合った時である。
「トーキョー」
と、彼女が言って、両手をひろげ肩をすくめる。私は苦笑してうなずく。
「サンバ」
と、今度は私が言う。マダムが微笑して、ちょっと踊りの手付きをする。そしてお互いに笑いあう。つまり、そんなふうの、とぎれとぎれの対話である。話がとぎれた後、
「ヴィラ・ローボス」
と、私が言った。ジョーン・バエズが歌った彼の曲は、〈ブラジル風バッハのアリア〉となっていたはずだった。私はそのポルトガル語の詩につけられたメロディーの美しさに、昨年の秋頃、ひどく夢中になっていたのである。
マダムは大きくうなずいて、ニコニコ笑い、それからうっとりと目を閉じて見せると、
「ユパンキ——」
と呟《つぶや》いた。そして深いため息をついたのだった。「——カミニート・デル・インディオ」
その歌は、私も知っていた。
 石ころだらけのインディオの道。谷間より遙《はる》かな星につづく道。インディオの嘆きは夜と共に深く、日と月とわが歌と、道の小石に口づける。ああ、はるかなるインディオの道よ——。
 ユパンキがパリで国際民謡コンクールで優勝したのは、一九五○年のことだと言う。彼はその旅行中、ベルギーで文芸講演会を行い、〈抒情詩《じょじょうし》の作文法〉という話をしたらしい。
いま、私がレコードで聞く彼の声は、決していわゆる職業歌手の声ではない。少しかすれた、どちらかといえば無器用な歌である。だが、どうしてこのような歌をユパンキは歌う事ができるのだろうか、と私は思う。それは聞く者の体の奥にある、乾《かわ》き果てた荒野に降り注ぐ驟雨《しゅうう》のような歌だ。その歌を聞くたびに、私は激しい嫉《しっ》妬《と》の感情を覚えずにはいられない。
なぜ、私たちには、民族の魂にまっすぐつながる現代の歌がないのだろうか? と。
〈最《も》上川《がみがわ》舟歌〉や、〈南部木《こ》挽歌《びきうた》〉や、〈江《え》差追分《さしおいわけ》〉や、〈島原地方の子《こ》守唄《もりうた》〉などという、数多くの民謡が私は好きだ。だが、それはすでに過去の美しい遺産ではあっても、わ《・》れらの時代《・・・・・》が創《つく》り出した私たちの歌ではない。私がユパンキに惹《ひ》かれれば惹かれるほど、私は自分たちの一筋の血の流れから離れて行く感じがある。それが私をいらだたせるのだろう。
私たちが早稲田の学生だった頃、新宿の二丁目の近くに〈モン・ルポ〉という喫茶店があった。その頃はまだ少なかった新しいシャンソンのレコードを沢山集めている店で、私たちの仲間は、よくそこへ通った。若い、和服の似合うほっそりしたマダムがいて、そちらの方にも惹かれていたのかも知れない。
〈ブラマント通り〉、たしかそんな題の歌があったように思う。その歌の奇妙な味が気に入って、私たちの仲間が行くと、その歌をリクエストするのだった。
フランス語が判《わか》らないので、どんな意味だかさっぱり解《わか》らない。だが、それでもあのしゃがれた低音で歌う女の声には、私たちをひきつけるものがあった。
その喫茶店の中で、一杯のコーヒーをちびちびなめながらねばっていた私たちの姿を、いま思い出してみると、かなり照れくさい感じがしないでもない。その頃はまだ、東京でパリ祭などという奇妙な騒ぎがあり、その晩は深夜まで新宿はにぎわうのである。
ともあれ、私はシャンソンのレコードを聞きながら、かすかな嫉妬を感じていたのだった。
〈おれたちのシャンソンは、いったいどこにあるのか?〉
その後、タンゴに凝った時期があった。といっても、レコードの生き字引きみたいな鑑賞法には関心はなかった。私は、今でも上等の録音より、下手《へた》くそな生の演奏の方が好きなのである。そこで、よく日本人のタンゴバンドを聞きに出かけたものだった。硬質のバンドネオンの音や、その花火のような束《つか》の間《ま》の豪華なソロが気に入って、一日に二つのステージをハシゴしたこともある。その演奏が面白ければ面白いほど、私は胸の奥のどこかに、冷たいすき間風が吹いて通るのを感じていた。
やがて私はジャズに夢中になりはじめた。当時はディキシーランド・ジャズが受けていた時代で、ステージもとても活気があったように思う。今は無くなった銀座の〈T〉で、少年少女にまじって演奏を聞き、その足で渋谷の〈スイング〉などへ回ることもあった。私は案外、正統とか本格とかいった権威に関心のない方だったから、ディキシーのレコードに関しても、そうだった。クリス・バーバーなどという妙なバンドが好きだったり、そこでクラリネットを吹いていたモンティ・サンシャインがひいきだったりした。いずれにしても、私はジャズから、強いよろこびと、一種の嫉妬の感情をあたえられた。それは、未《いま》だにそうである。ヨーロッパのジャズメンとくらべると、日本人のプレイヤーは大変優秀だと思う。そのうちにアメリカよりも巧《うま》いジャズをやるのではないか、という気もする。
しかし、日本人が最も見事にジャズを演奏するということは、いったい何だろう。それは、彼が一歩踏み出した分だけ、自分の民族から離れて行ったことになりはしまいか?
アメリカ人がジャズをやる、ということと、日本人がジャズをやる、ということの間には、これまで余り取りあげられなかった、大きな問題があるようだ。アメリカ人に近づくだけ、日本人から離れる、というのでは困るのである。
ミュージカルについても同じことだ。
私はミュージカルというものを、アメリカ人の、欧州と十九世紀に対する独立宣言だと思っている。ヨーロッパのオペラに対する強烈な否定の姿勢に支《ささ》えられているのが、アメリカのミュージカルではないか。とすれば、日本でミュージカルをやるということは、どういうことか?
それはアメリカの創り出したミュージカルに、強い否定の情熱で立ちむかうことだろう。あちらの舞台を、寸分違わず上演するなどという試みは、出発点から錯覚があるのではあるまいか。それが解った時こそ、私はあの奇妙な苛《いら》立《だ》たしさを感ぜずに、国産ミュージカルを見ることができるにちがいない。ユパンキのかすれた歌声は、私にそんなことを考えさせるのである。
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