正月は金沢で暮した。雪が深く、せっかく作った和服も、着る機会がなかった。羽織にゴム長靴《ながぐつ》では、いくら気取ったところでさまにはなるまい。
二日に、東京からのお客さんが現われる。こちらも退屈していたところなので、街へ出た。先日結婚したばかりの、私の大学の後輩に当る青年である。見上げるような長身の奥さんを伴って、香林坊の北国書林の地下で待っていた。
正月なので、タクシーが仲々つかまらない。歩いて雪の兼六園を一回りし、石川門をくぐって金沢大学の構内をのぞく。それから犀川《さいかわ》べりの道をぐるっと回って、卯《う》辰山《たつやま》に登り、雪に埋れた秋声の碑を眺《なが》めて望湖台へ上った。
北陸にはめずらしく晴れた日で、日本海が間近に迫って見えた。背後に真白なアルプスの山なみも光っている。
浅野川べりを迂《う》回《かい》して、東のくるわ《・・・》を歩く。昼間なのでどこも静かだ。お茶でも一杯ごちそうしてもらおうと、知合いのお茶屋をのぞいた。おかみが正月らしく改まった恰好《かっこう》で、挨拶《あいさつ》にくる。何が苦手といって、形式ばった挨拶ほど苦手なものはない。外地育ちの引揚少年だった私は、およそしつけ《・・・》というものを身につけずに三十五歳になってしまった。金沢弁で何やら言われても、受け答えのすべを知らず、
「やあ、どうも」
とか何とか口ごもりながら上衣《うわぎ》のボタンを掛けたり外《はず》したりするだけだ。
昼間なのでひまと見えて、日本髪にゆった女の人たちが何人もやって来る。長い裾《すそ》を引きずって、しきいの所で手をつくと、
「ながいこって」
「ながいこって」
裾の長い着物なので歩きにくい、とでも言ってるのだろうと考えていたら、そうではなかった。
「ながいこって」というのは、「おひさしぶりねえ」という土地の挨拶だという。何やら〈徳川の夫人たち〉のテレビでも見てるような具合で、落ち着かない。
年輩の姐《ねえ》さんが良い声で、知らない唄《うた》を歌う。
「その唄は何ですか」
と聞くと、
「そうやねえ、これは端《は》唄《うた》のようなもの」
「——ようなもの、というのは厳密に規定するとどういう事ですか」
「だんさん、唄は理屈やないがや。黙って聞きまっし」
「しかし——」
「はい、お茶」
新婚夫婦は屈託なく笑いながら、数の子をつついている。外で雨戸に当る雪の音がきこえる。さっきまで晴れていたのに、また降り出したらしい。
前におでん屋のカニの事を書いたら、いろいろ意見が出た。
コウバクガニというのはズワイガニ(越前《えちぜん》蟹《がに》)のメスである由《よし》。地元の人はコウバクとコウバコの中間のような発音をする。北国新聞の田中学芸部長に、
「コウバクガニというのは、どういう漢字を当てるんですか」
と聞いてみたが、はっきりしない。
「ううむ。あれはどう書くのかな」
腕組みして首をひねっただけだった。
この土地は昔から源平に縁の深い土地である。正月には子供たちが集まって、旗源平などという風流なお座敷遊びをする。私は紅白《コウバク》蟹《ガニ》と書いたが、源氏と平家の紅白の旗をカニの中身の紅白に当てたのではないかと考えていた。
その後、日本海側の魚については有数の権威者である岡良一氏から、こんな話を聞いた。岡氏は中野重治《しげはる》氏、窪川鶴《くぼかわつる》次《じ》郎《ろう》氏、森山啓氏などと共に四高で活躍していた往時の文学青年で、国会釣クラブのリーダーとして活躍した政治家だ。
地元の詩人だった村井さんという友人と、当時金沢に住んでいた犀星《さいせい》の家へ呼ばれて行った時の話である。
犀星は目の前にコウバクガニを数匹並べて首をひねって曰《いわ》く、
「コウバコガニとはどう書くのかね」
「さあ」
「定まった漢字がないのなら、ひとつわれわれで字を考えようじゃないか」
というわけで三人で頭をひねった。カニの時期から言っても、冬だろう。沈思黙考、やがて村井青年が、
「日本海の香りを秘めたカニということで、香箱蟹というのはどうでしょう」
「うむ、香箱蟹か。なるほど」
犀星先生、何度か掌《てのひら》に字を書いてみて、
「君、箱はちょっとあれだ。香筐蟹とした方がいいじゃないか」
香筐蟹とは悪くない語感だ。紅白蟹より、こっちの方がいいと私も思う。もっとも、箱と、筐《はこ》のニュアンスの違いなど、当世では問題にならぬかも知れぬ。
香筐蟹か。
今年は能登《のと》のブリも、カニも、ひどく少ないそうだ。一匹千二百円のズワイガニが、話題になっていた。
「越中泥棒、加賀乞《こ》食《じき》、越前詐欺」
などという。それぞれの住民の気質を、いかにもうまく皮肉った文句だ。悪くとらずに、進取の気性に富んだ富山人、平和を愛する石川人、知的な福井人、というふうに考えればよい。たしかにそんなところはあるように思う。
だが、正月に聞いた言葉でちょっと凄《すご》いのがあった。
バニーガール風の網タイツをはいた女性がはべる店があって、そこの女の子が能登の出身だという。
「うちは能登や。こっちの人も」
と指さしながら、ふと、
「能登は優しや人殺し——」
と呟《つぶや》いた。
「なんだい、それは」
「そう言うがや」
「能登は優しや人殺し、か——」
表面は優しく、内には沈んだ殺意を秘めている能登人の気質を言うのだという。人間だけでなく、能登の自然もまたそのような優しさの中に、日本海の怖《おそ》ろしさを隠しているというのだ。
それは判《わか》るような気がする。おそらく、城下の金沢の街の人々は、能登の人々と自然に一種屈折した警戒心を抱《いだ》いていたのかも知れない。
「能登は優しや人殺し」
私はこの文句に、何かひどく惹《ひ》かれるものを覚えずにはいられない。
能登も半島である。半島には、独特のものが隠されているような気がする。何か凄味のある重いものがある。
朝鮮半島、スカンジナビア半島、イベリア半島、という具合に私は歩いて見た。今年はバルカン半島とアラビア半島を回ってみようと思っている。
能登は優しや、という言葉に私が思い出したのは、黄海道や、平安南道の山河であり、田園と家並みの優しさだった。私が幼年期を過した論山《ろんざん》という半島の町には、アカシアの花と、優しい弥《み》勒《ろく》菩《ぼ》薩《さつ》の記憶が、万歳《マンセイ》事件の時の話と共に残っている。
「勘定をたのむ」
「はい」
と、立ち上ったバニーガールが、しばしあって優しい微笑をたたえてもどって来た。
「たけえなあ」
「能登は優しや人殺し——」
そう呟いて網タイツの娘は、そっと私の手に公給領収書を握らせたのであった。
加賀百万石の正月風景、およそ右の如《ごと》し。
二日に、東京からのお客さんが現われる。こちらも退屈していたところなので、街へ出た。先日結婚したばかりの、私の大学の後輩に当る青年である。見上げるような長身の奥さんを伴って、香林坊の北国書林の地下で待っていた。
正月なので、タクシーが仲々つかまらない。歩いて雪の兼六園を一回りし、石川門をくぐって金沢大学の構内をのぞく。それから犀川《さいかわ》べりの道をぐるっと回って、卯《う》辰山《たつやま》に登り、雪に埋れた秋声の碑を眺《なが》めて望湖台へ上った。
北陸にはめずらしく晴れた日で、日本海が間近に迫って見えた。背後に真白なアルプスの山なみも光っている。
浅野川べりを迂《う》回《かい》して、東のくるわ《・・・》を歩く。昼間なのでどこも静かだ。お茶でも一杯ごちそうしてもらおうと、知合いのお茶屋をのぞいた。おかみが正月らしく改まった恰好《かっこう》で、挨拶《あいさつ》にくる。何が苦手といって、形式ばった挨拶ほど苦手なものはない。外地育ちの引揚少年だった私は、およそしつけ《・・・》というものを身につけずに三十五歳になってしまった。金沢弁で何やら言われても、受け答えのすべを知らず、
「やあ、どうも」
とか何とか口ごもりながら上衣《うわぎ》のボタンを掛けたり外《はず》したりするだけだ。
昼間なのでひまと見えて、日本髪にゆった女の人たちが何人もやって来る。長い裾《すそ》を引きずって、しきいの所で手をつくと、
「ながいこって」
「ながいこって」
裾の長い着物なので歩きにくい、とでも言ってるのだろうと考えていたら、そうではなかった。
「ながいこって」というのは、「おひさしぶりねえ」という土地の挨拶だという。何やら〈徳川の夫人たち〉のテレビでも見てるような具合で、落ち着かない。
年輩の姐《ねえ》さんが良い声で、知らない唄《うた》を歌う。
「その唄は何ですか」
と聞くと、
「そうやねえ、これは端《は》唄《うた》のようなもの」
「——ようなもの、というのは厳密に規定するとどういう事ですか」
「だんさん、唄は理屈やないがや。黙って聞きまっし」
「しかし——」
「はい、お茶」
新婚夫婦は屈託なく笑いながら、数の子をつついている。外で雨戸に当る雪の音がきこえる。さっきまで晴れていたのに、また降り出したらしい。
前におでん屋のカニの事を書いたら、いろいろ意見が出た。
コウバクガニというのはズワイガニ(越前《えちぜん》蟹《がに》)のメスである由《よし》。地元の人はコウバクとコウバコの中間のような発音をする。北国新聞の田中学芸部長に、
「コウバクガニというのは、どういう漢字を当てるんですか」
と聞いてみたが、はっきりしない。
「ううむ。あれはどう書くのかな」
腕組みして首をひねっただけだった。
この土地は昔から源平に縁の深い土地である。正月には子供たちが集まって、旗源平などという風流なお座敷遊びをする。私は紅白《コウバク》蟹《ガニ》と書いたが、源氏と平家の紅白の旗をカニの中身の紅白に当てたのではないかと考えていた。
その後、日本海側の魚については有数の権威者である岡良一氏から、こんな話を聞いた。岡氏は中野重治《しげはる》氏、窪川鶴《くぼかわつる》次《じ》郎《ろう》氏、森山啓氏などと共に四高で活躍していた往時の文学青年で、国会釣クラブのリーダーとして活躍した政治家だ。
地元の詩人だった村井さんという友人と、当時金沢に住んでいた犀星《さいせい》の家へ呼ばれて行った時の話である。
犀星は目の前にコウバクガニを数匹並べて首をひねって曰《いわ》く、
「コウバコガニとはどう書くのかね」
「さあ」
「定まった漢字がないのなら、ひとつわれわれで字を考えようじゃないか」
というわけで三人で頭をひねった。カニの時期から言っても、冬だろう。沈思黙考、やがて村井青年が、
「日本海の香りを秘めたカニということで、香箱蟹というのはどうでしょう」
「うむ、香箱蟹か。なるほど」
犀星先生、何度か掌《てのひら》に字を書いてみて、
「君、箱はちょっとあれだ。香筐蟹とした方がいいじゃないか」
香筐蟹とは悪くない語感だ。紅白蟹より、こっちの方がいいと私も思う。もっとも、箱と、筐《はこ》のニュアンスの違いなど、当世では問題にならぬかも知れぬ。
香筐蟹か。
今年は能登《のと》のブリも、カニも、ひどく少ないそうだ。一匹千二百円のズワイガニが、話題になっていた。
「越中泥棒、加賀乞《こ》食《じき》、越前詐欺」
などという。それぞれの住民の気質を、いかにもうまく皮肉った文句だ。悪くとらずに、進取の気性に富んだ富山人、平和を愛する石川人、知的な福井人、というふうに考えればよい。たしかにそんなところはあるように思う。
だが、正月に聞いた言葉でちょっと凄《すご》いのがあった。
バニーガール風の網タイツをはいた女性がはべる店があって、そこの女の子が能登の出身だという。
「うちは能登や。こっちの人も」
と指さしながら、ふと、
「能登は優しや人殺し——」
と呟《つぶや》いた。
「なんだい、それは」
「そう言うがや」
「能登は優しや人殺し、か——」
表面は優しく、内には沈んだ殺意を秘めている能登人の気質を言うのだという。人間だけでなく、能登の自然もまたそのような優しさの中に、日本海の怖《おそ》ろしさを隠しているというのだ。
それは判《わか》るような気がする。おそらく、城下の金沢の街の人々は、能登の人々と自然に一種屈折した警戒心を抱《いだ》いていたのかも知れない。
「能登は優しや人殺し」
私はこの文句に、何かひどく惹《ひ》かれるものを覚えずにはいられない。
能登も半島である。半島には、独特のものが隠されているような気がする。何か凄味のある重いものがある。
朝鮮半島、スカンジナビア半島、イベリア半島、という具合に私は歩いて見た。今年はバルカン半島とアラビア半島を回ってみようと思っている。
能登は優しや、という言葉に私が思い出したのは、黄海道や、平安南道の山河であり、田園と家並みの優しさだった。私が幼年期を過した論山《ろんざん》という半島の町には、アカシアの花と、優しい弥《み》勒《ろく》菩《ぼ》薩《さつ》の記憶が、万歳《マンセイ》事件の時の話と共に残っている。
「勘定をたのむ」
「はい」
と、立ち上ったバニーガールが、しばしあって優しい微笑をたたえてもどって来た。
「たけえなあ」
「能登は優しや人殺し——」
そう呟いて網タイツの娘は、そっと私の手に公給領収書を握らせたのであった。
加賀百万石の正月風景、およそ右の如《ごと》し。