野坂昭如《あきゆき》氏が月刊誌のエッセイで新宿回顧の文章を書いているのを読んだら、ふと私も学生時代の新宿を思い出してしまった。
私は昭和二十七年度の早大入学生であるから、武《む》蔵《さし》野《の》館《かん》裏の和田組マーケットは知っている。私が通ったのは、〈金時〉という店だが、庶民的な名前に似ずかなり高い店だったように思う。もう一つ今の高野の手前あたりにマーケット風の一画があり、いま新宿で高度成長をとげた〈ノアノア〉のオリジナルや、〈満洲里《マンチューリ》〉や、〈長崎〉などという店が軒を並べていた。当時の〈ノアノア〉は、ひどくせまい店で、女主人もそれにふさわしいスリムな体つきだった。あれから幾星霜、店が大きくなると共に女主人も立派になったようだ。
当時はまだ今のようにモダン・ジャズの店が流行《はや》っていなかったので、私たちのたまり場は自然とシャンソンの店に落ちついた。
〈モン・ルポ〉という店が、私たち当時の仲間にとっては忘れ難い記憶となって残っている。今の〈どん底〉のちょうど向い側にあり、そこには和服の似合うほっそりとした若いマダムがいた。ウェイトレスは女子美のアルバイトの娘《こ》で、これもツイギー風のなかなかの美人だった。
私たちはその店で、〈ブラマント通り〉だとか〈枯葉〉だとかいった曲を聞き、カウンターの中のマダムとの一瞬の会話に胸をときめかせ、一杯のコーヒーで終日ねばり続けたものだった。私たちはその頃、どんな事を話し合っていたのだろう。記憶の底からよみがえってくるものといえば、どれもまとまりのないナンセンスな会話の断片ばかりである。〈地獄〉の作者の名前が、バルビュスであるかバビュルスであるかなどと、ある友人と大《おお》喧《げん》嘩《か》したりしていたのだから、たあいのない事おびただしい。
アポリネールといえば、有名なシャンソンの作詞家であるとだけ信じ込んでいる女子学生があり、その店での激論が原因で絶交する破目におちいったりした。私の方では、これまたアポリネールは小説家でしかないと信じ込んでいたのだから、どっちもどっちである。
ロシア文学の先達《せんだつ》として知名な、神西清《じんざいきよし》の名前を、カンザイキヨシと呼んて同級生に軽《けい》蔑《べつ》された思い出もある。
ある日、仲間のリーダー格であったMが、家から送って来た授業料をその店で皆に見せたことがあった。その金を眺《なが》めているうちに、私たちは何かそれをそのまま大学の事務員の手に渡してしまうことが許せない事のように思えて来た。
「せっかく国のご両親が送ってくれたんだからなあ」
と、無責任な仲間の一人が言った。
「このまま他人の手に渡してしまうというのも、ちょっとどうかと思うな」
Mもまた一ぷう変ったサムライで、しばしその金を深刻な顔でうち眺めていたが、
「そういえばそうだ」
とうなずいた。「だが、何に使う?」
その金は当時の私たちに取っては、かなりの金額だった。私たちはお互いにある一つの答えを心の中に抱《いだ》いていたのだが、自分の方から切り出すのがはばかられて、お互いに顔を見合わすばかりだった。
「えい、めんどうくせえや。やっぱりそう《・・》するか」
と、Mがうなずいて言った。私たちもガン首をそろえ、うなずいて一斉に立ち上った。
「そう《・・》する」事がどうする事であるかは、私たちはお互いに何も言わずとも通じあっていた。
Mは歩きながら慌《あわただ》しく授業料を四人に分配し、私たちは都電のレールをこえて、迷うことなく新宿二丁目の赤線の灯に直進して行ったのだった。
「〈モン・ルポ〉に十時に集まろう。いいな」
とMは言い、少し猫背の長身を風に傾けて銀色に光る都電のレールを越えて行った。今その時の光景を思い出す度《たび》に、ふっとこんな文句が私の脳裏によみがえって来る。
「風ハ蕭々《しょうしょう》トシテ二丁目寒シ。壮士ヒトタビ去ッテマタ帰ラズ」
あの時のMは、まことに颯爽《さっそう》としていたと思う。Mは後年、NHKの警視庁記者クラブの一員として私たちの前に現われ、当時失業中だった私たち仲間を旗を立てたハイヤーで飲みに連れて行ってくれたりしたが、やはりあの夜の彼が一番恰好《かっこう》が良かったようだ。
さて、そのとき私たちは自然と二人ずつパトロール風に分裂し、二丁目を遊弋《ゆうよく》することとなった。私と組んだNも引揚者で、大陸型のぼうようたる人物であったから、私たちはせかずあわてずじっくり時間をかけて歩き回った。その途中でMたちのカップルとばったりぶつかった時の照れ臭さは、筆舌につくしようがない。何も今さらお互いに照れることはないのだが、やはり変なもので、
「やあ」
とか何とか手をあげてすれ違った時は身がすくんだ。内地育ちの人間も、やはりこういう場面になると気が長くなるのだろうか、と私はMの事を考えたが、本当は彼の久保田万太郎ふうの感覚の繊細さが、安易な選択を許さなかったに違いない。
私たちは約束の時間に再び〈モン・ルポ〉に集まった。店にはシャルル・トレネが〈カナダ旅行〉か何かを陽気な声で歌っていた。
「どうだった?」
と先に来ていた組が相手にきいた。
「うん」
何となくお互いに戦果を自慢する気分ではなかった。Mはなおさらだっただろう。一時間余の後に、彼の授業料は見事に消え失《う》せてしまっていたからである。失ったものの重さを、彼は一見、御家人ふうの顎《あご》をなでつつ想起している風《ふ》情《ぜい》だった。
「どうしたの皆さん。そんなに憂鬱《ゆううつ》そうな顔をして——」
と、マダムがほほえみかけたが、私たちの心は、いつものように弾《はず》まなかった。その時の私たちの気分に、シャルル・トレネは向かなかった。やはりグレコの、サルトル作詞とかいう変な歌のほうが合っていたように思う。
当時、私たちは奇妙な谷間にいた。MSA発効と、六全協のちょうど中間の時期で、どこか屈折した感情を、小説を書いたり、ポーカーをやったりしてまぎらわせていた。学生生活は当然のように苦しく、デパートの螢光《けいこう》灯《とう》の下では三十分ともたなかった。慢性の栄養失調で、目が弱っていたからである。
そんな苦しさの中で、どうして女を買ったり、シャンソンの店へなど通ったのか、と問いつめられても、うまく説明できそうもない。青春とはそんなものだ、と小声で呟《つぶや》いてみるだけだ。
フランス語の出来ない私は、〈ブラマント通り〉の歌詞をMに頼んで仮名で書いてもらい、九州ふうの発音でそれを歌いながら深夜の新宿を彷徨《ほうこう》していた。
昼間の新宿の記憶といえば、ほとんどない。わずかに紀伊《きの》国《くに》屋《や》の喫茶室と、木造だった以前の風月堂、それに中村屋ぐらいのものだ。のちにオペラ・ハウスが昼間ジャズ喫茶をやっていた頃、ウェスターン音楽を聞きに通った事を憶《おぼ》えている。それからフランス座の記憶が続く。新宿ミュージック・ホールと名前の変る前のフランス座は大変面白かった。後年、その頃私がひどく気に入っていた三笠圭《けい》子《こ》というストリッパーが、北海道のキャバレーに出ているのを見て、懐旧の念にかられた事がある。浅黒い肌《はだ》をした、くせのある踊り手だったが、池袋フランス座の斎藤昌子と共に忘れ難い真のアーチストであった。
当時のコメディアンたちは、今や毎日のようにテレビで再会するようになった。彼らは今や昔のあのどこかニヒルな陽気さと質の違った雰《ふん》囲気《いき》を身につけて、ブラウン管の中に現われてくる。だが、あの頃の女たちは、みんなどこかへ消えてしまった。〈モン・ルポ〉のマダムの顔も、もう忘れかけている。憶えているのは、あの二丁目にかかる都電のレールの白い輝きだけだ。
私は昭和二十七年度の早大入学生であるから、武《む》蔵《さし》野《の》館《かん》裏の和田組マーケットは知っている。私が通ったのは、〈金時〉という店だが、庶民的な名前に似ずかなり高い店だったように思う。もう一つ今の高野の手前あたりにマーケット風の一画があり、いま新宿で高度成長をとげた〈ノアノア〉のオリジナルや、〈満洲里《マンチューリ》〉や、〈長崎〉などという店が軒を並べていた。当時の〈ノアノア〉は、ひどくせまい店で、女主人もそれにふさわしいスリムな体つきだった。あれから幾星霜、店が大きくなると共に女主人も立派になったようだ。
当時はまだ今のようにモダン・ジャズの店が流行《はや》っていなかったので、私たちのたまり場は自然とシャンソンの店に落ちついた。
〈モン・ルポ〉という店が、私たち当時の仲間にとっては忘れ難い記憶となって残っている。今の〈どん底〉のちょうど向い側にあり、そこには和服の似合うほっそりとした若いマダムがいた。ウェイトレスは女子美のアルバイトの娘《こ》で、これもツイギー風のなかなかの美人だった。
私たちはその店で、〈ブラマント通り〉だとか〈枯葉〉だとかいった曲を聞き、カウンターの中のマダムとの一瞬の会話に胸をときめかせ、一杯のコーヒーで終日ねばり続けたものだった。私たちはその頃、どんな事を話し合っていたのだろう。記憶の底からよみがえってくるものといえば、どれもまとまりのないナンセンスな会話の断片ばかりである。〈地獄〉の作者の名前が、バルビュスであるかバビュルスであるかなどと、ある友人と大《おお》喧《げん》嘩《か》したりしていたのだから、たあいのない事おびただしい。
アポリネールといえば、有名なシャンソンの作詞家であるとだけ信じ込んでいる女子学生があり、その店での激論が原因で絶交する破目におちいったりした。私の方では、これまたアポリネールは小説家でしかないと信じ込んでいたのだから、どっちもどっちである。
ロシア文学の先達《せんだつ》として知名な、神西清《じんざいきよし》の名前を、カンザイキヨシと呼んて同級生に軽《けい》蔑《べつ》された思い出もある。
ある日、仲間のリーダー格であったMが、家から送って来た授業料をその店で皆に見せたことがあった。その金を眺《なが》めているうちに、私たちは何かそれをそのまま大学の事務員の手に渡してしまうことが許せない事のように思えて来た。
「せっかく国のご両親が送ってくれたんだからなあ」
と、無責任な仲間の一人が言った。
「このまま他人の手に渡してしまうというのも、ちょっとどうかと思うな」
Mもまた一ぷう変ったサムライで、しばしその金を深刻な顔でうち眺めていたが、
「そういえばそうだ」
とうなずいた。「だが、何に使う?」
その金は当時の私たちに取っては、かなりの金額だった。私たちはお互いにある一つの答えを心の中に抱《いだ》いていたのだが、自分の方から切り出すのがはばかられて、お互いに顔を見合わすばかりだった。
「えい、めんどうくせえや。やっぱりそう《・・》するか」
と、Mがうなずいて言った。私たちもガン首をそろえ、うなずいて一斉に立ち上った。
「そう《・・》する」事がどうする事であるかは、私たちはお互いに何も言わずとも通じあっていた。
Mは歩きながら慌《あわただ》しく授業料を四人に分配し、私たちは都電のレールをこえて、迷うことなく新宿二丁目の赤線の灯に直進して行ったのだった。
「〈モン・ルポ〉に十時に集まろう。いいな」
とMは言い、少し猫背の長身を風に傾けて銀色に光る都電のレールを越えて行った。今その時の光景を思い出す度《たび》に、ふっとこんな文句が私の脳裏によみがえって来る。
「風ハ蕭々《しょうしょう》トシテ二丁目寒シ。壮士ヒトタビ去ッテマタ帰ラズ」
あの時のMは、まことに颯爽《さっそう》としていたと思う。Mは後年、NHKの警視庁記者クラブの一員として私たちの前に現われ、当時失業中だった私たち仲間を旗を立てたハイヤーで飲みに連れて行ってくれたりしたが、やはりあの夜の彼が一番恰好《かっこう》が良かったようだ。
さて、そのとき私たちは自然と二人ずつパトロール風に分裂し、二丁目を遊弋《ゆうよく》することとなった。私と組んだNも引揚者で、大陸型のぼうようたる人物であったから、私たちはせかずあわてずじっくり時間をかけて歩き回った。その途中でMたちのカップルとばったりぶつかった時の照れ臭さは、筆舌につくしようがない。何も今さらお互いに照れることはないのだが、やはり変なもので、
「やあ」
とか何とか手をあげてすれ違った時は身がすくんだ。内地育ちの人間も、やはりこういう場面になると気が長くなるのだろうか、と私はMの事を考えたが、本当は彼の久保田万太郎ふうの感覚の繊細さが、安易な選択を許さなかったに違いない。
私たちは約束の時間に再び〈モン・ルポ〉に集まった。店にはシャルル・トレネが〈カナダ旅行〉か何かを陽気な声で歌っていた。
「どうだった?」
と先に来ていた組が相手にきいた。
「うん」
何となくお互いに戦果を自慢する気分ではなかった。Mはなおさらだっただろう。一時間余の後に、彼の授業料は見事に消え失《う》せてしまっていたからである。失ったものの重さを、彼は一見、御家人ふうの顎《あご》をなでつつ想起している風《ふ》情《ぜい》だった。
「どうしたの皆さん。そんなに憂鬱《ゆううつ》そうな顔をして——」
と、マダムがほほえみかけたが、私たちの心は、いつものように弾《はず》まなかった。その時の私たちの気分に、シャルル・トレネは向かなかった。やはりグレコの、サルトル作詞とかいう変な歌のほうが合っていたように思う。
当時、私たちは奇妙な谷間にいた。MSA発効と、六全協のちょうど中間の時期で、どこか屈折した感情を、小説を書いたり、ポーカーをやったりしてまぎらわせていた。学生生活は当然のように苦しく、デパートの螢光《けいこう》灯《とう》の下では三十分ともたなかった。慢性の栄養失調で、目が弱っていたからである。
そんな苦しさの中で、どうして女を買ったり、シャンソンの店へなど通ったのか、と問いつめられても、うまく説明できそうもない。青春とはそんなものだ、と小声で呟《つぶや》いてみるだけだ。
フランス語の出来ない私は、〈ブラマント通り〉の歌詞をMに頼んで仮名で書いてもらい、九州ふうの発音でそれを歌いながら深夜の新宿を彷徨《ほうこう》していた。
昼間の新宿の記憶といえば、ほとんどない。わずかに紀伊《きの》国《くに》屋《や》の喫茶室と、木造だった以前の風月堂、それに中村屋ぐらいのものだ。のちにオペラ・ハウスが昼間ジャズ喫茶をやっていた頃、ウェスターン音楽を聞きに通った事を憶《おぼ》えている。それからフランス座の記憶が続く。新宿ミュージック・ホールと名前の変る前のフランス座は大変面白かった。後年、その頃私がひどく気に入っていた三笠圭《けい》子《こ》というストリッパーが、北海道のキャバレーに出ているのを見て、懐旧の念にかられた事がある。浅黒い肌《はだ》をした、くせのある踊り手だったが、池袋フランス座の斎藤昌子と共に忘れ難い真のアーチストであった。
当時のコメディアンたちは、今や毎日のようにテレビで再会するようになった。彼らは今や昔のあのどこかニヒルな陽気さと質の違った雰《ふん》囲気《いき》を身につけて、ブラウン管の中に現われてくる。だが、あの頃の女たちは、みんなどこかへ消えてしまった。〈モン・ルポ〉のマダムの顔も、もう忘れかけている。憶えているのは、あの二丁目にかかる都電のレールの白い輝きだけだ。