今から何年ぐらい前になるだろう。
銀座の通りに面した、細長いビルの何階かにいた。
いたといっても住んでいたわけではない。
そこで仕事をしていたのである。その事務所は、テレビやラジオのマスメディアに人間のアイディアを売る会社だったと言ってもいいと思う。
いわゆるコント作家や、放送ライターや、作詞家や作曲家、また歌い手やタレントたちが、そこの部屋に出入りして働いていた。
それは実に奇妙な事務所で、そこに一日坐っていても、全く退屈することなどなかったにちがいない。
退屈になれば、壁際《かべぎわ》に並べてある厚い背表紙の本を引っぱり出して眺《なが》めてみるだけで思わず吹き出しそうになってくる。
そこには、過去何年もの間、その事務所に出入りして働いた青年たちが、頭をしぼってひねり出したコントの台本が資料として保存されていたのだ。
よくもあんなおかしな事を考えつく人間がいると、びっくりする。コントに著作権があるのかないのか知らないが、そいつを考え出したコント作家たちは、果してそのエネルギーに見合うだけのギャラをもらっていたとは思えない。
例《たと》えば、こんなやつがあった。
当時は、カズノコがべらぼうに高値を呼んでいた時代である。それと同時に、いわゆるマイカー時代の初期の頃で、自家用の車を持つということが、ひとつの特権と見なされていた頃だ。そこのところが背景にあって、このおかしさが生きてくる。
銀座の通りに面した、細長いビルの何階かにいた。
いたといっても住んでいたわけではない。
そこで仕事をしていたのである。その事務所は、テレビやラジオのマスメディアに人間のアイディアを売る会社だったと言ってもいいと思う。
いわゆるコント作家や、放送ライターや、作詞家や作曲家、また歌い手やタレントたちが、そこの部屋に出入りして働いていた。
それは実に奇妙な事務所で、そこに一日坐っていても、全く退屈することなどなかったにちがいない。
退屈になれば、壁際《かべぎわ》に並べてある厚い背表紙の本を引っぱり出して眺《なが》めてみるだけで思わず吹き出しそうになってくる。
そこには、過去何年もの間、その事務所に出入りして働いた青年たちが、頭をしぼってひねり出したコントの台本が資料として保存されていたのだ。
よくもあんなおかしな事を考えつく人間がいると、びっくりする。コントに著作権があるのかないのか知らないが、そいつを考え出したコント作家たちは、果してそのエネルギーに見合うだけのギャラをもらっていたとは思えない。
例《たと》えば、こんなやつがあった。
当時は、カズノコがべらぼうに高値を呼んでいた時代である。それと同時に、いわゆるマイカー時代の初期の頃で、自家用の車を持つということが、ひとつの特権と見なされていた頃だ。そこのところが背景にあって、このおかしさが生きてくる。
奥様風の二人が、道ですれ違う。
「あらまあ奥さま、どちらへ?」
「ええ。デパートへ参りましたの」
「そうざますか。何かお買物でも?」
「はあ。カズノコを少々——」
「あらまあ、それはそれは」
「ときに奥さまはどちらへ?」
「わたくしもこれからデパートへ」
「そうざますの。やはりお買物で?」
「はあ。クルマを少々——」
「あらまあ奥さま、どちらへ?」
「ええ。デパートへ参りましたの」
「そうざますか。何かお買物でも?」
「はあ。カズノコを少々——」
「あらまあ、それはそれは」
「ときに奥さまはどちらへ?」
「わたくしもこれからデパートへ」
「そうざますの。やはりお買物で?」
「はあ。クルマを少々——」
「クルマを少々」というのが何ともいえずおかしい。これは一にも二にも演ずるタレントの呼吸の問題で、こんなたぐいのコントを実にうまくやる人たちがいた。
また今も憶《おぼ》えているので、こんなのもある。
また今も憶《おぼ》えているので、こんなのもある。
二人の客、汽車の座席で向い合って坐っている。新幹線のない頃だから、ゴットンゴットンとレールの音がきこえる。片方の客あくびをして、向いの客に話しかける。
「汽車の旅は疲れますなあ。あなた、どちらまで?」
「わたくしは東京から大阪まで」
「そうですか。それはそれは」
「あなたはどちらまで」
「わたくしは仙台まで」
「それはそれは」
レールの単調な音。
「汽車の旅は疲れますなあ。あなた、どちらまで?」
「わたくしは東京から大阪まで」
「そうですか。それはそれは」
「あなたはどちらまで」
「わたくしは仙台まで」
「それはそれは」
レールの単調な音。
これはちょっとわからないときもある。しばらくたって、反対方向へむかう二人が同じ座席に向き合っているという状況がわかって、おかしくなる。
こんな話を、一つ考えると何百円かに売れたらしい。私はその事務所に顔を出すたびに、一日中そんな話を考えて暮している人たちが天才のように思えてしかたがなかった。
その事務所には、歌い手もいた。今はうんと有名になってレコード大賞ももらった歌い手さんだ。
彼女が事務所てチャーシューメンか何か食べていた。ちょうどおひるで、私はチキンライスが来るのを待ちながら、その歌い手さんの食事を眺めていた。
たいへんエレガントな美しい人である。ただし、ひどい近眼で、ふだんは目の前のものもはっきりしないという。
これからステージでもあるのだろうか、重たいツケマツゲをつけて、チャーシューメンの丼《どんぶり》に向っていた。そのうち、何かのはずみに、パラリと片方のツケマツゲが丼の中に落ちた。たぶん湯気のせいかも知れない。
「あっ」
と思ったが、私は黙っていた。とても優雅で、気品のある人だけに、
「ツケマツゲが落ちましたよ」
などと言うのをはばかれるような感じがあったのだ。だが、私はその時そう言うべきだったと思う。私の見ている前で、彼女は、ふと箸《はし》の先端にそのツケマツゲをつまみあげ、ちょっと眉《まゆ》をしかめてまじまじとそれを眺めると、呟《つぶや》いた。
「これ、なんだろう。フカのヒレかしら」
彼女の眼鏡をかけていない視力は、湯気の中の黒い奇妙なものを、はっきりと識別する能力がなかったのである。私が制するいとまもなく、彼女はポイとそれを口の中に放り込むと、少し首をかしげて二、三度噛《か》み、ごくりとのみこんでしまったのだった。そして、何事もなかったように黙々と箸を動かしはじめた。
あの歌い手さんは、たぶん恐ろしく声帯が太いにちがいない、と私は思った。彼女ののびやかなアルトの声は、おそらくそのたくましい声帯から発せられるにちがいない。
その事務所にいる間に、私はたくさんのCMソングの歌詞を書いた。私の名前で出たものもあり、事務所の名前で制作されたものもある。
ある時期から、CMソングにかわって、企業ソングというたぐいのものが多くなった。
○○生命だとか、○○重工だとかいった会社名のPRソングである。
そういった歌詞が出来上るまでに、どの位の制作費が動くのか、当時の私は全く知らなかった。だが、ある有名な会社の社名を謳《うた》いあげ、テレビやラジオの媒体に乗せる大事な代物《しろもの》だという事はわかった。しかし、わからないこともあった。私たちが、頭をひねって作りあげる歌詞の作詞料が、おどろくほど安いことだった。
後で聞いたところでは、その歌を作るための全制作費の約百分の一にしか相当しない額だった。資本主義というやつは、ひどくきびしいものだと思った。そして、その一方ではまた、ひどくおかしくもあった。堂々たる巨大なビルを構え、テレビやラジオから社名を連呼しているその会社の歌が、わずか何千円かの料金で売られたものだとは、誰が知っているだろう。
きびしさと、こっけいさの交錯したそんな時代を、私たちは現代と呼んでいる。その銀座のビルにある小さな事務所は、そんな現代の交《こう》叉《さ》点《てん》だったともいえるだろう。
私はその事務所で何年か働き、マスメディアの下部構造を支《ささ》える虚実の作業を、風景のように眺めて過した。
その事務所も今はない。仕事のない日に、ぼんやり古いコントを読みふけった午後は、時間がふっと停止したような不思議な感じとともに記憶に残っている。
「はあ。クルマを少々——」
もう、こんなセリフを聞いても誰も笑わない時代になった。東京は車ばかりが増《ふ》え、今はもう私の同級生たちも、大半自分の車を持っているらしい。
新幹線になってからは、レールもゴットンとは鳴らない。ツケマツゲをフカのヒレと信じて飲みこんだ歌い手さんだけは、今もますます良い歌を聞かせてくれている。やはり彼女の声帯は太くたくましかったにちがいない。
こんな話を、一つ考えると何百円かに売れたらしい。私はその事務所に顔を出すたびに、一日中そんな話を考えて暮している人たちが天才のように思えてしかたがなかった。
その事務所には、歌い手もいた。今はうんと有名になってレコード大賞ももらった歌い手さんだ。
彼女が事務所てチャーシューメンか何か食べていた。ちょうどおひるで、私はチキンライスが来るのを待ちながら、その歌い手さんの食事を眺めていた。
たいへんエレガントな美しい人である。ただし、ひどい近眼で、ふだんは目の前のものもはっきりしないという。
これからステージでもあるのだろうか、重たいツケマツゲをつけて、チャーシューメンの丼《どんぶり》に向っていた。そのうち、何かのはずみに、パラリと片方のツケマツゲが丼の中に落ちた。たぶん湯気のせいかも知れない。
「あっ」
と思ったが、私は黙っていた。とても優雅で、気品のある人だけに、
「ツケマツゲが落ちましたよ」
などと言うのをはばかれるような感じがあったのだ。だが、私はその時そう言うべきだったと思う。私の見ている前で、彼女は、ふと箸《はし》の先端にそのツケマツゲをつまみあげ、ちょっと眉《まゆ》をしかめてまじまじとそれを眺めると、呟《つぶや》いた。
「これ、なんだろう。フカのヒレかしら」
彼女の眼鏡をかけていない視力は、湯気の中の黒い奇妙なものを、はっきりと識別する能力がなかったのである。私が制するいとまもなく、彼女はポイとそれを口の中に放り込むと、少し首をかしげて二、三度噛《か》み、ごくりとのみこんでしまったのだった。そして、何事もなかったように黙々と箸を動かしはじめた。
あの歌い手さんは、たぶん恐ろしく声帯が太いにちがいない、と私は思った。彼女ののびやかなアルトの声は、おそらくそのたくましい声帯から発せられるにちがいない。
その事務所にいる間に、私はたくさんのCMソングの歌詞を書いた。私の名前で出たものもあり、事務所の名前で制作されたものもある。
ある時期から、CMソングにかわって、企業ソングというたぐいのものが多くなった。
○○生命だとか、○○重工だとかいった会社名のPRソングである。
そういった歌詞が出来上るまでに、どの位の制作費が動くのか、当時の私は全く知らなかった。だが、ある有名な会社の社名を謳《うた》いあげ、テレビやラジオの媒体に乗せる大事な代物《しろもの》だという事はわかった。しかし、わからないこともあった。私たちが、頭をひねって作りあげる歌詞の作詞料が、おどろくほど安いことだった。
後で聞いたところでは、その歌を作るための全制作費の約百分の一にしか相当しない額だった。資本主義というやつは、ひどくきびしいものだと思った。そして、その一方ではまた、ひどくおかしくもあった。堂々たる巨大なビルを構え、テレビやラジオから社名を連呼しているその会社の歌が、わずか何千円かの料金で売られたものだとは、誰が知っているだろう。
きびしさと、こっけいさの交錯したそんな時代を、私たちは現代と呼んでいる。その銀座のビルにある小さな事務所は、そんな現代の交《こう》叉《さ》点《てん》だったともいえるだろう。
私はその事務所で何年か働き、マスメディアの下部構造を支《ささ》える虚実の作業を、風景のように眺めて過した。
その事務所も今はない。仕事のない日に、ぼんやり古いコントを読みふけった午後は、時間がふっと停止したような不思議な感じとともに記憶に残っている。
「はあ。クルマを少々——」
もう、こんなセリフを聞いても誰も笑わない時代になった。東京は車ばかりが増《ふ》え、今はもう私の同級生たちも、大半自分の車を持っているらしい。
新幹線になってからは、レールもゴットンとは鳴らない。ツケマツゲをフカのヒレと信じて飲みこんだ歌い手さんだけは、今もますます良い歌を聞かせてくれている。やはり彼女の声帯は太くたくましかったにちがいない。