私が金沢に住んでいるのは、べつにこの土地の風物人情が好きで好きでたまらないから、というわけではない。
住んでみたら、意外に面白い所で、気に入ってしまった、というのが本音である。
私が裏日本の地方都市に移住することを決意したとき、私の頭の中にあったのは〈東京との断絶〉という意識だった。
東京という文字に集約されるところの、いわば現代的と言われる生き方そのものに、一種の疑念を抱《いだ》いたからである。
だが、現在、私は金沢に住んでいて、全く東京と離れて生きているということを感じる瞬間が、ほとんどない。
電話と航空路線が、この北陸の都市を、東京の郊外都市にしてしまった、という気がする。
それは金沢に限らず、日本中どこでもそうだろう。日本と限らず、スペインでも、ポルトガルでもそうだった。先月、私は短い海外旅行をしたが、行く先々のホテルで東京からの、或《ある》いは東京への国際電話が私を待っていた。
つい先ごろも、小説の中で使うため、今年の夏のモスクワ競馬の模様を、モスクワにいる友人の神馬氏に電話で問い合せたばかりである。
こうなって来ると、金沢にいても、東京にいても、さして変らぬという事になってくる。しかし、それは私の本意ではなかった。
私は、マスコミの世界に逆もどりして一年半に満たないが、マスコミとの接し方に、自分なりのポリシーを持ち、それを押し通してみようと考えて来た。それは、危険なことかも知れない、という予感があった。また、友人のジャーナリストたちも、それに関して警告を発してくれてもいた。
まず、私は一ヵ月の執筆の限界量を自分で定め、それ以上の仕事は辞退することを決心した。それは、様々な意味で当事者にしかわからぬ困難があった。今年のはじめ、ある文学賞を受けてからは、なおさらだった。その賞を辞退せずに、受けた瞬間から、私はマスコミに対して一種の責任を引き受けたことになると、自分で感じたためである。
私はまず怠《なま》け者であり、オブローモフ主義とトリビアリズムの鉄鎖に骨がらみにされたタイプの人間だった。
原稿は遅々として進まず、といって私は酒を飲んでストレスを発散させる豪快さも持ち合せてはいなかった。私としては、結局、定められた小説のノルマ以外の、様々な執筆依頼を峻拒《しゅんきょ》するしかすべはなかった。
それが通り一ぺんの注文である場合は、何でもないかも知れない。しかし、若い作家を迎えるジャーナリストの好意と、同世代の共感に支《ささ》えられた編集者の意図にもとづく企画であり、依頓であるような場合は、それにどう対すればいいのだろうか。
しかし、幸運にも私は今日まで、どうにか自分の限界量をかたくなに守り通してくることが出来た。これは先輩作家の方々と、編集者諸子の例外的な配慮のたまものであって、私の能力ではない。
だが私は、電話で、あるいは手紙で、わざわざ執筆の申入れがあるたびに、それこそ受話器を持って脂汗《あぶらあせ》を流しながら、辞退させてもらいたい意志を喋《しゃべ》ったのだ。それは、徹夜で原稿を書く苦しみに数倍するエネルギーと精神の消耗を必要とした。
今年の夏のはじめ、金沢に突然、ある若い作家が来られた。仮にK氏としておく。
K氏と私は浅野川に面したゴリ料理の店、〈ごりや〉でビールを飲みながら、何とはなしに仕事の話などをした。
そのK氏は、私より数回前に、私と同じ文学賞を受けていた。だが、K氏は、最近あまり原稿の注文がない、今度も出版社に原稿を持ち込んでの帰りだ、と何のてらいもない口調で淡々と私に語った。
「あなたは忙しいでしょう」
と、K氏は言った。その語調に、少しでも皮肉や、気負いのニュアンスがあれば、私は反撥《はんぱつ》しただろうと思う。小説を書く者同志の残酷非情な魂ぐらいは、私とて持ちあわせていないわけではない。
だが、K氏の目は、窓の下を流れる浅野川の水よりももっときれいに澄んでいて、平静だった。それはK氏が今もなお自分の書くものを信じて、ゆったりした歩調でジャーナリズムの背後の自分だけの道を歩み続けていることを、私に感じさせる目の色だった。
「ええ」
と、私は答えた。「忙しいです」
それから私たちは、しばらく黙って窓の外の流れや、黒く光る瓦《かわら》の波、その向うの兼六園の木立ちなどを眺《なが》めて坐っていた。
やがて〈ごりや〉の仲居さんが、一冊の揮《き》毫帳《ごうちょう》と硯《すずり》を持って現われた。私たちは辞退したが、きき入れられず、それを開いて見た。
吉田健一氏や、河上徹太郎氏や、大江健三郎氏や、そのほか沢山の文学者の署名を私たちは眺めた。高見順氏の、
「ごりは鳴くとも云《い》ひ、鳴かぬとも云ふ」
という文章もあった。
私もK氏も、お互いに尻《しり》ごみしたが、その場の空気は、辞退を許さない感じだった。仕方なしに私は、はじめての筆を取り、短い文章を書いた。K氏に筆を渡すと、彼は、力のこもった確かな字で、
「詩酒生涯」
と、書き、自分の名前を置いた。その字の筆勢には、いま不遇のうちに沈黙している作家の屈折した心理や暗さは、全くなかった。
私はその時、自分がいつかK氏と同じように、仕事の場を持たずに沈潜しなければならぬ時が来たとき、果してそのような確かな字が書けるだろうか、と考えた。私はその自信はなかった。だが、そんなふうでありたいと思った。
私はK氏が、K氏にしか書けない世界を描いた力のこもった作品をひっさげて、やがて思う通りの仕事が出来る場所をかち取る日がいずれ必ずくるだろうと信じている。私たちは、中間小説、或いは読み物、と呼ばれている領域で仕事をしているが、この世界にもそれなりの厳《きび》しい創作と売文の弁証法はある。その中で、無口で控え目なK氏が、「詩酒生涯」と呟《つぶや》きながら、ゆっくりした歩調で歩いて行く姿は、私を感動させた。
こういう文章を書くことが、K氏に対して失礼ではなかったか、と私は怖《おそ》れている。だが、あの夏の初めの午後の一刻は、私にとって、とても貴重なものだった。そして、それを書かずにいられないのが物書きの哀《かな》しい性《さが》なのかも知れない。
その日の午後、〈ごりや〉を出て、私たち二人は、浅野川ぞいの道を、大橋まで歩いた。日ざしは強かったが、空気が乾《かわ》いて、気持のいい日だった。
子供たちが川の石の間で魚を取っていた。私は下駄ばきで、K氏は少し古風なズボンをはき、遠くの医《い》王山《おうぜん》などを眺めながら、ゆっくり歩いて行った。
そんなふうに金沢の街を二人で歩いていると、私たちには、文壇とか、作品の評判とか、今後の行く末とか、そんなふうなものが、はるかな遠い国のことのように感じられた。
おそらくK氏もそうだっただろうと思う。
物を書く仕事が決して嫌《きら》いではない人間同志で、天気のいい川っぷちを歩いているのは、大変いい気持のものだった。
「こんどまた来てください」
と私は言った。K氏はうなずいて、まぶしそうに空を見て顔をしかめた。大橋を渡らずに、私たちは右に折れ、東のくるわ《・・・》を抜けて別れた。とてもいい日だった。
住んでみたら、意外に面白い所で、気に入ってしまった、というのが本音である。
私が裏日本の地方都市に移住することを決意したとき、私の頭の中にあったのは〈東京との断絶〉という意識だった。
東京という文字に集約されるところの、いわば現代的と言われる生き方そのものに、一種の疑念を抱《いだ》いたからである。
だが、現在、私は金沢に住んでいて、全く東京と離れて生きているということを感じる瞬間が、ほとんどない。
電話と航空路線が、この北陸の都市を、東京の郊外都市にしてしまった、という気がする。
それは金沢に限らず、日本中どこでもそうだろう。日本と限らず、スペインでも、ポルトガルでもそうだった。先月、私は短い海外旅行をしたが、行く先々のホテルで東京からの、或《ある》いは東京への国際電話が私を待っていた。
つい先ごろも、小説の中で使うため、今年の夏のモスクワ競馬の模様を、モスクワにいる友人の神馬氏に電話で問い合せたばかりである。
こうなって来ると、金沢にいても、東京にいても、さして変らぬという事になってくる。しかし、それは私の本意ではなかった。
私は、マスコミの世界に逆もどりして一年半に満たないが、マスコミとの接し方に、自分なりのポリシーを持ち、それを押し通してみようと考えて来た。それは、危険なことかも知れない、という予感があった。また、友人のジャーナリストたちも、それに関して警告を発してくれてもいた。
まず、私は一ヵ月の執筆の限界量を自分で定め、それ以上の仕事は辞退することを決心した。それは、様々な意味で当事者にしかわからぬ困難があった。今年のはじめ、ある文学賞を受けてからは、なおさらだった。その賞を辞退せずに、受けた瞬間から、私はマスコミに対して一種の責任を引き受けたことになると、自分で感じたためである。
私はまず怠《なま》け者であり、オブローモフ主義とトリビアリズムの鉄鎖に骨がらみにされたタイプの人間だった。
原稿は遅々として進まず、といって私は酒を飲んでストレスを発散させる豪快さも持ち合せてはいなかった。私としては、結局、定められた小説のノルマ以外の、様々な執筆依頼を峻拒《しゅんきょ》するしかすべはなかった。
それが通り一ぺんの注文である場合は、何でもないかも知れない。しかし、若い作家を迎えるジャーナリストの好意と、同世代の共感に支《ささ》えられた編集者の意図にもとづく企画であり、依頓であるような場合は、それにどう対すればいいのだろうか。
しかし、幸運にも私は今日まで、どうにか自分の限界量をかたくなに守り通してくることが出来た。これは先輩作家の方々と、編集者諸子の例外的な配慮のたまものであって、私の能力ではない。
だが私は、電話で、あるいは手紙で、わざわざ執筆の申入れがあるたびに、それこそ受話器を持って脂汗《あぶらあせ》を流しながら、辞退させてもらいたい意志を喋《しゃべ》ったのだ。それは、徹夜で原稿を書く苦しみに数倍するエネルギーと精神の消耗を必要とした。
今年の夏のはじめ、金沢に突然、ある若い作家が来られた。仮にK氏としておく。
K氏と私は浅野川に面したゴリ料理の店、〈ごりや〉でビールを飲みながら、何とはなしに仕事の話などをした。
そのK氏は、私より数回前に、私と同じ文学賞を受けていた。だが、K氏は、最近あまり原稿の注文がない、今度も出版社に原稿を持ち込んでの帰りだ、と何のてらいもない口調で淡々と私に語った。
「あなたは忙しいでしょう」
と、K氏は言った。その語調に、少しでも皮肉や、気負いのニュアンスがあれば、私は反撥《はんぱつ》しただろうと思う。小説を書く者同志の残酷非情な魂ぐらいは、私とて持ちあわせていないわけではない。
だが、K氏の目は、窓の下を流れる浅野川の水よりももっときれいに澄んでいて、平静だった。それはK氏が今もなお自分の書くものを信じて、ゆったりした歩調でジャーナリズムの背後の自分だけの道を歩み続けていることを、私に感じさせる目の色だった。
「ええ」
と、私は答えた。「忙しいです」
それから私たちは、しばらく黙って窓の外の流れや、黒く光る瓦《かわら》の波、その向うの兼六園の木立ちなどを眺《なが》めて坐っていた。
やがて〈ごりや〉の仲居さんが、一冊の揮《き》毫帳《ごうちょう》と硯《すずり》を持って現われた。私たちは辞退したが、きき入れられず、それを開いて見た。
吉田健一氏や、河上徹太郎氏や、大江健三郎氏や、そのほか沢山の文学者の署名を私たちは眺めた。高見順氏の、
「ごりは鳴くとも云《い》ひ、鳴かぬとも云ふ」
という文章もあった。
私もK氏も、お互いに尻《しり》ごみしたが、その場の空気は、辞退を許さない感じだった。仕方なしに私は、はじめての筆を取り、短い文章を書いた。K氏に筆を渡すと、彼は、力のこもった確かな字で、
「詩酒生涯」
と、書き、自分の名前を置いた。その字の筆勢には、いま不遇のうちに沈黙している作家の屈折した心理や暗さは、全くなかった。
私はその時、自分がいつかK氏と同じように、仕事の場を持たずに沈潜しなければならぬ時が来たとき、果してそのような確かな字が書けるだろうか、と考えた。私はその自信はなかった。だが、そんなふうでありたいと思った。
私はK氏が、K氏にしか書けない世界を描いた力のこもった作品をひっさげて、やがて思う通りの仕事が出来る場所をかち取る日がいずれ必ずくるだろうと信じている。私たちは、中間小説、或いは読み物、と呼ばれている領域で仕事をしているが、この世界にもそれなりの厳《きび》しい創作と売文の弁証法はある。その中で、無口で控え目なK氏が、「詩酒生涯」と呟《つぶや》きながら、ゆっくりした歩調で歩いて行く姿は、私を感動させた。
こういう文章を書くことが、K氏に対して失礼ではなかったか、と私は怖《おそ》れている。だが、あの夏の初めの午後の一刻は、私にとって、とても貴重なものだった。そして、それを書かずにいられないのが物書きの哀《かな》しい性《さが》なのかも知れない。
その日の午後、〈ごりや〉を出て、私たち二人は、浅野川ぞいの道を、大橋まで歩いた。日ざしは強かったが、空気が乾《かわ》いて、気持のいい日だった。
子供たちが川の石の間で魚を取っていた。私は下駄ばきで、K氏は少し古風なズボンをはき、遠くの医《い》王山《おうぜん》などを眺めながら、ゆっくり歩いて行った。
そんなふうに金沢の街を二人で歩いていると、私たちには、文壇とか、作品の評判とか、今後の行く末とか、そんなふうなものが、はるかな遠い国のことのように感じられた。
おそらくK氏もそうだっただろうと思う。
物を書く仕事が決して嫌《きら》いではない人間同志で、天気のいい川っぷちを歩いているのは、大変いい気持のものだった。
「こんどまた来てください」
と私は言った。K氏はうなずいて、まぶしそうに空を見て顔をしかめた。大橋を渡らずに、私たちは右に折れ、東のくるわ《・・・》を抜けて別れた。とてもいい日だった。