賭《か》けごとについて書くのは、難《むず》かしいことだと思う。
自慢げに自分の戦歴や方法論を開陳するのは、すでに敵の前に持ち札をさらすようなもので、ギャンブラーの心掛けとしてはすでに失格といわねばなるまい。
といって、無《む》闇《やみ》と謙虚に構えるのも、大物を気取っているようで、いささか面《おも》映《ば》ゆいものだ。
私が競馬場にはじめて父に連れられて行ったのは小学生の三年か、四年の頃ではなかったかと思う。
当時、私は北鮮の平壌《へいじょう》に住んでいた。
父は教育者で、それも先生を養成する学校に勤めていたのだから、競馬場などに出入りするには可成りの抵抗があったにちがいない。
「他人に競馬に行ったなどと言うんじゃないぞ」
と、念をおされたのを憶《おぼ》えている。
父は統計的に資料を集めるやり方をとっていた。分厚い大学ノートが、切抜きで魚の腹のようにふくらんでいる。それをスタンドで拡《ひろ》げて、鉛筆で何やら計算をしてはマークをつけていた。コンピューターなどという便利なものが出来た現在なら、きっとそのお世話になる口ではないかと思う。
平壌の競馬場は、それほど大きなものではなかった。それだけに、観客の数も少なく、空気はきれいで平和ないい遊び場だった。向う正面のアカシアの花の下を、原色の騎手の帽子がチラチラ見え隠れに走る風《ふ》情《ぜい》は、抒情《じょじょう》的な風景でさえあった。
なにぶん子供の頃のこととて、具体的な数字も何も記憶に残ってはいない。ただ、ゴール寸前で、それまで悠々《ゆうゆう》とトップを走っていた馬が不意に崩《くず》れるように転《ころ》んだ時、そばの朝鮮人の老人が、「哀号《アイゴー》!」という絶えいるような叫びをあげた、その声だけを良く憶えている。
この「哀号」という叫びを、その後、私は何度きいただろうか。
一度は、関《かん》釜《ぷ》連絡船(下関—釜《ふ》山《ざん》間)の長いブリッジの上で、私服の官憲に連れの男を引き立てられて行く白衣の美しい娘の号泣として聞いた。
また、ある時は、一尺ちかい魚を、手もと寸前ですくいそこねた少年の叫び声としても聞いた。話はそれるが、ポーカーや、麻雀《マージャン》や、花札などのゲームで、千慮の一失というべき失策をやらかした時など、思わず「哀号!」と呟《つぶや》いて相手に変な顔をされることがある。そんな場合に、実にぴったりな感じなのだ。
敗戦後、引揚げて来て競馬場へ行くようになったのは、しばらく千葉県の中山に住んでいたためだ。
中山競馬の開催日は、下駄ばきで歩いて出かけた。私が中山に住んでいた頃は、カツラシュウホウにはじまり、キタノオー、ハクチカラの対決が人気を集めていた時代である。
金のない時は、船橋へもよく行った。ここには、二十円で買えるノミ屋が繁盛していて、百円札一枚持って競馬をやることが出来たからだ。
金沢に移ってからは、一、二度金沢競馬をのぞいて見たことがあるが、以前、大井とか、その他の場所で見た馬に再会するのが、何となく気分的にいやで、余り行かなくなった。
一昨年の夏、モスクワで競馬場へ行ったときの事は、小説の中で使った。東宝のロケ隊が今度、モスクワから帰って来て、競馬場のフィルムを見せてもらったが面白かった。どんな風にそのフィルムが使われるか楽しみである。
モスクワ競馬の単勝は、日本と同じだが、連勝はない。重勝式というやつで、二つのレースの頭を続けて当てる形式のものである。以前、こちらであったトリプル式みたいなものだ。
レニングラード大通りに面して、余り都心にあるのでびっくりするような場所に競馬場はある。モスクワ銀座といわれるゴーリキイ通りを真っすぐ行き、左手に当る。入口の門など、堂々たる凱旋門《がいせんもん》のような代物《しろもの》で、数頭の馬が天を駆けるような姿でいなないている彫刻が乗っているので、それとわかる。
ソ連でも、やはり競馬場へ行くのは余り感心しないことと見えて、タクシーの運転手にレース場へやれ、と言うと、意見をするおっさんなどがいた。
「お前さん、わざわざ外国からやって来て、もっと大事な見る所があるじゃないか。見ればいい若いもんが、競馬場とは何だい。よし、安くしてやるから経済博覧会かモスクワ大学でも行ってみなせえ」
といった調子で早口のロシア語をまくしたてるひげ面《・・・》の運転手もいた。
馬の名前にも、面白いのがいた。ガガーリン、とかライカなどと宇宙衛星にちなんだ名前も目についた。スターリンという馬はさすがにいなかったようだ。
レーニン賞というレースはあるらしいが、いずれにしても、日本のように大観衆が押しよせることはないだろう。それに、どうもあのケイガ・レースというやつは面白味が少ない。
いつか日ソ親善レースでもやったらどうだろうと考えた。何しろ、コサックの伝統を誇るロシアのことだから、相当ハッスルすることは間違いない。万博で、全世界の馬でも集めて、世界競馬大会でも開くという手もある。
競馬の専門紙を見るたびに思うのだが、競馬新聞の見出しや、文章には、すでにマスコミの世界で失われたパーソナリティが横溢《おういつ》していて、実に面白い。
おそらく日本の競馬新聞ほど季節感や、物語的要素を多くもりこんだ予想紙はないのではあるまいか。浪曲とか、講談といった古来の伝統的な大衆文芸の要素を、自由に駆使して、読者を引きずって行く筆力はたいしたものだと思う。
よく当る、ということと同時に、血湧《わ》き肉躍《おど》るといった楽しみ、すでに新聞紙上からは失われてしまった原始的な文章機能が、ここにはある。
当節流行のマクルーハンなどの理論では、活字文化はすでに十九世紀的なものとされているが、果してそうか。
最近の野球記事のつまらなさなどは、一には、すでにニュースとして周知の試合の経過を、クールなタッチで書いているからではないかと思う。時代に逆行するようだが、テレビを見るより、新聞記事を読む方が野球を楽しめる、といった具合にやってみてはどうだろう。私個人の好みを言えば、冷静客観的に事実を述べた記事よりも、舞文曲筆といった類《たぐ》いの記事に、より魅力を感じる。
時たま競馬新聞をひろげて見る度《たび》に、文章の伝達力も、まんざら捨てたものではないと思ってみたりする。
私は大学の頃、体育の実技に、馬術を選択したことがあった。いちおうその実技の最後の週には、障害までやることになっていた。
障害をやるという日、私は少し緊張して学校へ行った。落馬して病院にかつぎこまれても恥をかかないように、下着なども着かえておいた。馬は、以前競馬で走っていて、払下げを受けた中央競馬のスターのなれの果てである。腐っても何とやらで、勇ましいところを見せてくれるに違いないと信じていた。馬場に出ると、中央に、ハシゴが一本横に立ててある。
「あれを飛び越すんだ」
と講師が言った。私たちはそれぞれ馬にうちまたがって、そのハシゴを越えた。老馬はさも物《もの》憂《う》げに脚《あし》をあげ、ゆっくりとハシゴをまたいで行った。
「昔、馬をやったんだってね」
と言われることがある。
「ええ」
と、私はいささか照れながら答える。
「いちおう障害までやりました」
大学を出る出方に、二つある。タテに出るのを卒業といい、ヨコに出るのを中退という。ハシゴを横に越えた私は、その数年後、大学をヨコに出ることになった。
自慢げに自分の戦歴や方法論を開陳するのは、すでに敵の前に持ち札をさらすようなもので、ギャンブラーの心掛けとしてはすでに失格といわねばなるまい。
といって、無《む》闇《やみ》と謙虚に構えるのも、大物を気取っているようで、いささか面《おも》映《ば》ゆいものだ。
私が競馬場にはじめて父に連れられて行ったのは小学生の三年か、四年の頃ではなかったかと思う。
当時、私は北鮮の平壌《へいじょう》に住んでいた。
父は教育者で、それも先生を養成する学校に勤めていたのだから、競馬場などに出入りするには可成りの抵抗があったにちがいない。
「他人に競馬に行ったなどと言うんじゃないぞ」
と、念をおされたのを憶《おぼ》えている。
父は統計的に資料を集めるやり方をとっていた。分厚い大学ノートが、切抜きで魚の腹のようにふくらんでいる。それをスタンドで拡《ひろ》げて、鉛筆で何やら計算をしてはマークをつけていた。コンピューターなどという便利なものが出来た現在なら、きっとそのお世話になる口ではないかと思う。
平壌の競馬場は、それほど大きなものではなかった。それだけに、観客の数も少なく、空気はきれいで平和ないい遊び場だった。向う正面のアカシアの花の下を、原色の騎手の帽子がチラチラ見え隠れに走る風《ふ》情《ぜい》は、抒情《じょじょう》的な風景でさえあった。
なにぶん子供の頃のこととて、具体的な数字も何も記憶に残ってはいない。ただ、ゴール寸前で、それまで悠々《ゆうゆう》とトップを走っていた馬が不意に崩《くず》れるように転《ころ》んだ時、そばの朝鮮人の老人が、「哀号《アイゴー》!」という絶えいるような叫びをあげた、その声だけを良く憶えている。
この「哀号」という叫びを、その後、私は何度きいただろうか。
一度は、関《かん》釜《ぷ》連絡船(下関—釜《ふ》山《ざん》間)の長いブリッジの上で、私服の官憲に連れの男を引き立てられて行く白衣の美しい娘の号泣として聞いた。
また、ある時は、一尺ちかい魚を、手もと寸前ですくいそこねた少年の叫び声としても聞いた。話はそれるが、ポーカーや、麻雀《マージャン》や、花札などのゲームで、千慮の一失というべき失策をやらかした時など、思わず「哀号!」と呟《つぶや》いて相手に変な顔をされることがある。そんな場合に、実にぴったりな感じなのだ。
敗戦後、引揚げて来て競馬場へ行くようになったのは、しばらく千葉県の中山に住んでいたためだ。
中山競馬の開催日は、下駄ばきで歩いて出かけた。私が中山に住んでいた頃は、カツラシュウホウにはじまり、キタノオー、ハクチカラの対決が人気を集めていた時代である。
金のない時は、船橋へもよく行った。ここには、二十円で買えるノミ屋が繁盛していて、百円札一枚持って競馬をやることが出来たからだ。
金沢に移ってからは、一、二度金沢競馬をのぞいて見たことがあるが、以前、大井とか、その他の場所で見た馬に再会するのが、何となく気分的にいやで、余り行かなくなった。
一昨年の夏、モスクワで競馬場へ行ったときの事は、小説の中で使った。東宝のロケ隊が今度、モスクワから帰って来て、競馬場のフィルムを見せてもらったが面白かった。どんな風にそのフィルムが使われるか楽しみである。
モスクワ競馬の単勝は、日本と同じだが、連勝はない。重勝式というやつで、二つのレースの頭を続けて当てる形式のものである。以前、こちらであったトリプル式みたいなものだ。
レニングラード大通りに面して、余り都心にあるのでびっくりするような場所に競馬場はある。モスクワ銀座といわれるゴーリキイ通りを真っすぐ行き、左手に当る。入口の門など、堂々たる凱旋門《がいせんもん》のような代物《しろもの》で、数頭の馬が天を駆けるような姿でいなないている彫刻が乗っているので、それとわかる。
ソ連でも、やはり競馬場へ行くのは余り感心しないことと見えて、タクシーの運転手にレース場へやれ、と言うと、意見をするおっさんなどがいた。
「お前さん、わざわざ外国からやって来て、もっと大事な見る所があるじゃないか。見ればいい若いもんが、競馬場とは何だい。よし、安くしてやるから経済博覧会かモスクワ大学でも行ってみなせえ」
といった調子で早口のロシア語をまくしたてるひげ面《・・・》の運転手もいた。
馬の名前にも、面白いのがいた。ガガーリン、とかライカなどと宇宙衛星にちなんだ名前も目についた。スターリンという馬はさすがにいなかったようだ。
レーニン賞というレースはあるらしいが、いずれにしても、日本のように大観衆が押しよせることはないだろう。それに、どうもあのケイガ・レースというやつは面白味が少ない。
いつか日ソ親善レースでもやったらどうだろうと考えた。何しろ、コサックの伝統を誇るロシアのことだから、相当ハッスルすることは間違いない。万博で、全世界の馬でも集めて、世界競馬大会でも開くという手もある。
競馬の専門紙を見るたびに思うのだが、競馬新聞の見出しや、文章には、すでにマスコミの世界で失われたパーソナリティが横溢《おういつ》していて、実に面白い。
おそらく日本の競馬新聞ほど季節感や、物語的要素を多くもりこんだ予想紙はないのではあるまいか。浪曲とか、講談といった古来の伝統的な大衆文芸の要素を、自由に駆使して、読者を引きずって行く筆力はたいしたものだと思う。
よく当る、ということと同時に、血湧《わ》き肉躍《おど》るといった楽しみ、すでに新聞紙上からは失われてしまった原始的な文章機能が、ここにはある。
当節流行のマクルーハンなどの理論では、活字文化はすでに十九世紀的なものとされているが、果してそうか。
最近の野球記事のつまらなさなどは、一には、すでにニュースとして周知の試合の経過を、クールなタッチで書いているからではないかと思う。時代に逆行するようだが、テレビを見るより、新聞記事を読む方が野球を楽しめる、といった具合にやってみてはどうだろう。私個人の好みを言えば、冷静客観的に事実を述べた記事よりも、舞文曲筆といった類《たぐ》いの記事に、より魅力を感じる。
時たま競馬新聞をひろげて見る度《たび》に、文章の伝達力も、まんざら捨てたものではないと思ってみたりする。
私は大学の頃、体育の実技に、馬術を選択したことがあった。いちおうその実技の最後の週には、障害までやることになっていた。
障害をやるという日、私は少し緊張して学校へ行った。落馬して病院にかつぎこまれても恥をかかないように、下着なども着かえておいた。馬は、以前競馬で走っていて、払下げを受けた中央競馬のスターのなれの果てである。腐っても何とやらで、勇ましいところを見せてくれるに違いないと信じていた。馬場に出ると、中央に、ハシゴが一本横に立ててある。
「あれを飛び越すんだ」
と講師が言った。私たちはそれぞれ馬にうちまたがって、そのハシゴを越えた。老馬はさも物《もの》憂《う》げに脚《あし》をあげ、ゆっくりとハシゴをまたいで行った。
「昔、馬をやったんだってね」
と言われることがある。
「ええ」
と、私はいささか照れながら答える。
「いちおう障害までやりました」
大学を出る出方に、二つある。タテに出るのを卒業といい、ヨコに出るのを中退という。ハシゴを横に越えた私は、その数年後、大学をヨコに出ることになった。