サーカスの歌悲し
最近では祭にサーカスも来なくなった
道化の子はラッパを吹けどラッパを吹けど誰も笑わず
僕の サーカスの描かれた点景人物が 画面の中で僕の筆で静止させられると あたかもこの世界が この世界が生きているものが動きをやめたと感じられて 僕はふっと恐ろしくなる
ああ道化師よ 君は笑いを売るけど
君の悲しみを買ってくれる者はどこにもいない
サーカスの歌悲し
サーカスは滅び行く芸術なり 二十世紀の遺産なり
レモンの切口の断面のような一輪車の上で輪投げをする道化師の子の兄弟
君達はその芸を別に誇ることもなく淡々と輪投げをする
この世に降りて来た神がその権威の衣を脱ぎ捨てて一人の人間として振舞う自然さでその自然さで兄弟二人は 黙々と輪投げをする
多くの観客が帰ってしまって観客席に誰もいなくなっても
サーカスの団長が夕食をまずしい夕食を食べ終えて眠りについても
明日の朝まで一度も輪を落したりする失敗もせず
誰かが「もうおやめなさい」と言わぬ限り兄弟二人はていねいに輪投げをするだろう
若い若い道化の子 子供子供した道化の兄弟
ああ君たちは幸《しあわ》せだ
この世で何をしていいか迷うこともなく
生れてすぐから本能的にこの芸を
この輪投げをして来たかの如《ごと》く
今日も一日レモンの切口の断面のような一輪車の上で輪投げをする
サーカスの歌悲し
楽師のラッパからするりと抜けたサーカスの歌のメロディは
もう一人の楽師のラッパの中にするりとすべり込んで
この世に形を残さない
ああ サーカスの歌悲し
最近では祭にサーカスも来なくなった
道化の子はラッパを吹けどラッパを吹けど誰も笑わず
僕の サーカスの描かれた点景人物が 画面の中で僕の筆で静止させられると あたかもこの世界が この世界が生きているものが動きをやめたと感じられて 僕はふっと恐ろしくなる
ああ道化師よ 君は笑いを売るけど
君の悲しみを買ってくれる者はどこにもいない
サーカスの歌悲し
サーカスは滅び行く芸術なり 二十世紀の遺産なり
レモンの切口の断面のような一輪車の上で輪投げをする道化師の子の兄弟
君達はその芸を別に誇ることもなく淡々と輪投げをする
この世に降りて来た神がその権威の衣を脱ぎ捨てて一人の人間として振舞う自然さでその自然さで兄弟二人は 黙々と輪投げをする
多くの観客が帰ってしまって観客席に誰もいなくなっても
サーカスの団長が夕食をまずしい夕食を食べ終えて眠りについても
明日の朝まで一度も輪を落したりする失敗もせず
誰かが「もうおやめなさい」と言わぬ限り兄弟二人はていねいに輪投げをするだろう
若い若い道化の子 子供子供した道化の兄弟
ああ君たちは幸《しあわ》せだ
この世で何をしていいか迷うこともなく
生れてすぐから本能的にこの芸を
この輪投げをして来たかの如《ごと》く
今日も一日レモンの切口の断面のような一輪車の上で輪投げをする
サーカスの歌悲し
楽師のラッパからするりと抜けたサーカスの歌のメロディは
もう一人の楽師のラッパの中にするりとすべり込んで
この世に形を残さない
ああ サーカスの歌悲し
この文章の古典的ともいえる均衡を、面白くない、と考える人もいるかも知れない。だが、そんな人は、H君らを、自分らと違った人間と見る傲慢《ごうまん》の罪を犯しているのではないかと思う。これは、狂気の人の心理分析のための資料でも、新しいLSD芸術の一種でもない。
一人の人間の内面の呟きを、彼の美意識の中でまとめあげた文章であり、私を打つのはこの作者が、現に一つの精神の病との苛《か》酷《こく》な闘いと闘いつつある若い人だということなのだろう。
ここに紹介した文章は、彼の絵につけられたキャプションに過ぎないかも知れぬ。サーカスの歌の絵は、およそこんなものだ。画面上方に緑色の僧服のようなものを着た、観客が数十人、奇妙な沈黙のうちに向き合っている。中央に〈レモンの切口〉の断面のような一輪車に乗って、輪投げをしている少年二人。この少年の頭からは三本のアンテナのようなものが出ている。彼らの頭上を、虹《にじ》のように渡るのはメロディーの速音符だ。そして、青いラッパを持った左の演奏者の楽器から、音符は右の演奏者のラッパへと吸い込まれて行く。中ほどに玉に乗ったピンク色の豚。左下に緑色の二匹の烏。
そして、その間に黒い細字で、いくつかの句が書き込まれている。
「雪山の輝ける日も母病めり」
出雲《いずも》 久屋三秋
「東風《こち》の鷺撩乱《さぎりょうらん》と落つ竹《ちく》生《ぶ》島《しま》」
近江《おうみ》八幡《はちまん》 山本隆弥《りゅうや》
絵の説明は空《むな》しい。だが、その絵と文章を通じて、H君が外界との対話を回復しようと苦しんでいることが私にはわかる。
私たちの住む外界は、果してそれに価するほどのものであろうか。
私はそれを考えていまひどく暗い気持でいるのだ。
一人の人間の内面の呟きを、彼の美意識の中でまとめあげた文章であり、私を打つのはこの作者が、現に一つの精神の病との苛《か》酷《こく》な闘いと闘いつつある若い人だということなのだろう。
ここに紹介した文章は、彼の絵につけられたキャプションに過ぎないかも知れぬ。サーカスの歌の絵は、およそこんなものだ。画面上方に緑色の僧服のようなものを着た、観客が数十人、奇妙な沈黙のうちに向き合っている。中央に〈レモンの切口〉の断面のような一輪車に乗って、輪投げをしている少年二人。この少年の頭からは三本のアンテナのようなものが出ている。彼らの頭上を、虹《にじ》のように渡るのはメロディーの速音符だ。そして、青いラッパを持った左の演奏者の楽器から、音符は右の演奏者のラッパへと吸い込まれて行く。中ほどに玉に乗ったピンク色の豚。左下に緑色の二匹の烏。
そして、その間に黒い細字で、いくつかの句が書き込まれている。
「雪山の輝ける日も母病めり」
出雲《いずも》 久屋三秋
「東風《こち》の鷺撩乱《さぎりょうらん》と落つ竹《ちく》生《ぶ》島《しま》」
近江《おうみ》八幡《はちまん》 山本隆弥《りゅうや》
絵の説明は空《むな》しい。だが、その絵と文章を通じて、H君が外界との対話を回復しようと苦しんでいることが私にはわかる。
私たちの住む外界は、果してそれに価するほどのものであろうか。
私はそれを考えていまひどく暗い気持でいるのだ。