何が面白いといったところで、やはり人間ほど面白いものはないと思う。
三十四歳の今日まで、様々な人間を見てきた。それほど深く魂の相寄るところまて踏み込んだことは少ないが、それは私が人間同志お互いの内部にまでかかわり合いを持つことを好まないせいかも知れない。
人間は、ある距離をおいて眺《なが》めている時がいちばん面白いようだ。無責任な言いかただが、君子の交わりは何とやらで、適当に離れて接する友人ほど良く続いている。
人間の内部にわけ入って、いろいろ探索するなどというのは、私には気恥ずかしくて、とても出来ない。自分が分析されるのは平気だが、他人は外から眺めているほうが、いろいろと楽しいように思う。
時々、ふっと全く関連のない人の顔が頭に浮んで来て、思わずニヤリとすることがある。何人かの思い出す人々の顔を、ポップ風にあげてみよう。悪意あっての文章ではなく、私にとってはそれぞれ懐《なつ》かしいイメージばかりなので、ご当人も笑って見《み》逃《のが》していただきたい。
夏であったか、それとも秋であったか、はっきりした記憶はない。
私はNHKテレビのMさんというディレクター氏と一緒に、浅草のとある二階家の座敷にいた。私のほかに、放送ライターのOさん、Nさんなどがいたように思う。
前に坐ってウチワで悠々《ゆうゆう》と風を送っている中年の婦人がいた。簡単服を涼しそうに着てニコニコ笑っている。堂々たる体格で、ゆったり坐ったところが、実に頼もしく感じられるような女性である。ちょっとした目つきや、身ごなしにいなせ《・・・》な歯切れの良さがあった。
何かのひょうしに、その人は、ウチワを持ちなおし、トントンとこぶしで膝《ひざ》のそばの畳を叩《たた》いた。トントンであったか、ドンドンであったか憶《おぼ》えがない。ただ、その太い二の腕の内側の女らしい白さが目にしみた。
トントンと叩く。二階の座敷である。とたんに下から若い衆の声。
「へーイ」
たったったっ、と足早に階段をかけ上ってくる足音。ふすまの向うですっと腰を下ろす気配。ふすまがひらく。半てんを着た角刈りの兄貴が、
「お呼びで?」
「お客さんに冷たいお茶を差し上げておくれ」
「へえ」
さっと一礼して、たったったっと歯切れよく駆け降りて行く足音。
「こちらのお兄さんも、どうぞお楽に」
ニコッと笑って声をかけられて、私も思わず、
「へえ」
ウチワの女性は浅香光代さんであった。私たちがやっていたNHKのカラー番組に、赤《あか》城《ぎ》の名月の一幕を演じていただこうと、お願いに参上つかまつっていたわけである。カメリハの時から、VTRのロールの時まで、彼女は実に誠実なアーチストであった。
最近あまりパッとしない女剣戟《おんなけんげき》の世界だが、浅香さんには江東から東武線の沿線にかけて、強力なおかみさん連の支持があるという。あの、畳をトントン、ヘーイ、という呼吸の良さを思い出すたびに、何となく楽しくなるのである。
私がCMソングを自分の名前ではじめて書いたのは、いつだったろう。
その年月もはっきり憶えていないが、商品名と、歌ってくれたタレントさんのことは良く憶えている。なんであれ、自分の最初の仕事というものは、愛着のあるもので、忘れ難い記憶となって残ってしまう。特にその作品があまり人目を引かず、不遇のうちに埋もれたりするとなおさらだ。評判になったものより、何倍もの執着を感じたりするから不思議なものである。
それは〈○○のパピー〉という新製品のCMソングであった。何でも水気を拭《ふ》きとる道具だったらしい。カタログを暗記するほど読み返して、ようやく一篇のヴァースを作りあげた。
�パピー パピー
何でもふいちゃう パピー
みたいな、たあいのない文句である。だが、処女作を発表する私としては、言葉を洗って洗い流した末に出来上った不朽の傑作と思われた。
作曲は、桜井順さんと並んで売れっ子の越部信義先生。その後、長くコンビを組んで曲を書いていただいた作曲家である。
日本短波放送の薄暗いスタジオで、録音が行われた。歌い手さんは私の知らない名前の人だった。用意が出来たころ、マネージャーに連れられて、一人の小柄な女学生がやって来た。カバンを下げ、セーラー服を着ている。
「この人が歌うんですか?」
私はいささかガッカリして聞いた。私は自分の最初の作品を歌うタレントさんに過大なイメージを抱《いだ》きすぎていたのだった。
「だいじょうぶ。この子は凄《すご》い才能がありますよ。将来きっと大物になります」
マネージャー氏が、私をなぐさめるように言った。
「はあ」
私は半信半疑であった。何でも学期末の試験で大変疲れているという。マイクに向ったセーラー服のスカートのお尻《しり》の所が、ピカピカ光っているのが目についた。
テストが始まったとき、私は軽いショックを受けた。張りのあるパンチのきいた声と、その声の背後ににじむ可《か》憐《れん》なお色気が私を驚かせた。そして、それにもまして、額に吹き出る汗を拭こうともせず、体ごと叩きつけるように歌っているセーラー服の少女の後ろ姿に、私はなみなみならぬ歌い手の気迫のようなものを感じたのだった。
アイロンの当てすぎだろうか、ピカピカ光っていたスカートのお尻を、私は今でも思い出す。私の横の長椅子には、少しくたびれた、蛙《かえる》の腹のようにふくらんだカバンがあった。前の晩、試験勉強で徹夜をしたという少女の横顔には、〈芸〉の世界の重いカーテンを体ごとぶっつけてくぐって行こうという、一種の執念のようなものが光っていた。彼女のカバンにつまっているのは、教科書だけではなかったに違いない。それははかなくも華《はな》やかな、ショウビジネスの世界に生きようと志した少女の、夢と決意でもあっただろう。
私はタレントの生活というものが、必ずしも人間として望ましい生き方であるとは思わない。それは、ある意味では虚《むな》しい世界でもある。だが、この世のことで、虚しくない世界が外にあるだろうか。いずれにせよ、年若い少女が、ひたむきにその世界をめざす姿には、一種の哀切な感動があった。
その少女が、中尾ミエ、という名前であることを、私は後で知った。その日から私は彼女に会ったことがない。やがて〈可愛いベイビー〉という歌で彼女は、望んでいたショウビジネスの世界に存在権を得た。新聞によると、近くリオの音楽祭に出演するという。
せっかく歌ってもらった私の処女CMは、もう月日の流れに消えうせてしまっているが、私の脳裏に今もチカチカと光っているスカートの記憶は残っている。おそらく私が見たのは、一人の歌い手の卵ではなく、幼くして一つの道に賭《か》けた人間の後ろ姿だったのだろう。そして、小説を書くという年来の抱負から遠ざかって、一向にめざす仕事のいとぐちに近づけずにもがいていた私自身に対する、恥ずかしさだったのかも知れない。
三十四歳の今日まで、様々な人間を見てきた。それほど深く魂の相寄るところまて踏み込んだことは少ないが、それは私が人間同志お互いの内部にまでかかわり合いを持つことを好まないせいかも知れない。
人間は、ある距離をおいて眺《なが》めている時がいちばん面白いようだ。無責任な言いかただが、君子の交わりは何とやらで、適当に離れて接する友人ほど良く続いている。
人間の内部にわけ入って、いろいろ探索するなどというのは、私には気恥ずかしくて、とても出来ない。自分が分析されるのは平気だが、他人は外から眺めているほうが、いろいろと楽しいように思う。
時々、ふっと全く関連のない人の顔が頭に浮んで来て、思わずニヤリとすることがある。何人かの思い出す人々の顔を、ポップ風にあげてみよう。悪意あっての文章ではなく、私にとってはそれぞれ懐《なつ》かしいイメージばかりなので、ご当人も笑って見《み》逃《のが》していただきたい。
夏であったか、それとも秋であったか、はっきりした記憶はない。
私はNHKテレビのMさんというディレクター氏と一緒に、浅草のとある二階家の座敷にいた。私のほかに、放送ライターのOさん、Nさんなどがいたように思う。
前に坐ってウチワで悠々《ゆうゆう》と風を送っている中年の婦人がいた。簡単服を涼しそうに着てニコニコ笑っている。堂々たる体格で、ゆったり坐ったところが、実に頼もしく感じられるような女性である。ちょっとした目つきや、身ごなしにいなせ《・・・》な歯切れの良さがあった。
何かのひょうしに、その人は、ウチワを持ちなおし、トントンとこぶしで膝《ひざ》のそばの畳を叩《たた》いた。トントンであったか、ドンドンであったか憶《おぼ》えがない。ただ、その太い二の腕の内側の女らしい白さが目にしみた。
トントンと叩く。二階の座敷である。とたんに下から若い衆の声。
「へーイ」
たったったっ、と足早に階段をかけ上ってくる足音。ふすまの向うですっと腰を下ろす気配。ふすまがひらく。半てんを着た角刈りの兄貴が、
「お呼びで?」
「お客さんに冷たいお茶を差し上げておくれ」
「へえ」
さっと一礼して、たったったっと歯切れよく駆け降りて行く足音。
「こちらのお兄さんも、どうぞお楽に」
ニコッと笑って声をかけられて、私も思わず、
「へえ」
ウチワの女性は浅香光代さんであった。私たちがやっていたNHKのカラー番組に、赤《あか》城《ぎ》の名月の一幕を演じていただこうと、お願いに参上つかまつっていたわけである。カメリハの時から、VTRのロールの時まで、彼女は実に誠実なアーチストであった。
最近あまりパッとしない女剣戟《おんなけんげき》の世界だが、浅香さんには江東から東武線の沿線にかけて、強力なおかみさん連の支持があるという。あの、畳をトントン、ヘーイ、という呼吸の良さを思い出すたびに、何となく楽しくなるのである。
私がCMソングを自分の名前ではじめて書いたのは、いつだったろう。
その年月もはっきり憶えていないが、商品名と、歌ってくれたタレントさんのことは良く憶えている。なんであれ、自分の最初の仕事というものは、愛着のあるもので、忘れ難い記憶となって残ってしまう。特にその作品があまり人目を引かず、不遇のうちに埋もれたりするとなおさらだ。評判になったものより、何倍もの執着を感じたりするから不思議なものである。
それは〈○○のパピー〉という新製品のCMソングであった。何でも水気を拭《ふ》きとる道具だったらしい。カタログを暗記するほど読み返して、ようやく一篇のヴァースを作りあげた。
�パピー パピー
何でもふいちゃう パピー
みたいな、たあいのない文句である。だが、処女作を発表する私としては、言葉を洗って洗い流した末に出来上った不朽の傑作と思われた。
作曲は、桜井順さんと並んで売れっ子の越部信義先生。その後、長くコンビを組んで曲を書いていただいた作曲家である。
日本短波放送の薄暗いスタジオで、録音が行われた。歌い手さんは私の知らない名前の人だった。用意が出来たころ、マネージャーに連れられて、一人の小柄な女学生がやって来た。カバンを下げ、セーラー服を着ている。
「この人が歌うんですか?」
私はいささかガッカリして聞いた。私は自分の最初の作品を歌うタレントさんに過大なイメージを抱《いだ》きすぎていたのだった。
「だいじょうぶ。この子は凄《すご》い才能がありますよ。将来きっと大物になります」
マネージャー氏が、私をなぐさめるように言った。
「はあ」
私は半信半疑であった。何でも学期末の試験で大変疲れているという。マイクに向ったセーラー服のスカートのお尻《しり》の所が、ピカピカ光っているのが目についた。
テストが始まったとき、私は軽いショックを受けた。張りのあるパンチのきいた声と、その声の背後ににじむ可《か》憐《れん》なお色気が私を驚かせた。そして、それにもまして、額に吹き出る汗を拭こうともせず、体ごと叩きつけるように歌っているセーラー服の少女の後ろ姿に、私はなみなみならぬ歌い手の気迫のようなものを感じたのだった。
アイロンの当てすぎだろうか、ピカピカ光っていたスカートのお尻を、私は今でも思い出す。私の横の長椅子には、少しくたびれた、蛙《かえる》の腹のようにふくらんだカバンがあった。前の晩、試験勉強で徹夜をしたという少女の横顔には、〈芸〉の世界の重いカーテンを体ごとぶっつけてくぐって行こうという、一種の執念のようなものが光っていた。彼女のカバンにつまっているのは、教科書だけではなかったに違いない。それははかなくも華《はな》やかな、ショウビジネスの世界に生きようと志した少女の、夢と決意でもあっただろう。
私はタレントの生活というものが、必ずしも人間として望ましい生き方であるとは思わない。それは、ある意味では虚《むな》しい世界でもある。だが、この世のことで、虚しくない世界が外にあるだろうか。いずれにせよ、年若い少女が、ひたむきにその世界をめざす姿には、一種の哀切な感動があった。
その少女が、中尾ミエ、という名前であることを、私は後で知った。その日から私は彼女に会ったことがない。やがて〈可愛いベイビー〉という歌で彼女は、望んでいたショウビジネスの世界に存在権を得た。新聞によると、近くリオの音楽祭に出演するという。
せっかく歌ってもらった私の処女CMは、もう月日の流れに消えうせてしまっているが、私の脳裏に今もチカチカと光っているスカートの記憶は残っている。おそらく私が見たのは、一人の歌い手の卵ではなく、幼くして一つの道に賭《か》けた人間の後ろ姿だったのだろう。そして、小説を書くという年来の抱負から遠ざかって、一向にめざす仕事のいとぐちに近づけずにもがいていた私自身に対する、恥ずかしさだったのかも知れない。