フィンランドは、私に取って忘れ難い国である。フィンランド人は、自分たちの国を呼ぶ時に、〈スオミ〉と呼ぶ。フィンランドというよりは、スオミと書いた方が、私にもぴったり来る。——スオミとは、多くの湖の国、といった意味だと或《あ》る本に書いてあった。正確な語源については、私は知らない。だが、スオミという発音には、どことなくあの国の持っている独特の暗さ、重さ、そして抒情《じょじょう》の味と含羞《がんしゅう》のニュアンスがあって好ましい。
旅先で知り合った女性に、アイノ・コスチアイネンという娘さんがいた。お互いにたどたどしい片言の英語で、それぞれの国の事を語り合うのは面白かった。
「ぼくらの国にはアイヌという民族がいる」
と、私が喋《しゃべ》ってからは、彼女は冗談に自分の事をアイヌ・コスチアイネンと名乗るようになった。
アメリカやフランスの女に見られない、素朴な人柄と姿態は、私に原生のすくすくとのびた白樺《しらかば》の木を連想させた。
北欧の女は全部が全部、美人ばかりだと思っている人が少なくない。だが、それこそ偏見というものだろう。北欧で本当に憎らしいほど綺《き》麗《れい》なのは、スウェーデンの都会の娘たちだけだと私は思う。ノルウェーでは、それこそ、アッと驚くほどの不美人に街のいたる所で会った。デンマーク美人も、いわば健康美人が多い。近代の憂愁と、悪魔的な造型の美を感じさせるのは、やはり、イングリッド・バーグマン、グレタ・ガルボ、アン・マーグレットを産出したスウェーデンの女たちだ。
フィンランド娘は、決してスウェーデンの女性ほど、美しくはない。だが、私はスオミの娘たちが好きだった。スウェーデンの美女たちは、正《まさ》に白夜のニンフたち《・・・・・・・・》という言葉にふさわしい美しさを持っている。これに対して、スオミの娘らは、どこか意志的で、重く、暗い瞳《ひとみ》をしていた。それは単に造型的な問題ではなく、スオミという国の歴史的、社会的な一つの宿命(——私はこれを半島の宿命と呼んでいる)の翳《かげ》りにほかならないと思われる。
スオミの首都、へルシンキの事を、〈北の白都〉とか、〈バルト海の宝石〉だとか言ういい方がある。それは確かに、そのようなイメージをたたえた美しい街だ。
しかし、私が数年前の夏、レニングラードからやって来た日は、その街はひどく暗く、陰惨な感じがあった。冷たい小雨が終日降り続いて、駅にはユースホステルを追い出された渡り鳥旅行者たちが、ザックを抱《かか》えてふるえていたのを憶《おぼ》えている。
それは、北欧というファンタスティックな先入観とはひどく違ったものだった。
その後、スカンジナビア半島を回って、私はその時の第一印象が、ある意味ではスオミという国の、ある本質的な一面に触れていると思うようになった。
一口に北欧という。だが、スカンジナビア半島の四カ国は、それぞれ驚くほど違った国と民族の集まりである。
ただ、お国柄が違っているというだけではない。それぞれの国のあり方は、むしろ一種の対立と抗争の関係にあるように思われた。
NATOに加盟している国、ソ連と条約を結んでいる国、そしてどちらにも属しようとしない国がそこにはあった。
スオミは、決して豊かな社会福祉国家ではない。それは、ノルウェーのように漁業や、海運業の伝統も持たず、スウェーデンのように巨大な地下資源と近代工業の基盤もない。また、デンマークのような合理的な近代農業国家でもなかった。それは無数の小さな湖沼と、森林からなる暗い冷たい風土であり、人々は半年の長い暗夜を耐えて生きねばならない国だった。
スオミは、つい五十年前まで、帝政ロシアと、スウェーデン王国との二つの外国に支配されて来た国である。何百年もの間、戦火と圧制が、そして強国の兵士と権力が、ローラーをかけるように、その国の上を行ったり来たりした。
その長い冬の季節を通じて、スオミの人々は、その暗く、どこか激しい沈黙をかたちづくっていったものらしい。
北極に近い世界で二番目の国土の厳《きび》しい自然と、痩《や》せた土地が、スオミの人々の表情に更に深い内省と克己のひだをきざみ込んだのだろう。私がその街で見た男や、女の顔は、他の北欧人の顔つきとは全くことなっていたように思う。
スオミとソ連の国境地帯はカレリアと呼ばれる土地である。それはスオミの人間にとって、一種の魂の故郷といえる土地らしい。そこはもともとスオミの人々が、遠いアジアの果てから遠い旅を続けてやって来て、そこに定着し人間の生活を始めた。スオミ人の母なる土地だった。深い霧と、露呈した灰色の岩石と、無数の沼におおわれた暗い荒涼たる地帯である。
そのカレリアをめぐって、ロシアとの間に度々《たびたび》の争いが行われた。そして、第二次世界大戦にドイツと組んでソ連と戦い、それに敗れたスオミは、賠償としてカレリアの上地をソ連に割譲しなければならなかった。今でもカレリアは、スオミの人々にとって失われた土地なのである。世界的に有名な伝承詩〈カレワラ〉は、その土地からもたらされたものだった。
六月下旬、白夜の季節に、その街では、シベリウス祭という、お祭りがあった。世界の各国からオーケストラや合唱団などが集まって来て、コンサートホールでシベリウスの作品を演奏するのである。その国の生んだ作曲家、シベリウスに寄せるスオミの人々の愛情には、ただ音楽的な共感の範囲をこえた何かが感じられた。シベリウスの作品には、〈カレワフ〉に触発されて書かれたものが多くある。そして、彼のあの音楽に流れる情念の陰には、カレリアへの愛と、悲痛なスオミの宿命に対する重い激情が色濃く流れているのを感じ取る事が出来る。
私たちが、音楽的なスタイルや、官能として受けとめるものの背後には、どんな場合にもそんな何かがひそんでいるのだろう。その〈何か〉とはなんだろう、と、私は小雨の降る緑のシベリウス公園の遊歩道を歩きながら考えていた。
私はその時の感想を、〈霧のカレリア〉という作品の中に描いてみようと試みたことがある。小説としては、主観的な感慨が先に立って、いささかバランスを欠いた作品になったような気がしないでもない。だが、私にとっては、それは忘れ難い作品の一つだ。
オーマンディの指揮するフィラデルフィア管弦楽団の〈トゥオネラの白鳥〉や、〈フィンランディア〉は、私には、いささか明快すぎるような気がする。スオミの国土と人々の持つ、あの重いどろどろしたコンプレックスが、爽《さわ》やかな音の流れの中からどこか脱け落ちているような気がするのだ。
シベリウスを聞くたびに、私は強国に隣接した小国の悲劇性といったようなものを感ぜずにはいられない。
音楽をそんな風に聞くのは正しくない、純枠に芸術的な感興を音として楽しむべきだ、とある友人に言われた。しかし、私は必ずしもそうとは思わない。
芸術的であることが、深く人間的であるということならば、民族の運命と音楽は、必ずどこかで生《なま》の形でつながっていると思うからである。それは、私たちの国のクラシック音楽にも、ジャズにも、グループ・サウンズにも、そして、艶《えん》歌《か》の嘆き節の中にもあるはずだ。最初にもどって言えば、その国の運命は、その国の娘たちの顔にも反映しているといえるだろう。
ところで、私たちの国の娘たちは、スオミの国の女たちより、美しいか、美しくないか。これから、じっくりと彼女らの顔の中に、日本の運命をさぐってみようと思うのだ。
旅先で知り合った女性に、アイノ・コスチアイネンという娘さんがいた。お互いにたどたどしい片言の英語で、それぞれの国の事を語り合うのは面白かった。
「ぼくらの国にはアイヌという民族がいる」
と、私が喋《しゃべ》ってからは、彼女は冗談に自分の事をアイヌ・コスチアイネンと名乗るようになった。
アメリカやフランスの女に見られない、素朴な人柄と姿態は、私に原生のすくすくとのびた白樺《しらかば》の木を連想させた。
北欧の女は全部が全部、美人ばかりだと思っている人が少なくない。だが、それこそ偏見というものだろう。北欧で本当に憎らしいほど綺《き》麗《れい》なのは、スウェーデンの都会の娘たちだけだと私は思う。ノルウェーでは、それこそ、アッと驚くほどの不美人に街のいたる所で会った。デンマーク美人も、いわば健康美人が多い。近代の憂愁と、悪魔的な造型の美を感じさせるのは、やはり、イングリッド・バーグマン、グレタ・ガルボ、アン・マーグレットを産出したスウェーデンの女たちだ。
フィンランド娘は、決してスウェーデンの女性ほど、美しくはない。だが、私はスオミの娘たちが好きだった。スウェーデンの美女たちは、正《まさ》に白夜のニンフたち《・・・・・・・・》という言葉にふさわしい美しさを持っている。これに対して、スオミの娘らは、どこか意志的で、重く、暗い瞳《ひとみ》をしていた。それは単に造型的な問題ではなく、スオミという国の歴史的、社会的な一つの宿命(——私はこれを半島の宿命と呼んでいる)の翳《かげ》りにほかならないと思われる。
スオミの首都、へルシンキの事を、〈北の白都〉とか、〈バルト海の宝石〉だとか言ういい方がある。それは確かに、そのようなイメージをたたえた美しい街だ。
しかし、私が数年前の夏、レニングラードからやって来た日は、その街はひどく暗く、陰惨な感じがあった。冷たい小雨が終日降り続いて、駅にはユースホステルを追い出された渡り鳥旅行者たちが、ザックを抱《かか》えてふるえていたのを憶《おぼ》えている。
それは、北欧というファンタスティックな先入観とはひどく違ったものだった。
その後、スカンジナビア半島を回って、私はその時の第一印象が、ある意味ではスオミという国の、ある本質的な一面に触れていると思うようになった。
一口に北欧という。だが、スカンジナビア半島の四カ国は、それぞれ驚くほど違った国と民族の集まりである。
ただ、お国柄が違っているというだけではない。それぞれの国のあり方は、むしろ一種の対立と抗争の関係にあるように思われた。
NATOに加盟している国、ソ連と条約を結んでいる国、そしてどちらにも属しようとしない国がそこにはあった。
スオミは、決して豊かな社会福祉国家ではない。それは、ノルウェーのように漁業や、海運業の伝統も持たず、スウェーデンのように巨大な地下資源と近代工業の基盤もない。また、デンマークのような合理的な近代農業国家でもなかった。それは無数の小さな湖沼と、森林からなる暗い冷たい風土であり、人々は半年の長い暗夜を耐えて生きねばならない国だった。
スオミは、つい五十年前まで、帝政ロシアと、スウェーデン王国との二つの外国に支配されて来た国である。何百年もの間、戦火と圧制が、そして強国の兵士と権力が、ローラーをかけるように、その国の上を行ったり来たりした。
その長い冬の季節を通じて、スオミの人々は、その暗く、どこか激しい沈黙をかたちづくっていったものらしい。
北極に近い世界で二番目の国土の厳《きび》しい自然と、痩《や》せた土地が、スオミの人々の表情に更に深い内省と克己のひだをきざみ込んだのだろう。私がその街で見た男や、女の顔は、他の北欧人の顔つきとは全くことなっていたように思う。
スオミとソ連の国境地帯はカレリアと呼ばれる土地である。それはスオミの人間にとって、一種の魂の故郷といえる土地らしい。そこはもともとスオミの人々が、遠いアジアの果てから遠い旅を続けてやって来て、そこに定着し人間の生活を始めた。スオミ人の母なる土地だった。深い霧と、露呈した灰色の岩石と、無数の沼におおわれた暗い荒涼たる地帯である。
そのカレリアをめぐって、ロシアとの間に度々《たびたび》の争いが行われた。そして、第二次世界大戦にドイツと組んでソ連と戦い、それに敗れたスオミは、賠償としてカレリアの上地をソ連に割譲しなければならなかった。今でもカレリアは、スオミの人々にとって失われた土地なのである。世界的に有名な伝承詩〈カレワラ〉は、その土地からもたらされたものだった。
六月下旬、白夜の季節に、その街では、シベリウス祭という、お祭りがあった。世界の各国からオーケストラや合唱団などが集まって来て、コンサートホールでシベリウスの作品を演奏するのである。その国の生んだ作曲家、シベリウスに寄せるスオミの人々の愛情には、ただ音楽的な共感の範囲をこえた何かが感じられた。シベリウスの作品には、〈カレワフ〉に触発されて書かれたものが多くある。そして、彼のあの音楽に流れる情念の陰には、カレリアへの愛と、悲痛なスオミの宿命に対する重い激情が色濃く流れているのを感じ取る事が出来る。
私たちが、音楽的なスタイルや、官能として受けとめるものの背後には、どんな場合にもそんな何かがひそんでいるのだろう。その〈何か〉とはなんだろう、と、私は小雨の降る緑のシベリウス公園の遊歩道を歩きながら考えていた。
私はその時の感想を、〈霧のカレリア〉という作品の中に描いてみようと試みたことがある。小説としては、主観的な感慨が先に立って、いささかバランスを欠いた作品になったような気がしないでもない。だが、私にとっては、それは忘れ難い作品の一つだ。
オーマンディの指揮するフィラデルフィア管弦楽団の〈トゥオネラの白鳥〉や、〈フィンランディア〉は、私には、いささか明快すぎるような気がする。スオミの国土と人々の持つ、あの重いどろどろしたコンプレックスが、爽《さわ》やかな音の流れの中からどこか脱け落ちているような気がするのだ。
シベリウスを聞くたびに、私は強国に隣接した小国の悲劇性といったようなものを感ぜずにはいられない。
音楽をそんな風に聞くのは正しくない、純枠に芸術的な感興を音として楽しむべきだ、とある友人に言われた。しかし、私は必ずしもそうとは思わない。
芸術的であることが、深く人間的であるということならば、民族の運命と音楽は、必ずどこかで生《なま》の形でつながっていると思うからである。それは、私たちの国のクラシック音楽にも、ジャズにも、グループ・サウンズにも、そして、艶《えん》歌《か》の嘆き節の中にもあるはずだ。最初にもどって言えば、その国の運命は、その国の娘たちの顔にも反映しているといえるだろう。
ところで、私たちの国の娘たちは、スオミの国の女たちより、美しいか、美しくないか。これから、じっくりと彼女らの顔の中に、日本の運命をさぐってみようと思うのだ。