テレビが好きである。原稿の締切りがせまればせまるほど、えい、もうどうにでもなれというやけくそな気持でテレビの画面に首をつっ込んで眺《なが》めている。
といって、特にこれといって面白い番組があるわけではない。ぶつぶつ文句を言いながら、それでもテレビの前に寝《ね》転《ころ》がっている。テレビの本質には、そういった面があるように思う。ぼやきながら見る。つまらないと思いながら、つい時間をすごしてしまう。これが本なら、そうはいかない。
テレビ番組の中で何を見るか。
大きな事故のあった時など、その実況中継にチャンネルを合わせる。ニュースは横目で見るだけだ。テレビのニュースというやつは、どうも部分と全体のバランスがとれてないように思う。
まず、いちばん多く見るのは歌や踊りの番組である。最初は家人の批判を受けたが、近ごろは呆《あき》れ果てて何も言わなくなった。
都はるみを見る。カーナビーツなどという不思議な連中を見る。中尾ミエを見る。何とかジュンのミニスカートを見る。一節《ひとふし》太郎を見る。美空ひばりは見ない。最近へんに教訓的な歌をうたうようになって、いやな気がするからだ。
「都はるみはいいね」
と、遊びに来ている青年が言う。
「あの白目をむくところが何とも言えんですよ」
最近、一種のスノビズムで艶《えん》歌《か》を好きだという人たちが増《ふ》えた。これはなげかわしいことである。
本当はアカデミックな本ばかり読んでいるくせに、マンガ本を得意気に持ち歩く心理と共通のものがあるようだ。
演歌と書かずに、艶歌と当てている。これには私なりの理由があってのことだ。
演歌の持つ痛烈直截《ちょくせつ》な社会諷《ふう》刺《し》の精神は、いまの流行歌には、すでにない。外へ向けられる論理的な批判の目を閉じて、内なる情緒の世界に向うところに現代の艶歌の世界が成立する。
それはしょせん、一つの共鳴板に過ぎない。だが、そこには霧や港や女や列車や汽笛に托《たく》された大衆の怨念《おんねん》と、それを歌うことで内部の哀《かな》しみを吐き出そうと願う自己防衛の祈りがある。
流行歌は、みずからをなぐさめる歌であると思う。なぐさめることで、その場かぎりの安らぎと連帯感が生れる。それが、その場かぎりであることは、歌っている当人たちが一番よく知っているのだ。
それを指して、現実逃避の手段だと批判する理論を、私はもっともだと思う。しかし、歌は世につれるもので、世が歌につれるものだとは、私は考えていない。
前向きの歌を作ったところで、前向きの社会が近づくわけではない。前へと進もうとする社会が、積極的な人々が、そのような歌を生むだけだ。
〈新宿ブルース〉を歌う扇ひろ子の顔が大変いい。
西を向いても駄目だから、と歌って、眉根に官能的なしわを寄せ、東を向いてみただけよ、と歌う。
この歌詞には、大衆の本能的な現状分析と、苦い自嘲《じちょう》のひびきが感じられるような気がする。
現在の歌の世界を二分しているのは、艶歌と、グループ・サウンズだといえるだろう。ぼくの考えでは、艶歌を支《ささ》えているのは、歌詞であり、グループ・サウンズを支えているのは、曲の魅力だと思う。
艶歌の歌詞には、どうにもならぬていのものも多いが、中には私たちの心情を、かなり正確に写しているものがある。少なくとも、現在の時点における私たちの世界の雰《ふん》囲気《いき》を感じさせる、何ものかが存在する。だから艶歌は、このような世の中が続く限り、いくつかの作品はスタンダードナンバーとして残り、歌いつがれるだろう。
たとえ、理想の未来社会が私たちのものとなったところで、人間の孤独といったものは、やはり存在する。
可愛がられていい子になって、とふと口ずさんでみる。落ちて行くときゃ一人じゃないか。
人間は自分を写す鏡が欲しいのだ。歌は一種の鏡であって、弱い心情が前に立てば、弱々しい姿を写す。自信と明るさに満ちた民衆が前に立てば、そのような輝かしい画像を返すだろう。
鏡だけを建設的な、前向きのものに変えようとすると、誰もが振り向かぬ鏡が出来る。軍歌の中にも、正確な鏡と、意図的な歪《ゆが》んだ鏡がある。
また、その反映の仕方において、薄っぺらな写り方と、そうでない写り方をする鏡の差はあるだろう。
「夕日が沈むのを
見るのはいやだ」
という、あの黒人のブルースの写り方には、商品として大量生産を強《し》いられるプロ作詞家の書けない何かがある。
グループ・サウンズの支持層は十代の少女が中心のようだ。これに対して、艶歌には男のファンが多い。
私がグループ・サウンズに対して持っている観念は、〈通過されるもの〉というイメージだ。つまり、少女たちが大人《おとな》になった時、彼女らは、「グループ・サウンズを卒業した」というふうに感じるのではあるまいか。支持者の世代とともに歩いて行くのではなく、通過されるのである。過ぎて行った人々は、もう誰も背後を振り返ろうとはしない。そして、また新しい年少者たちが、通過するために下からやって来る。
これに対して、艶歌は通過するのではなく、〈ついて来るもの〉の粘りを持っている。〈赤《あか》城《ぎ》の子《こ》守唄《もりうた》〉や、〈枯すすき〉や、〈大《おお》利根《とね》月夜〉は、たしかに人々について来た。
私の感じでは、私たちが老年にいたって、泥酔した時、肩を組んで、バラが咲いたバラが咲いた、などと歌うことはあるまいという気がする。少なくとも、あの歌詞には一九六○年代の私たちの心情を写す何ものも存在しないからだ。
艶歌の課題は、これまでの月並みな曲づくりから脱皮することにあり、グループ・サウンズの課題は、詞をもっと真剣に考えることだろう。
現在、多くの知識人は、流行歌やポピュラーソングを、しばしば語ったり歌ったりするようになった。しかし、その歌い方には、背後に、おれたちはこんなものふざけて歌ってるだけなんだぞ、たまには馬鹿馬鹿しい遊びもいいじゃないか、といった、冷笑的なポーズがひそんでいるような気がする。
「好きな歌い手? うん、北島三郎なんかいいねえ。ハールバルきたぜハコダテーか」
などと高笑いするような人が、多くなった。やはり、野暮であろうと何であろうと、真剣に考えた方がいいように思う。
落語家が方言を茶化すような姿勢で、流行歌を語るのは、あまりいいものではない。
流行歌便所論というのがあったが、私はべつに床の間にしたいと言っているのではない。好きで歌うものを、変にひねくれた扱い方をする必要はないと言いたいのだ。私は、流行歌は私たちの大切な財産だと思っている。もちろん、全部が全部というわけではない。
といって、特にこれといって面白い番組があるわけではない。ぶつぶつ文句を言いながら、それでもテレビの前に寝《ね》転《ころ》がっている。テレビの本質には、そういった面があるように思う。ぼやきながら見る。つまらないと思いながら、つい時間をすごしてしまう。これが本なら、そうはいかない。
テレビ番組の中で何を見るか。
大きな事故のあった時など、その実況中継にチャンネルを合わせる。ニュースは横目で見るだけだ。テレビのニュースというやつは、どうも部分と全体のバランスがとれてないように思う。
まず、いちばん多く見るのは歌や踊りの番組である。最初は家人の批判を受けたが、近ごろは呆《あき》れ果てて何も言わなくなった。
都はるみを見る。カーナビーツなどという不思議な連中を見る。中尾ミエを見る。何とかジュンのミニスカートを見る。一節《ひとふし》太郎を見る。美空ひばりは見ない。最近へんに教訓的な歌をうたうようになって、いやな気がするからだ。
「都はるみはいいね」
と、遊びに来ている青年が言う。
「あの白目をむくところが何とも言えんですよ」
最近、一種のスノビズムで艶《えん》歌《か》を好きだという人たちが増《ふ》えた。これはなげかわしいことである。
本当はアカデミックな本ばかり読んでいるくせに、マンガ本を得意気に持ち歩く心理と共通のものがあるようだ。
演歌と書かずに、艶歌と当てている。これには私なりの理由があってのことだ。
演歌の持つ痛烈直截《ちょくせつ》な社会諷《ふう》刺《し》の精神は、いまの流行歌には、すでにない。外へ向けられる論理的な批判の目を閉じて、内なる情緒の世界に向うところに現代の艶歌の世界が成立する。
それはしょせん、一つの共鳴板に過ぎない。だが、そこには霧や港や女や列車や汽笛に托《たく》された大衆の怨念《おんねん》と、それを歌うことで内部の哀《かな》しみを吐き出そうと願う自己防衛の祈りがある。
流行歌は、みずからをなぐさめる歌であると思う。なぐさめることで、その場かぎりの安らぎと連帯感が生れる。それが、その場かぎりであることは、歌っている当人たちが一番よく知っているのだ。
それを指して、現実逃避の手段だと批判する理論を、私はもっともだと思う。しかし、歌は世につれるもので、世が歌につれるものだとは、私は考えていない。
前向きの歌を作ったところで、前向きの社会が近づくわけではない。前へと進もうとする社会が、積極的な人々が、そのような歌を生むだけだ。
〈新宿ブルース〉を歌う扇ひろ子の顔が大変いい。
西を向いても駄目だから、と歌って、眉根に官能的なしわを寄せ、東を向いてみただけよ、と歌う。
この歌詞には、大衆の本能的な現状分析と、苦い自嘲《じちょう》のひびきが感じられるような気がする。
現在の歌の世界を二分しているのは、艶歌と、グループ・サウンズだといえるだろう。ぼくの考えでは、艶歌を支《ささ》えているのは、歌詞であり、グループ・サウンズを支えているのは、曲の魅力だと思う。
艶歌の歌詞には、どうにもならぬていのものも多いが、中には私たちの心情を、かなり正確に写しているものがある。少なくとも、現在の時点における私たちの世界の雰《ふん》囲気《いき》を感じさせる、何ものかが存在する。だから艶歌は、このような世の中が続く限り、いくつかの作品はスタンダードナンバーとして残り、歌いつがれるだろう。
たとえ、理想の未来社会が私たちのものとなったところで、人間の孤独といったものは、やはり存在する。
可愛がられていい子になって、とふと口ずさんでみる。落ちて行くときゃ一人じゃないか。
人間は自分を写す鏡が欲しいのだ。歌は一種の鏡であって、弱い心情が前に立てば、弱々しい姿を写す。自信と明るさに満ちた民衆が前に立てば、そのような輝かしい画像を返すだろう。
鏡だけを建設的な、前向きのものに変えようとすると、誰もが振り向かぬ鏡が出来る。軍歌の中にも、正確な鏡と、意図的な歪《ゆが》んだ鏡がある。
また、その反映の仕方において、薄っぺらな写り方と、そうでない写り方をする鏡の差はあるだろう。
「夕日が沈むのを
見るのはいやだ」
という、あの黒人のブルースの写り方には、商品として大量生産を強《し》いられるプロ作詞家の書けない何かがある。
グループ・サウンズの支持層は十代の少女が中心のようだ。これに対して、艶歌には男のファンが多い。
私がグループ・サウンズに対して持っている観念は、〈通過されるもの〉というイメージだ。つまり、少女たちが大人《おとな》になった時、彼女らは、「グループ・サウンズを卒業した」というふうに感じるのではあるまいか。支持者の世代とともに歩いて行くのではなく、通過されるのである。過ぎて行った人々は、もう誰も背後を振り返ろうとはしない。そして、また新しい年少者たちが、通過するために下からやって来る。
これに対して、艶歌は通過するのではなく、〈ついて来るもの〉の粘りを持っている。〈赤《あか》城《ぎ》の子《こ》守唄《もりうた》〉や、〈枯すすき〉や、〈大《おお》利根《とね》月夜〉は、たしかに人々について来た。
私の感じでは、私たちが老年にいたって、泥酔した時、肩を組んで、バラが咲いたバラが咲いた、などと歌うことはあるまいという気がする。少なくとも、あの歌詞には一九六○年代の私たちの心情を写す何ものも存在しないからだ。
艶歌の課題は、これまでの月並みな曲づくりから脱皮することにあり、グループ・サウンズの課題は、詞をもっと真剣に考えることだろう。
現在、多くの知識人は、流行歌やポピュラーソングを、しばしば語ったり歌ったりするようになった。しかし、その歌い方には、背後に、おれたちはこんなものふざけて歌ってるだけなんだぞ、たまには馬鹿馬鹿しい遊びもいいじゃないか、といった、冷笑的なポーズがひそんでいるような気がする。
「好きな歌い手? うん、北島三郎なんかいいねえ。ハールバルきたぜハコダテーか」
などと高笑いするような人が、多くなった。やはり、野暮であろうと何であろうと、真剣に考えた方がいいように思う。
落語家が方言を茶化すような姿勢で、流行歌を語るのは、あまりいいものではない。
流行歌便所論というのがあったが、私はべつに床の間にしたいと言っているのではない。好きで歌うものを、変にひねくれた扱い方をする必要はないと言いたいのだ。私は、流行歌は私たちの大切な財産だと思っている。もちろん、全部が全部というわけではない。
昨年の芸術祭には、有名な艶歌の歌い手が参加リサイタルをやった。私は流行歌手の勲章は、聴衆の拍手だけだと思う。それで充分ではないか。
流行歌手は庶民大衆の中に身を埋めて、生きるべきだろう。まして艶歌の歌い手なら、なおさらのことだ。偉くなりすぎるのは商売としても、まずいように思う。
それにしても、最近、われわれのうらみつらみを如実に歌うような歌が少なくなったという気がする。戦意高揚歌ではないが、何だか景気づけの歌ばかりが耳にはいる。そろそろテレビの歌番組もつまらなくなって来たようだ。
流行歌手は庶民大衆の中に身を埋めて、生きるべきだろう。まして艶歌の歌い手なら、なおさらのことだ。偉くなりすぎるのは商売としても、まずいように思う。
それにしても、最近、われわれのうらみつらみを如実に歌うような歌が少なくなったという気がする。戦意高揚歌ではないが、何だか景気づけの歌ばかりが耳にはいる。そろそろテレビの歌番組もつまらなくなって来たようだ。