フランスのことを書こう。
花の大巴里である。もう書くことが何もないような気がする。
マロニエ? ノンである。
「何とか何とかというレストランで食事をしましたか?」
これもノン。
「ルーブルは?」
「ああ、外側の掃除がすんで建物がとても綺《き》麗《れい》になってました」
「中は見なかったの」
「はあ」
「リドのショウはどうでした」
「毎日、前を通ったんですが」
「じゃあカルダンの店に行ったでしょう」
「いいえ」
話のつぎほがなくて困ってしまう。
帰って来て、女性雑誌の編集長氏に銀座の〈R〉というお店でごちそうになった。フランス料理では有名な老舖《しにせ》である。
パリから帰ったばかりとあって、皆さんは私にカタツムリやワインをすすめてくださった。
これがぜんぜん関係なし。
「あんたパリで何を食ってたの?」
ということになる。
「さあ?」
自分で思い出してみると、スナックでハンバーグとジャガイモばかり食ってたような気がする。あとは中華料理。
食い物をちゃんと食う事が、その国の文化を確かめる大事な方法であること位、私も知ってはいる。だが、何となく、スナックでケチャップをかけたハンバーグばかり食っていた。
スペインや、ポルトガルなどでは、ちゃんとその国の飯を食っていたのに、なぜパリだけが、こんなことになったんだろう。
私はパリでジャズ喫茶をあちこち歩き回った。コーラを飲んで、ハンバーグを食って過した。もっともそれだけではない。
いちどコメディ・フランセーズで、〈シラノ〉を見た。大そう人気のあるキャストだったらしいが、感心しなかった。フランス語がわからなくとも、舞台の良し悪《あ》し位はわかる。セーヌ川は、犀川《さいかわ》よりは汚《きた》なく、隅《すみ》田《だ》川《がわ》よりは澄んでいた。革命記念日、むかし日本でパリ祭といった日の朝は、ジェット機の爆音がうるさい限りだった。
ホテルは二つ星の安直な所に泊ったが、気持のいいホテルだった。シャンゼリゼの真裏にあり、下駄をつっかけて買物に行ける便利なホテルだった。その名をオテル・ロワイアルという。
パリのロイアル・ホテルに泊っているというので電話をかけて来た。東京の雑誌社である。よほど堂々たるホテルに違いないと思ったらしい。
オテル・ロワイアルといって電話番号をきいたら、交換手が言ったという。
「パリにはロワイアルと名のつくホテルが五十八あります。どのロワイアルです?」
正しくはロワイアル・コリゼーという。安くて窓からの見晴らしのいいホテルだ。その向う側にも、ロワイアル何とかいう二つ星のホテルがあった。
あちらで、ある映画会社のパリ駐在員であるN氏にいろいろ面倒を見てもらった。お世話になった人に、もう一人Kさんがいる。Kさんは、パリでフランス歌曲の勉強をこつこつやっているバリトン歌手である。マドレーヌ寺院の専属ソリストでもあり、フランス政府から勲章をもらったアーチストだ。
この二人のコントラストが、非常に面白かった。
N氏は早稲田の英文学科の出身で、ハーディやジョイスに強い。そのくせ、やたらに日本の流行歌を愛していた。酒も強く、酔うとメトロの中ででも艶《えん》歌《か》を歌った。
�風か柳か 勘太郎さんかァー
という小節を頬《ほお》ずりするような目つきで歌うのである。外国での生活が長くなればなるだけ、N氏の中の日本人が表に出てくるようであった。
いっぽうKさんの方は、フランスの市民生活に見事に溶け込んで生きているように見えた。買物ひとつにしても、実に堂々と店のマダムとやり合っている。異国のアーチストの中で、着々と自分の地歩を固めて行く、日本人にはめずらしいタイプに見えた。
ある日の午後、Kさんがオテル・ロワイアルに私を誘いに来た。
「マドレーヌ寺院で結婚式があるんだけど、来てみませんか。ぼくが歌います」
私たちは連れ立ってホテルを出る。気持のいい日なので、シャンゼリゼを下り、コンコルド広場を抜けて、マドレーヌ寺院まで歩いていった。
「ぼくねえ、ちょっと妙なことにねえ——」
Kさんは本当に不思議そうな顔で苦笑しながら私に言った。
「こないだNさんの流行歌をきいたでしょう。あのメロディーが、どうも最近ふっと口をついて出てくることがあるんですよ」
「どの唄《うた》です?」
「ほら、あの、カンタローさんかァという例のメロディー」
「ははあ」
Kさんの困惑したような表情が私には楽しかった。
「いつも婚礼とか、お葬式とかあるでしょう。すると、当日、先方に行くまで何を歌うかわからないわけです。十九世紀の歌を渡されることもあるし、新しい歌のこともあるしね」
「ええ」
「どうも、大事な時に、ふっとそのメロディーが出て来やしまいかと、何度か気になってね」
私たちは顔を見合せて笑った。
マドレーヌ寺院でKさんと別れ、私は内部の椅子に腰かけて式の始まるのを待った。やがてパイプオルガンがウォンウォンと鳴りひびき、新郎新婦が姿を現わした。奥さんは十七、八歳の美少女だったが、新郎というのが五十歳は越したと思われる妙な男である。なぜかひどく残酷な感じがした。やがてKさんが祭壇の裏で歌い出した。女声のソプラノが、それに和した。歌がとぎれた瞬間、ふとさっきのKさんの言葉を思い出した。だが、さいわい艶歌のメロディーが流れてくる気配はなかった。
その晩、もう一人のN氏の方とあちこち飲んで回った。N氏は大正・昭和のあらゆる流行歌を片っぱしから歌い出し、深夜のシャンゼリゼに艶歌のメロディーがこだました。
Nさんと別れて、ひとりでエトワールからホテルへ歩いていると、シャンゼリゼの一望の街灯が、パッと一斉に消えた。時計を見たら四時半だった。
洗濯《せんたく》のすんだパリの街並みは、まっ白で軽快な感じがした。赤いサンビームに乗った美人が車を寄せて来て、何か言った。おそらく高級な娼婦《しょうふ》だろうと思われた。私が手をふると、その女はニコリと笑って、街灯の消えたシャンゼリゼを凄《すご》いスピードで走って行ってしまった。その時、私は車道のまん中に立って、美しい建物の連なりを見ていた。私の頭の中にあったのは、渋谷や新宿のあの雑然たる町の姿だった。だが、私はその東京の街の混乱したイメージを少しも恥ずかしいとは感じなかった。
この目の前の壮麗な建物の列を作ったのは君たちか? と私は口の中で呟《つぶや》いた。そうではあるまい。これは君たちの父親や祖父の残した町だ。だが、新宿や渋谷は、われわれが作った。あれは汚ない街だが、まごうことなき戦後の街だ。ちがうかな?
難《むず》かしいものだと思う。外国にいて、平静な気持で毎日を過すということは、大変なことだろう。先日来たN氏からの葉書では、ダブリンへ行ってジョイスの親戚《しんせき》のおばさんと話をしたという事だった。アイルランドでは、艶歌は歌わなかったのだろうか。
花の大巴里である。もう書くことが何もないような気がする。
マロニエ? ノンである。
「何とか何とかというレストランで食事をしましたか?」
これもノン。
「ルーブルは?」
「ああ、外側の掃除がすんで建物がとても綺《き》麗《れい》になってました」
「中は見なかったの」
「はあ」
「リドのショウはどうでした」
「毎日、前を通ったんですが」
「じゃあカルダンの店に行ったでしょう」
「いいえ」
話のつぎほがなくて困ってしまう。
帰って来て、女性雑誌の編集長氏に銀座の〈R〉というお店でごちそうになった。フランス料理では有名な老舖《しにせ》である。
パリから帰ったばかりとあって、皆さんは私にカタツムリやワインをすすめてくださった。
これがぜんぜん関係なし。
「あんたパリで何を食ってたの?」
ということになる。
「さあ?」
自分で思い出してみると、スナックでハンバーグとジャガイモばかり食ってたような気がする。あとは中華料理。
食い物をちゃんと食う事が、その国の文化を確かめる大事な方法であること位、私も知ってはいる。だが、何となく、スナックでケチャップをかけたハンバーグばかり食っていた。
スペインや、ポルトガルなどでは、ちゃんとその国の飯を食っていたのに、なぜパリだけが、こんなことになったんだろう。
私はパリでジャズ喫茶をあちこち歩き回った。コーラを飲んで、ハンバーグを食って過した。もっともそれだけではない。
いちどコメディ・フランセーズで、〈シラノ〉を見た。大そう人気のあるキャストだったらしいが、感心しなかった。フランス語がわからなくとも、舞台の良し悪《あ》し位はわかる。セーヌ川は、犀川《さいかわ》よりは汚《きた》なく、隅《すみ》田《だ》川《がわ》よりは澄んでいた。革命記念日、むかし日本でパリ祭といった日の朝は、ジェット機の爆音がうるさい限りだった。
ホテルは二つ星の安直な所に泊ったが、気持のいいホテルだった。シャンゼリゼの真裏にあり、下駄をつっかけて買物に行ける便利なホテルだった。その名をオテル・ロワイアルという。
パリのロイアル・ホテルに泊っているというので電話をかけて来た。東京の雑誌社である。よほど堂々たるホテルに違いないと思ったらしい。
オテル・ロワイアルといって電話番号をきいたら、交換手が言ったという。
「パリにはロワイアルと名のつくホテルが五十八あります。どのロワイアルです?」
正しくはロワイアル・コリゼーという。安くて窓からの見晴らしのいいホテルだ。その向う側にも、ロワイアル何とかいう二つ星のホテルがあった。
あちらで、ある映画会社のパリ駐在員であるN氏にいろいろ面倒を見てもらった。お世話になった人に、もう一人Kさんがいる。Kさんは、パリでフランス歌曲の勉強をこつこつやっているバリトン歌手である。マドレーヌ寺院の専属ソリストでもあり、フランス政府から勲章をもらったアーチストだ。
この二人のコントラストが、非常に面白かった。
N氏は早稲田の英文学科の出身で、ハーディやジョイスに強い。そのくせ、やたらに日本の流行歌を愛していた。酒も強く、酔うとメトロの中ででも艶《えん》歌《か》を歌った。
�風か柳か 勘太郎さんかァー
という小節を頬《ほお》ずりするような目つきで歌うのである。外国での生活が長くなればなるだけ、N氏の中の日本人が表に出てくるようであった。
いっぽうKさんの方は、フランスの市民生活に見事に溶け込んで生きているように見えた。買物ひとつにしても、実に堂々と店のマダムとやり合っている。異国のアーチストの中で、着々と自分の地歩を固めて行く、日本人にはめずらしいタイプに見えた。
ある日の午後、Kさんがオテル・ロワイアルに私を誘いに来た。
「マドレーヌ寺院で結婚式があるんだけど、来てみませんか。ぼくが歌います」
私たちは連れ立ってホテルを出る。気持のいい日なので、シャンゼリゼを下り、コンコルド広場を抜けて、マドレーヌ寺院まで歩いていった。
「ぼくねえ、ちょっと妙なことにねえ——」
Kさんは本当に不思議そうな顔で苦笑しながら私に言った。
「こないだNさんの流行歌をきいたでしょう。あのメロディーが、どうも最近ふっと口をついて出てくることがあるんですよ」
「どの唄《うた》です?」
「ほら、あの、カンタローさんかァという例のメロディー」
「ははあ」
Kさんの困惑したような表情が私には楽しかった。
「いつも婚礼とか、お葬式とかあるでしょう。すると、当日、先方に行くまで何を歌うかわからないわけです。十九世紀の歌を渡されることもあるし、新しい歌のこともあるしね」
「ええ」
「どうも、大事な時に、ふっとそのメロディーが出て来やしまいかと、何度か気になってね」
私たちは顔を見合せて笑った。
マドレーヌ寺院でKさんと別れ、私は内部の椅子に腰かけて式の始まるのを待った。やがてパイプオルガンがウォンウォンと鳴りひびき、新郎新婦が姿を現わした。奥さんは十七、八歳の美少女だったが、新郎というのが五十歳は越したと思われる妙な男である。なぜかひどく残酷な感じがした。やがてKさんが祭壇の裏で歌い出した。女声のソプラノが、それに和した。歌がとぎれた瞬間、ふとさっきのKさんの言葉を思い出した。だが、さいわい艶歌のメロディーが流れてくる気配はなかった。
その晩、もう一人のN氏の方とあちこち飲んで回った。N氏は大正・昭和のあらゆる流行歌を片っぱしから歌い出し、深夜のシャンゼリゼに艶歌のメロディーがこだました。
Nさんと別れて、ひとりでエトワールからホテルへ歩いていると、シャンゼリゼの一望の街灯が、パッと一斉に消えた。時計を見たら四時半だった。
洗濯《せんたく》のすんだパリの街並みは、まっ白で軽快な感じがした。赤いサンビームに乗った美人が車を寄せて来て、何か言った。おそらく高級な娼婦《しょうふ》だろうと思われた。私が手をふると、その女はニコリと笑って、街灯の消えたシャンゼリゼを凄《すご》いスピードで走って行ってしまった。その時、私は車道のまん中に立って、美しい建物の連なりを見ていた。私の頭の中にあったのは、渋谷や新宿のあの雑然たる町の姿だった。だが、私はその東京の街の混乱したイメージを少しも恥ずかしいとは感じなかった。
この目の前の壮麗な建物の列を作ったのは君たちか? と私は口の中で呟《つぶや》いた。そうではあるまい。これは君たちの父親や祖父の残した町だ。だが、新宿や渋谷は、われわれが作った。あれは汚ない街だが、まごうことなき戦後の街だ。ちがうかな?
難《むず》かしいものだと思う。外国にいて、平静な気持で毎日を過すということは、大変なことだろう。先日来たN氏からの葉書では、ダブリンへ行ってジョイスの親戚《しんせき》のおばさんと話をしたという事だった。アイルランドでは、艶歌は歌わなかったのだろうか。