大そう賢く美しいことで有名な、或《あ》る女優さんとの、対談や、グラビア撮影の依頼が年末にかけて何度もあった。
不思議に思ってきいてみたところが、昭和四十三年は申年《さるどし》だという。こっちはエトなどという古典的な教養はないので気がつかなかったが、言われてみれば昭和七年九月生れのサルである。
サルが二匹でテレビに出ても仕方がないので、勘弁していただいたが、少し残念な気がしないでもない。
どだい、こういった十二支《し》には関心がない方である。だが、サルだと言われてみれば、何となくサル的な要素が自分にあるような気がしてくるから不思議なものだ。
以前から私は、自分のことをオッチョコチョイだと信じて生きて来た。好奇心が強すぎる。人の集まる所へ顔を出したがる。目先の興味を追いすぎる。
これではいけないと、けんめいに努力してきたが、人間の性分というものはそう変るものではないらしい。
先日、文芸講演会というものに、はじめて出かけた。講演そのものは恥をかいただけだが、ご一緒に旅をした漫画家のKさんと、作家のOさんに教えられるところが、沢山あって楽しかった。
続いて文士祭りの前座で講演をやった。あの大きな劇場の舞台に立ったとたん、客席が全く見えなくなってしまった。話の方は勿論《もちろん》なにを喋《しゃべ》ったか記憶にない。
そして年末に、性こりもなく京都の同志社大学に出かけた。
文化祭とか、研究会には出たことがないが、二部の学生のためのアッセンブリー・アワーだというのでお受けしたのである。
これが、とても気持のいい会だった。前の二回と違って、相手は若い学生たちである。女子学生の姿も少なくなかった。私はひどく安心して、講演というより、雑談のような調子で気楽なお喋りをした。脱線しっぱなして、どこへ行くかわからないという話だったが、それでも学生たちは最後まで私の話を聞いてくれた。うれしかった。
この時に喋ったことは、断片的におぼえている。ダークダックスはモスクワ大学で、ブルーコメッツはロンシャンの教会だ、とか何とか喋ったようだ。この時は、教室に集まっている学生諸氏の顔が、はっきりと見えた。そのまま終れば大出来だったが、途中で、思いがけない失態をしでかした。
何やら喋っていて、ふっと前後の脈絡もなく胸がこみあげて来たのである。一瞬、私は絶句し、大いにあわてながら言葉を探《さが》した。だが何故《なぜ》か、適当な言葉が見つからず、みっともない事になってしまった。
その日の晩、私は鴨川《かもがわ》ぞいの雑踏の中を歩きながら、あの時こみあげて来たものは何だったろうと考えていた。
おそらくそれは、私の神経がひどく消耗していたためにちがいない。私はその日の朝八時すぎまで原稿を書き、一時間足らず眠ってまた仕事を続け、会場に五分前に駆け込んでいたのである。そんな日が数日続くと、人間の情緒は不安定になる。私は自分で自宅の近所の或る施設のことを連想したとたんに、ふっと感情が激したのだった。
おそらく、前に二度出かけた講演会では、そんな事はあり得なかっただろう。私を絶句させたのは、私を包む学生たちの雰《ふん》囲気《いき》であり、自分の学生時代へのフィルムの逆回転のような想起と重なったその場の空気だった。
青春、とか、若者、とかいった語感が私は余り好きではない。にもかかわらず、私の心をその時感傷的にしたのは、やはり一つの青春の匂《にお》いだったと言える。
私は大学を横に《・・》出て以来、長い自分独りの旅を続けて来た。そして、十数年たって、京都の縁もゆかりもない他の大学へ来て、ふっと非行少年の感化院に寄せる郷愁のようなものを覚えたのだった。
教室、というものを私は嫌《きら》っていた。大学に対しても、愛憎二筋のアンビバレンツの目でそれを眺《なが》めている。私は大学を追われた学生であり、そこには事務的な手続きが介在しただけだった。
私が話の途中で絶句した本当の理由は、おそらく自分でもそれを明確に分析することは不可能だったろう。
ただ判《わか》っているのは、その時、全く不意に、目の前の学生たちの顔を触媒として、プルーストの小説の中に出て来る水中花のような記憶の開花がおとずれて来たということだ。それは予期しない不意打ちだった。
消耗し、弱められていた私の神経は、その不意打ちを持ちこたえることが出来なかったにちがいない。
私がその時おぼえたのは、立ちこめる青春のブルーな匂いであり、世界と存在するものの不条理の感覚であり、大学を追われた自分が、十数年後によその大学の演壇に立っているという違和感でもあった。
私は、しどろもどろに話を終え、学生たちに謝《あやま》って壇を降りた。私はその時、灼《や》けるような恥ずかしさを感じていた。
ドライ・ハードネスを提唱し、アパティアの精神、ニル・アドミラリをとなえる私としては、どうしようもないぶざまな失態だったと思う。
橋の上から眺める夜の河は、ひどくクールに光って見えた。その晩は、とても冷えた。私は京都の町を歩きながら、あの時突然に訪れて来て私を絶句させたものの正体を、いつか小説に書いてみたいと思っていた。私は次の日、金沢へ帰ることになっていたのである。三日間の東京と、一晩の京都から、再び霙《みぞれ》の降る暗い北国の数週間が近づいていた。私の心の中に、いつものあの鬱《うつ》状態が静かに近づいてくる予感があった。
不思議に思ってきいてみたところが、昭和四十三年は申年《さるどし》だという。こっちはエトなどという古典的な教養はないので気がつかなかったが、言われてみれば昭和七年九月生れのサルである。
サルが二匹でテレビに出ても仕方がないので、勘弁していただいたが、少し残念な気がしないでもない。
どだい、こういった十二支《し》には関心がない方である。だが、サルだと言われてみれば、何となくサル的な要素が自分にあるような気がしてくるから不思議なものだ。
以前から私は、自分のことをオッチョコチョイだと信じて生きて来た。好奇心が強すぎる。人の集まる所へ顔を出したがる。目先の興味を追いすぎる。
これではいけないと、けんめいに努力してきたが、人間の性分というものはそう変るものではないらしい。
先日、文芸講演会というものに、はじめて出かけた。講演そのものは恥をかいただけだが、ご一緒に旅をした漫画家のKさんと、作家のOさんに教えられるところが、沢山あって楽しかった。
続いて文士祭りの前座で講演をやった。あの大きな劇場の舞台に立ったとたん、客席が全く見えなくなってしまった。話の方は勿論《もちろん》なにを喋《しゃべ》ったか記憶にない。
そして年末に、性こりもなく京都の同志社大学に出かけた。
文化祭とか、研究会には出たことがないが、二部の学生のためのアッセンブリー・アワーだというのでお受けしたのである。
これが、とても気持のいい会だった。前の二回と違って、相手は若い学生たちである。女子学生の姿も少なくなかった。私はひどく安心して、講演というより、雑談のような調子で気楽なお喋りをした。脱線しっぱなして、どこへ行くかわからないという話だったが、それでも学生たちは最後まで私の話を聞いてくれた。うれしかった。
この時に喋ったことは、断片的におぼえている。ダークダックスはモスクワ大学で、ブルーコメッツはロンシャンの教会だ、とか何とか喋ったようだ。この時は、教室に集まっている学生諸氏の顔が、はっきりと見えた。そのまま終れば大出来だったが、途中で、思いがけない失態をしでかした。
何やら喋っていて、ふっと前後の脈絡もなく胸がこみあげて来たのである。一瞬、私は絶句し、大いにあわてながら言葉を探《さが》した。だが何故《なぜ》か、適当な言葉が見つからず、みっともない事になってしまった。
その日の晩、私は鴨川《かもがわ》ぞいの雑踏の中を歩きながら、あの時こみあげて来たものは何だったろうと考えていた。
おそらくそれは、私の神経がひどく消耗していたためにちがいない。私はその日の朝八時すぎまで原稿を書き、一時間足らず眠ってまた仕事を続け、会場に五分前に駆け込んでいたのである。そんな日が数日続くと、人間の情緒は不安定になる。私は自分で自宅の近所の或る施設のことを連想したとたんに、ふっと感情が激したのだった。
おそらく、前に二度出かけた講演会では、そんな事はあり得なかっただろう。私を絶句させたのは、私を包む学生たちの雰《ふん》囲気《いき》であり、自分の学生時代へのフィルムの逆回転のような想起と重なったその場の空気だった。
青春、とか、若者、とかいった語感が私は余り好きではない。にもかかわらず、私の心をその時感傷的にしたのは、やはり一つの青春の匂《にお》いだったと言える。
私は大学を横に《・・》出て以来、長い自分独りの旅を続けて来た。そして、十数年たって、京都の縁もゆかりもない他の大学へ来て、ふっと非行少年の感化院に寄せる郷愁のようなものを覚えたのだった。
教室、というものを私は嫌《きら》っていた。大学に対しても、愛憎二筋のアンビバレンツの目でそれを眺《なが》めている。私は大学を追われた学生であり、そこには事務的な手続きが介在しただけだった。
私が話の途中で絶句した本当の理由は、おそらく自分でもそれを明確に分析することは不可能だったろう。
ただ判《わか》っているのは、その時、全く不意に、目の前の学生たちの顔を触媒として、プルーストの小説の中に出て来る水中花のような記憶の開花がおとずれて来たということだ。それは予期しない不意打ちだった。
消耗し、弱められていた私の神経は、その不意打ちを持ちこたえることが出来なかったにちがいない。
私がその時おぼえたのは、立ちこめる青春のブルーな匂いであり、世界と存在するものの不条理の感覚であり、大学を追われた自分が、十数年後によその大学の演壇に立っているという違和感でもあった。
私は、しどろもどろに話を終え、学生たちに謝《あやま》って壇を降りた。私はその時、灼《や》けるような恥ずかしさを感じていた。
ドライ・ハードネスを提唱し、アパティアの精神、ニル・アドミラリをとなえる私としては、どうしようもないぶざまな失態だったと思う。
橋の上から眺める夜の河は、ひどくクールに光って見えた。その晩は、とても冷えた。私は京都の町を歩きながら、あの時突然に訪れて来て私を絶句させたものの正体を、いつか小説に書いてみたいと思っていた。私は次の日、金沢へ帰ることになっていたのである。三日間の東京と、一晩の京都から、再び霙《みぞれ》の降る暗い北国の数週間が近づいていた。私の心の中に、いつものあの鬱《うつ》状態が静かに近づいてくる予感があった。
ささくれだつ消しゴムの夜で死に行く鳥 兜《とう》子《し》
坂口安《あん》吾《ご》の、あのエッセイのような文体で自分の過ぎた青年時代を語れないものだろうか、と思うことがある。
私が愛してやまない〈長崎チャンポン〉や〈富山の薬と越《えち》後《ご》の毒消し〉のような姿勢で書けたらどんなに素晴らしいだろう。
明治百年は、またゴーリキイ誕生百年でもある。彼は間違いなくマイナーな作家だが、忘れる事のできない見事な自伝的な作品を残した。私はよく人をチェホフ型とゴーリキイ型に分けて考えることがあるが、私などタイプとしてはやはりチェホフ型ではあるまい。
とぎれとぎれに、そんな事を考えながら、青森行きの急行〈日本海〉で金沢に着いたら、雨だった。
次の日も雨が降った。だが、庭の雪は頑《がん》固《こ》に消えずに残っている。雨に打たれた雪というものは灰色で、少しも美しくない。見ていると気が滅入《めい》る存在だ。次の日一日、何もせずに、こたつの中で新聞や、雑誌や、本を読んで過した。
ロープシンの〈蒼《あお》ざめた馬〉が新しい訳で出たのを読んでいる内に、たまらなく暗い気分になって来る。こういう時は、何を読めばいいか。おそらく本など読まずに、雪かきでもやればいいのかも知れない。
仕方がないので、べビイ・ドッズの古いレコードを引っぱり出してドラムを聞く。これはカメラマンの三木淳さんから貸していただいた面白いレコードだ。お喋りと、ドラムのソロがはいっている。聞いているうちに、こたつの中で眠ってしまったようだ。目を覚《さ》ました時は、もう暗くなっていた。外では雨が霙に変ったらしい。
私が愛してやまない〈長崎チャンポン〉や〈富山の薬と越《えち》後《ご》の毒消し〉のような姿勢で書けたらどんなに素晴らしいだろう。
明治百年は、またゴーリキイ誕生百年でもある。彼は間違いなくマイナーな作家だが、忘れる事のできない見事な自伝的な作品を残した。私はよく人をチェホフ型とゴーリキイ型に分けて考えることがあるが、私などタイプとしてはやはりチェホフ型ではあるまい。
とぎれとぎれに、そんな事を考えながら、青森行きの急行〈日本海〉で金沢に着いたら、雨だった。
次の日も雨が降った。だが、庭の雪は頑《がん》固《こ》に消えずに残っている。雨に打たれた雪というものは灰色で、少しも美しくない。見ていると気が滅入《めい》る存在だ。次の日一日、何もせずに、こたつの中で新聞や、雑誌や、本を読んで過した。
ロープシンの〈蒼《あお》ざめた馬〉が新しい訳で出たのを読んでいる内に、たまらなく暗い気分になって来る。こういう時は、何を読めばいいか。おそらく本など読まずに、雪かきでもやればいいのかも知れない。
仕方がないので、べビイ・ドッズの古いレコードを引っぱり出してドラムを聞く。これはカメラマンの三木淳さんから貸していただいた面白いレコードだ。お喋りと、ドラムのソロがはいっている。聞いているうちに、こたつの中で眠ってしまったようだ。目を覚《さ》ました時は、もう暗くなっていた。外では雨が霙に変ったらしい。