私がダンスというものを覚えたのは、いつ頃だったろう。
あれは確か、私が新宿二丁目の業界紙の会社に勤めていた時代だったと思う。
その新聞社は、社長と、経理の女の子と、編集長の私と、記者の少年との四人しかいないミニ・コミだった。
内外ビルというピンク色のビルの二階にオフィスがあり、窓からは隣りの建物の裏口が手に取るように見えた。隣りの建物というのは、恐らく内外ビルと同系列と思われる内外ニュースという劇場で、実演のストリップが呼び物というおかしな映画館だった。
紙面の割付けをやっていると、時たま窓から美味《うま》そうな秋刀魚《さんま》の匂《にお》いが流れて来たりする。見おろすと、バタフライをヒラヒラさせたストリッパーが、七輪の上に秋刀魚を並べて、うちわで熱心にあおいでいたりするのだった。
天気のいいインディアン・サマーなどに、下のせまい空間で、彼女たちが日なたぼっこをしたり、大声で新興宗教の話をしたりしているのを見おろすのは悪くはなかった。
そのうちに、彼女たちと私は、顔みしりになって、オフィスに遊びに現われる——というような具合に行けば面白いのだが、そうは行かなかった。何しろ私はカメラマンと、記者と、編集長との兼任で、ほとんど事務所にはいなかったからである。私は重いスピグラをかついで走り回ったり、印刷工場で大組みに立ち合ってインテルをさし込んだり、時には運輸省のスキャンダルを追って深夜、赤坂に張り込んだりしなければならなかった。
その時代のことは、いま思い出してもおかしな事ばかりだ。いずれ小説に書くつもりだが、とにかく奇妙な生活だった。その生活のさ中で、ある日突然に私はダンスを習う決心をしたのである。
私はどちらかといえば、完全主義者であり、実践よりも理論に重きを置く傾向があった。ダンスをやると決めた瞬間から、私はそれに関する様々な書物を読みあさった。
作家の石川達三氏や、埴《はに》谷雄《やゆ》高《たか》氏がダンスの先達であることも、私は書物で知り、勇気づけられたものである。
ダンスの歴史と理論を、私は一応きわめつくしたが、勿論《もちろん》、それだけで踊れるわけのものではない。
私は正式にレッスンを受けることに決めて、教習所を探した。
私が見つけたのは、新宿の末広亭《すえひろてい》の近くにある喫茶店の二階の教室で、あまり流行《はや》っていないように思われる教習所だった。私はそこで、三人の教師を発見したが、私の担当をしてくれたのは、その中でも最もお年寄りの眼鏡をかけたレディだった。
彼女は、私以上の完全主義者で、まず歩き方をくり返し練習させた。そして、最初はふつうブルースなどから始めるものを、ワルツから教えてくれたのだった。
「ダンスはワルツにはじまって、ワルツに終る」
と、いうのが彼女の持論だった。最近の人当りのいい人物ばかり見なれていると、何かしら一箇の定見を持った彼女が、なつかしく思えてくる。
私は仕事の合い間を見ては、教室に通った。ワルツをやり、ブルースをやり、タンゴをやったが、先生はジルバを教えてくれようとはしないのである。今でこそ、ジルバなどというと時代おくれのダンスみたいだが、私が一番やりたかったのは、実はジルバだったのだ。
「ジルバを教えて欲しいんですが」
と、おずおずと申し出た私に、先生は言った。
「ジルバはダンスじゃありません。早いリズムのものは、クイックステップで踊るものです」
そこで私はクイックをやり、スローをやった。このクイックなるものは、あたかも水鳥が波打際《なみうちぎわ》を小走りに歩くが如《ごと》き風《ふ》情《ぜい》のもので、その後、私がキャバレーやクラブなどに行く機会があっても、一度として役に立ったことがないという代物《しろもの》だった。
私はしかたなしにジルバを理論的に研究した。それは、遠心力とシンコペイションを基調とした、刺激的な踊りで、なかなか独習は難《むず》かしいものである。
こうして、私は一応ダンスと名のつくものをマスターしたが、実践面における弱さは如《い》何《かん》ともし難く、今だに自分で納得のいくダンスを踊ったことがない。
だが、まだ、五、六年前まではよかった。マンボとか、チャチャチャとか、ドドンパとか、ツイストとか言った、単独で踊る事の可能なダンスが流行していたためである。
私はモスクワでツーステップのドドンパを紹介して若い連中に尊敬されたし、ストックホルムの地下クラブでは、シェイクという流行の踊りを教わったりした。これらの踊りには、まだ一定のセオリーがあり、多少ブッキッシュな入り方でも何とかこなせたからである。
ところが、最近のGOGOになると、私は自分がすでに過去の時代に属する人間であることを感ぜずにはいられないのだ。GOGOの面白さは、フォービートに乗って表現される各人各様の即興的なフィーリングにある。GOGOは習う踊りではなく、創《つく》り出す踊りであり、そこにはシュールリアリズムにおけるオートマチズム的な肉体諸機関の運動が必要なわけだ。
私は数年前に、フィンランドの民族音楽であるジェンカを覚えたが、これは単純きわまりない代物だった。やさしくはあるが、あのツービートの踊りは、すでに現代のものではあるまい。すでに本場フィンランドでも、ジェンカはダンスの中のアクセサリー的なものになっているようだ。
ヘルシンキのダンスホールは、一風変っていて面白かった。
男と女が、ホールの両側にきちんと分れて並んでいる。音楽が始まると、さっと出て行って女の子を引っぱり出す。三曲踊り終えると、いやでもまた二手に別れてゾロゾロと壁際にもどらねばならないのだ。
私は最初の晩、それがわからなくて、戸惑った。もし、意気投合した場合は、さっさとホールを出て行けばよかったのである。三曲踊って、真正直に「タック」などと別れるのは、相手を気に入らなかったことになるらしい。随分、えり好みをする日本人だと思われたことだろうと、今考えると気になってしかたがない。
今年の夏、パリでは、左右の脚《あし》をけだるく後ろに交互に引く、妙な踊りが流行っていた。これまでの踊りは、ほとんど相手と組んで踊るのだが、最近は、各人が勝手に独《ひと》りで踊っている。東京の地下酒場などで踊っている連中を見ても、お互いに関係ないみたいな顔で、黙々と踊っている連中が多い。現代人の孤立化傾向、人間同志のコミュニケイションの断絶、連帯への不信、そういったものが踊りの世界にも色濃く反映しているのだろうか。
先日、ある店で、GOGOを教わるはめに立ちいたったが、その時、コーチを買って出た青年が曰《いわ》く、
「まず自意識を捨ててください」
三十面《づら》さげてモンキーの真似《まね》など出来るか、みたいな気持から脱皮することが先決問題と厳《きび》しく批判されたものだった。
しかし、考えてみると、日本の若い世代もようやく感覚の面で、インターナショナルな地点に立ったという気がする。
自分で踊りをつくって行く能力と、歌をコーラスで楽しむことを覚えただけでも、大した進歩だろう。
明治の青年にくらべて、最近の若い連中は——などとよく言われるが、何も大声叱《しっ》咤《た》して天下国家を論じるだけが青年の特権ではない。思いきり歌ったり踊ったりするのも、人間にとって基本的な重要事だという気がするのだ。
あれは確か、私が新宿二丁目の業界紙の会社に勤めていた時代だったと思う。
その新聞社は、社長と、経理の女の子と、編集長の私と、記者の少年との四人しかいないミニ・コミだった。
内外ビルというピンク色のビルの二階にオフィスがあり、窓からは隣りの建物の裏口が手に取るように見えた。隣りの建物というのは、恐らく内外ビルと同系列と思われる内外ニュースという劇場で、実演のストリップが呼び物というおかしな映画館だった。
紙面の割付けをやっていると、時たま窓から美味《うま》そうな秋刀魚《さんま》の匂《にお》いが流れて来たりする。見おろすと、バタフライをヒラヒラさせたストリッパーが、七輪の上に秋刀魚を並べて、うちわで熱心にあおいでいたりするのだった。
天気のいいインディアン・サマーなどに、下のせまい空間で、彼女たちが日なたぼっこをしたり、大声で新興宗教の話をしたりしているのを見おろすのは悪くはなかった。
そのうちに、彼女たちと私は、顔みしりになって、オフィスに遊びに現われる——というような具合に行けば面白いのだが、そうは行かなかった。何しろ私はカメラマンと、記者と、編集長との兼任で、ほとんど事務所にはいなかったからである。私は重いスピグラをかついで走り回ったり、印刷工場で大組みに立ち合ってインテルをさし込んだり、時には運輸省のスキャンダルを追って深夜、赤坂に張り込んだりしなければならなかった。
その時代のことは、いま思い出してもおかしな事ばかりだ。いずれ小説に書くつもりだが、とにかく奇妙な生活だった。その生活のさ中で、ある日突然に私はダンスを習う決心をしたのである。
私はどちらかといえば、完全主義者であり、実践よりも理論に重きを置く傾向があった。ダンスをやると決めた瞬間から、私はそれに関する様々な書物を読みあさった。
作家の石川達三氏や、埴《はに》谷雄《やゆ》高《たか》氏がダンスの先達であることも、私は書物で知り、勇気づけられたものである。
ダンスの歴史と理論を、私は一応きわめつくしたが、勿論《もちろん》、それだけで踊れるわけのものではない。
私は正式にレッスンを受けることに決めて、教習所を探した。
私が見つけたのは、新宿の末広亭《すえひろてい》の近くにある喫茶店の二階の教室で、あまり流行《はや》っていないように思われる教習所だった。私はそこで、三人の教師を発見したが、私の担当をしてくれたのは、その中でも最もお年寄りの眼鏡をかけたレディだった。
彼女は、私以上の完全主義者で、まず歩き方をくり返し練習させた。そして、最初はふつうブルースなどから始めるものを、ワルツから教えてくれたのだった。
「ダンスはワルツにはじまって、ワルツに終る」
と、いうのが彼女の持論だった。最近の人当りのいい人物ばかり見なれていると、何かしら一箇の定見を持った彼女が、なつかしく思えてくる。
私は仕事の合い間を見ては、教室に通った。ワルツをやり、ブルースをやり、タンゴをやったが、先生はジルバを教えてくれようとはしないのである。今でこそ、ジルバなどというと時代おくれのダンスみたいだが、私が一番やりたかったのは、実はジルバだったのだ。
「ジルバを教えて欲しいんですが」
と、おずおずと申し出た私に、先生は言った。
「ジルバはダンスじゃありません。早いリズムのものは、クイックステップで踊るものです」
そこで私はクイックをやり、スローをやった。このクイックなるものは、あたかも水鳥が波打際《なみうちぎわ》を小走りに歩くが如《ごと》き風《ふ》情《ぜい》のもので、その後、私がキャバレーやクラブなどに行く機会があっても、一度として役に立ったことがないという代物《しろもの》だった。
私はしかたなしにジルバを理論的に研究した。それは、遠心力とシンコペイションを基調とした、刺激的な踊りで、なかなか独習は難《むず》かしいものである。
こうして、私は一応ダンスと名のつくものをマスターしたが、実践面における弱さは如《い》何《かん》ともし難く、今だに自分で納得のいくダンスを踊ったことがない。
だが、まだ、五、六年前まではよかった。マンボとか、チャチャチャとか、ドドンパとか、ツイストとか言った、単独で踊る事の可能なダンスが流行していたためである。
私はモスクワでツーステップのドドンパを紹介して若い連中に尊敬されたし、ストックホルムの地下クラブでは、シェイクという流行の踊りを教わったりした。これらの踊りには、まだ一定のセオリーがあり、多少ブッキッシュな入り方でも何とかこなせたからである。
ところが、最近のGOGOになると、私は自分がすでに過去の時代に属する人間であることを感ぜずにはいられないのだ。GOGOの面白さは、フォービートに乗って表現される各人各様の即興的なフィーリングにある。GOGOは習う踊りではなく、創《つく》り出す踊りであり、そこにはシュールリアリズムにおけるオートマチズム的な肉体諸機関の運動が必要なわけだ。
私は数年前に、フィンランドの民族音楽であるジェンカを覚えたが、これは単純きわまりない代物だった。やさしくはあるが、あのツービートの踊りは、すでに現代のものではあるまい。すでに本場フィンランドでも、ジェンカはダンスの中のアクセサリー的なものになっているようだ。
ヘルシンキのダンスホールは、一風変っていて面白かった。
男と女が、ホールの両側にきちんと分れて並んでいる。音楽が始まると、さっと出て行って女の子を引っぱり出す。三曲踊り終えると、いやでもまた二手に別れてゾロゾロと壁際にもどらねばならないのだ。
私は最初の晩、それがわからなくて、戸惑った。もし、意気投合した場合は、さっさとホールを出て行けばよかったのである。三曲踊って、真正直に「タック」などと別れるのは、相手を気に入らなかったことになるらしい。随分、えり好みをする日本人だと思われたことだろうと、今考えると気になってしかたがない。
今年の夏、パリでは、左右の脚《あし》をけだるく後ろに交互に引く、妙な踊りが流行っていた。これまでの踊りは、ほとんど相手と組んで踊るのだが、最近は、各人が勝手に独《ひと》りで踊っている。東京の地下酒場などで踊っている連中を見ても、お互いに関係ないみたいな顔で、黙々と踊っている連中が多い。現代人の孤立化傾向、人間同志のコミュニケイションの断絶、連帯への不信、そういったものが踊りの世界にも色濃く反映しているのだろうか。
先日、ある店で、GOGOを教わるはめに立ちいたったが、その時、コーチを買って出た青年が曰《いわ》く、
「まず自意識を捨ててください」
三十面《づら》さげてモンキーの真似《まね》など出来るか、みたいな気持から脱皮することが先決問題と厳《きび》しく批判されたものだった。
しかし、考えてみると、日本の若い世代もようやく感覚の面で、インターナショナルな地点に立ったという気がする。
自分で踊りをつくって行く能力と、歌をコーラスで楽しむことを覚えただけでも、大した進歩だろう。
明治の青年にくらべて、最近の若い連中は——などとよく言われるが、何も大声叱《しっ》咤《た》して天下国家を論じるだけが青年の特権ではない。思いきり歌ったり踊ったりするのも、人間にとって基本的な重要事だという気がするのだ。