古本屋とのつき合いは、これまでの私の人生でかなり大きな部分を占めていると言っていい。二十歳で東京に来てからが、本格的なつきあいの始まりだった。
私は早稲田に籍をおいていたので、当然のように戸塚界隈《かいわい》の古本屋に通うこととなった。
私が最初に集めだしたのは、戦前の改造社版のマクシム・ゴーリキイ全集である。露文科に入学したばかりで、語学の才も薄かったから原書というのは気骨が折れた。そこで翻訳で全部読んでみようと決心したわけである。
当時は本当に金のない時代だった。いや、時代がではなく、私個人の方がである。
したがって、戸塚一丁目から高田馬場へいたるコースをスクールバスに乗るのが惜しくて、徒歩で往復していた。その行き来の途中で古本屋を毎日のようにのぞいて歩くのである。
その改造社版のゴーリキイ全集というのは一種独特の装本で、私には今も強い印象がある。表紙は灰色で、黒の線と題字が印刷してあるその本は、文学書というより、機械工学の本か何かのように見えた。
私は一冊ずつ、見つけ次第にその本を買い込んだ。ほとんどばらばらで店頭に並べてあるので、それが全巻揃《そろ》うことは、とうてい考えられない事だった。
いけない事に、私自身の生活が時たま完全に行きづまる事がしばしばあった。そんな時には、古本屋の顔なじみの親《おや》父《じ》さんに頼んで一定の期限をおいて買い取ってもらうのだった。
古本屋では、その本を一週間とか、二週間とかは店頭に出さず、私が代金を持って買いに行くと、奥の部屋からヒモでくくった数冊の本を出して来てくれるのである。
たぶん、売った時の二、三割高くらいの値段で引き取らせてもらったように思う。
私はそのうち、あちこちの古本屋の親父さんと個人的につき合うようになった。神田で市《いち》がある時など、小僧がわりについて行くこともあった。
店先に坐って雑談を交《か》わしていると、痩《や》せた顔色の悪い学生が、数冊の本を持って売りにくる。私はそんな時、いつもその店の性格と本の評価とのバランスを取って、頭の中で親父さんがどの位の値をつけるかを計算していた。そして、その数字は、ほとんど十円と狂うことがなかった。
後に私が中央線沿線の方へ進出した時代には、もっぱら中野と高円寺の古本屋さんとつき合いが出来た。
以前の高円寺の阿佐ヶ谷寄りの踏切りの近くにTという古本屋さんがあり、そこが私の最もよく売り買いした店だった。
Tには眼鏡をかけた品のいい中年の婦人が坐っていて、実に良心的な値のつけ方をしてくれた。他の人では私として少し納得の行かないような時でも、その婦人のつけた値には、全面的に信頼することにしていた。
私がその店に売った本は、相当な量に上るにちがいない。自分の処分した本が、ちゃんとハトロン紙か何かかぶせて、書店に並んでいるのは複雑な感じである。当時、私は本を買うと必ず紙カバーとか、帯とかを大切に保存しておいたものだ。最近は売ることを考えずに買うようになったが、未《いま》だに帯やカバーを捨てる時には一瞬の抵抗がある。
本を売りに行く時というのは、ほとんどぬきさしならぬ状況で行く場合が多い。したがって目指《めざ》す本屋の主人が留守だったり、定休日だったりすると、本当にお手あげになる場合があった。
そんな時、あわてて初会の店を探《さが》すと、ほとんど見るも無残な叩《たた》かれかたをする。だが帰りの電車賃さえ持たぬ時は、どんな安値であれ売らないわけには行かない。あの情けなさと屈辱の感情は、永く私の中に残った。
ある日、私が大事にしていたツルゲーネフの作品選集を持って高円寺に出かけたことがある。折《おり》悪《あ》しくTは休みで戸がしまっていた。私は十円の金もポケットになかった。あちこち歩いた末、全く面識のない小さな古本屋をみつけた。私はそこの赤ん坊をおぶった中年の小母さんに、私が考えたより数百円も安く七冊の選集を売らねばならなかった。
私は怒りと口惜《くや》しさで熱くなりながら雨の中を駅に走った。私をそうさせたのは、手もとにある金額の多少ではなく、その本が不当な評価をされた、というその一点にあった。
私は中央線を新宿で乗りかえて高田馬場へ出た。そして、ロータリーを越えて、顔なじみの古本屋へ向った。
そこの親父さんは、私の顔を見て、久し振りだ、というような挨拶《あいさつ》をした。私は、そこで、その親父さんに千円ほど貸してもらえないか、と言った。
「本が無けりゃ困るね」
と親父さんは苦笑しながら言った。
「いったいどうしようってんだい」
私は高円寺の知らない店で、これこれの本をこの額で売った、と、そのいきさつを話した。そして、今から行って、あれを買いもどしてくる、その上で、改めてあんたに売りたい、と申し出た。
「ほんとにそれは安すぎる値段だろうかね」
と、古本屋の親父さんは首をかしげた。「わたしが見ても、それだけしか出さないかも知れんよ」
「そんなことは絶対にないと思うね」
私は、そこで粘り抜いた末、ようやく十枚の百円札を借り出した。私は再び雨の中を高田馬場へ取って返し、山手線、中央線と乗りかえて高円寺についた。例の古本屋に行くと子供を背負った小母さんは居ず、角刈りにした兄《あん》ちゃんふうの青年が一人で店番をしていた。私の本は、すでに私が売ったよりも倍以上高い値で店頭に出ていた。
「これをくれ」
と、私は言った。そして、さっきこの本を売ったのは自分であること、故《ゆえ》に定価をいくらか値引きしてもらえないか、と頼んだ。
「駄目だね」
と、青年は言った。「うちは商売やってるんだからな」
私はあきらめて、さっき手に入れた金と、戸塚の古本屋で借りて来た金を合わせて、その代金を払った。手もとに丁度六十円ほどの銅貨があまっただけだった。
私は買いもどした本を抱《かか》えて、中央線に乗り、更に山手線に乗りかえ、高田馬場で降りて戸塚一丁目の方へ歩いた。私の服はすでに下着までぐっしょり濡《ぬ》れていた。新聞紙に包んだ本だけは濡らしたくなかった。私は本を上半身でかばうように抱いて戸塚のロータリーのあたりを過ぎて行った。
古本屋の親父さんは、笑いながら私を迎えてくれた。
「どれ、見せてごらん」
「ほら、これだ」
私はツルゲーネフを親父さんの前に積みあげた。
「この本は、たぶんこれだけの値段で引き取っていいはずだよ。おれのここ数年の古本修業からいくと、そういう計算になる」
私は絶対の信念を持って、或《あ》る数字をメモし、それを親父さんの前にたたんで置いた。
「よし」
親父さんは、にわかに居ずまいを直し、眼光紙背に徹せんばかりの目つきで、一冊一冊手にとって見た。そして、何やら口の中でぶつぶつとなえていたかと思うと、やおらソロバンを取るやパチパチとはじいて、
「これだ」
「勝負!」
私はたたんだ紙片をさっとひらいて見せた。
「お見事!」
と、親父さんが唸《うな》った。その数字は私の書いた値段と十円の端数まで一致していた。親父さんは引出しの中から、その値段だけの金を出して私に渡した。私はポケットにその金をしまい店を出ようとした。その時、親父さんが、私に向って手を出して言った。
「さっき貸した分を返してもらおう」
私は千円をその中から返した。残ったのは数枚の銅貨だけだった。私はなぜ本を処分したのにこういうことになったのかと理解できずにいた。その時私は、高円寺の店で倍近い値段で買いもどした事を忘れていたのだった。私は数枚の十円銅貨をにぎったまま、雨の戸塚の町を高田馬場の駅へ歩いて行った。
私は早稲田に籍をおいていたので、当然のように戸塚界隈《かいわい》の古本屋に通うこととなった。
私が最初に集めだしたのは、戦前の改造社版のマクシム・ゴーリキイ全集である。露文科に入学したばかりで、語学の才も薄かったから原書というのは気骨が折れた。そこで翻訳で全部読んでみようと決心したわけである。
当時は本当に金のない時代だった。いや、時代がではなく、私個人の方がである。
したがって、戸塚一丁目から高田馬場へいたるコースをスクールバスに乗るのが惜しくて、徒歩で往復していた。その行き来の途中で古本屋を毎日のようにのぞいて歩くのである。
その改造社版のゴーリキイ全集というのは一種独特の装本で、私には今も強い印象がある。表紙は灰色で、黒の線と題字が印刷してあるその本は、文学書というより、機械工学の本か何かのように見えた。
私は一冊ずつ、見つけ次第にその本を買い込んだ。ほとんどばらばらで店頭に並べてあるので、それが全巻揃《そろ》うことは、とうてい考えられない事だった。
いけない事に、私自身の生活が時たま完全に行きづまる事がしばしばあった。そんな時には、古本屋の顔なじみの親《おや》父《じ》さんに頼んで一定の期限をおいて買い取ってもらうのだった。
古本屋では、その本を一週間とか、二週間とかは店頭に出さず、私が代金を持って買いに行くと、奥の部屋からヒモでくくった数冊の本を出して来てくれるのである。
たぶん、売った時の二、三割高くらいの値段で引き取らせてもらったように思う。
私はそのうち、あちこちの古本屋の親父さんと個人的につき合うようになった。神田で市《いち》がある時など、小僧がわりについて行くこともあった。
店先に坐って雑談を交《か》わしていると、痩《や》せた顔色の悪い学生が、数冊の本を持って売りにくる。私はそんな時、いつもその店の性格と本の評価とのバランスを取って、頭の中で親父さんがどの位の値をつけるかを計算していた。そして、その数字は、ほとんど十円と狂うことがなかった。
後に私が中央線沿線の方へ進出した時代には、もっぱら中野と高円寺の古本屋さんとつき合いが出来た。
以前の高円寺の阿佐ヶ谷寄りの踏切りの近くにTという古本屋さんがあり、そこが私の最もよく売り買いした店だった。
Tには眼鏡をかけた品のいい中年の婦人が坐っていて、実に良心的な値のつけ方をしてくれた。他の人では私として少し納得の行かないような時でも、その婦人のつけた値には、全面的に信頼することにしていた。
私がその店に売った本は、相当な量に上るにちがいない。自分の処分した本が、ちゃんとハトロン紙か何かかぶせて、書店に並んでいるのは複雑な感じである。当時、私は本を買うと必ず紙カバーとか、帯とかを大切に保存しておいたものだ。最近は売ることを考えずに買うようになったが、未《いま》だに帯やカバーを捨てる時には一瞬の抵抗がある。
本を売りに行く時というのは、ほとんどぬきさしならぬ状況で行く場合が多い。したがって目指《めざ》す本屋の主人が留守だったり、定休日だったりすると、本当にお手あげになる場合があった。
そんな時、あわてて初会の店を探《さが》すと、ほとんど見るも無残な叩《たた》かれかたをする。だが帰りの電車賃さえ持たぬ時は、どんな安値であれ売らないわけには行かない。あの情けなさと屈辱の感情は、永く私の中に残った。
ある日、私が大事にしていたツルゲーネフの作品選集を持って高円寺に出かけたことがある。折《おり》悪《あ》しくTは休みで戸がしまっていた。私は十円の金もポケットになかった。あちこち歩いた末、全く面識のない小さな古本屋をみつけた。私はそこの赤ん坊をおぶった中年の小母さんに、私が考えたより数百円も安く七冊の選集を売らねばならなかった。
私は怒りと口惜《くや》しさで熱くなりながら雨の中を駅に走った。私をそうさせたのは、手もとにある金額の多少ではなく、その本が不当な評価をされた、というその一点にあった。
私は中央線を新宿で乗りかえて高田馬場へ出た。そして、ロータリーを越えて、顔なじみの古本屋へ向った。
そこの親父さんは、私の顔を見て、久し振りだ、というような挨拶《あいさつ》をした。私は、そこで、その親父さんに千円ほど貸してもらえないか、と言った。
「本が無けりゃ困るね」
と親父さんは苦笑しながら言った。
「いったいどうしようってんだい」
私は高円寺の知らない店で、これこれの本をこの額で売った、と、そのいきさつを話した。そして、今から行って、あれを買いもどしてくる、その上で、改めてあんたに売りたい、と申し出た。
「ほんとにそれは安すぎる値段だろうかね」
と、古本屋の親父さんは首をかしげた。「わたしが見ても、それだけしか出さないかも知れんよ」
「そんなことは絶対にないと思うね」
私は、そこで粘り抜いた末、ようやく十枚の百円札を借り出した。私は再び雨の中を高田馬場へ取って返し、山手線、中央線と乗りかえて高円寺についた。例の古本屋に行くと子供を背負った小母さんは居ず、角刈りにした兄《あん》ちゃんふうの青年が一人で店番をしていた。私の本は、すでに私が売ったよりも倍以上高い値で店頭に出ていた。
「これをくれ」
と、私は言った。そして、さっきこの本を売ったのは自分であること、故《ゆえ》に定価をいくらか値引きしてもらえないか、と頼んだ。
「駄目だね」
と、青年は言った。「うちは商売やってるんだからな」
私はあきらめて、さっき手に入れた金と、戸塚の古本屋で借りて来た金を合わせて、その代金を払った。手もとに丁度六十円ほどの銅貨があまっただけだった。
私は買いもどした本を抱《かか》えて、中央線に乗り、更に山手線に乗りかえ、高田馬場で降りて戸塚一丁目の方へ歩いた。私の服はすでに下着までぐっしょり濡《ぬ》れていた。新聞紙に包んだ本だけは濡らしたくなかった。私は本を上半身でかばうように抱いて戸塚のロータリーのあたりを過ぎて行った。
古本屋の親父さんは、笑いながら私を迎えてくれた。
「どれ、見せてごらん」
「ほら、これだ」
私はツルゲーネフを親父さんの前に積みあげた。
「この本は、たぶんこれだけの値段で引き取っていいはずだよ。おれのここ数年の古本修業からいくと、そういう計算になる」
私は絶対の信念を持って、或《あ》る数字をメモし、それを親父さんの前にたたんで置いた。
「よし」
親父さんは、にわかに居ずまいを直し、眼光紙背に徹せんばかりの目つきで、一冊一冊手にとって見た。そして、何やら口の中でぶつぶつとなえていたかと思うと、やおらソロバンを取るやパチパチとはじいて、
「これだ」
「勝負!」
私はたたんだ紙片をさっとひらいて見せた。
「お見事!」
と、親父さんが唸《うな》った。その数字は私の書いた値段と十円の端数まで一致していた。親父さんは引出しの中から、その値段だけの金を出して私に渡した。私はポケットにその金をしまい店を出ようとした。その時、親父さんが、私に向って手を出して言った。
「さっき貸した分を返してもらおう」
私は千円をその中から返した。残ったのは数枚の銅貨だけだった。私はなぜ本を処分したのにこういうことになったのかと理解できずにいた。その時私は、高円寺の店で倍近い値段で買いもどした事を忘れていたのだった。私は数枚の十円銅貨をにぎったまま、雨の戸塚の町を高田馬場の駅へ歩いて行った。