東京へ出てくると、ホテルへ泊る。前もって早目に予約しておけばいいのだが、仲々そうはいかないものだ。
ホテルというやつは妙に官僚的なところがあって、日本ではことにそうだ。
シングルの部屋が空《あ》いていない時には、仕方がないのでツインの部屋に入れられる。こんな時、外国ではシングル料金か、又は、割引になる場合が多い。日本ではそうではない。正規のツインの料金を取られてしまうから辛《つら》い。サービス料、税込みで約六千金。
辛いのは金の面だけではない。仕事とはいえ、春宵、独《ひと》りで広い部屋にぼんやり坐っているのは馬鹿馬鹿しいような気がしてくる。隣りに真白なベッドが空いている。勿体《もったい》ないと思うのが男だ。あのベッドには料金が払ってあると考えればなおさら腹が立ってくる。仕方がないので、深夜、ベッドの上に立ち上り、パンツ一枚のあられもない姿で、エイヤッ! とターザンの如き奇声をあげ、ぼいーん、とこっちから空いたベッドへダイビングをするのである。
スプリングがきいていると、落下してまた跳《は》ね上る場合もある。今度は逆に向うのベッドへ、ぼいーん。出来るだけ高く飛び上ってベッドへ落ちれば、バネがキーンとなる音が耳にひびく。エアコンディショナーの非人間的な唸《うな》り。窓外の東京タワーの灯。ぼいーん。ぼいーん、である。
汗をかいて空中を飛行するパンツ一枚の男。一六七センチ、五十五キロ。職業、小説家。ぼいーん。
こういうのをよしなしごと、という。書きつづれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
ツインの部屋でも空いている時はいい。今日は、東京中のホテルから断わられた。いつも顔見知りのフロント氏が、気の毒そうに、
「この一、二週間は全く駄目なんでございます。本当に相済みません」
「ダブルでもいいんですが」
「それもないんでございます。申し訳ない」
「国際的な会議でもあるんですか。それとも万博か何か——」
「万博はまだ先でございます」
「観光シーズンには早いし——」
「いえそれが——」
と、クローク氏も、ふっと言いよどんで苦笑しながら、
「受験シーズンなんでございます……」
「…………」
とっさに私はわからなかった。それを見てとって、彼曰《いわ》く、
「地方から大学受験の高校生のお客様で都内中のホテルがふさがりました」
「なるほど——」
しかし、げせないところもある。
「受験生でねえ。だけど、受験生がダブルやツインというのは、どういうんです。まさかクラスメイトの女友達と一緒なんて事じゃないでしょう」
「ええ、お母さまと御一緒の方や、ごきょうだいと御一緒の方も多いもんですから」
なるほど、小生は地方に住んでいて都会の事情にうといと自己批判した次第だ。ダブルの部屋にお母様と受験生が一緒にお泊りになって、深夜はげましあってるの図なんてものは、まず珍なる風景と申せましょう。独り、ぼいーん、なんてのは時代おくれなのである。
ひるがえって私たちの受験の頃は、と考える。
この発想が、まずいけないと再度自己批判した。自分の若い時代をふり返って、現在を批判するのはステレオタイプだ。現在は現在、過去は過去、と、バーのホステスがヒモ氏に説教してるのに出会った事がある。
「おれたちの若い頃はこうだった」
などというのはナンセンスだ。私などは九州の高校だが、雨の日は、往復二里以上の道を裸足《はだし》で歩くのが当然だと思っていた。天気のいい日は、タカボクリという厚歯の下駄で通った。だから今の高校生に、ハダシになれなどとは言えない。
だが個人的な感慨というやつは、憲法で保証されている個人の自由だ。個人的感慨を言えば、大東京を見おろすマンモスホテルのダブルの部屋に泊るような受験生たちを、私は嫌《きら》いだ。
ホテルが結局安上りだという説もある。だが、合理、非合理は別として、好きではない。これは個人的感慨であり、私の勝手である。
日本には本当の市民のためのホテルがないと私はかねてから文句を言って来た。今の日本なら、一泊二千円以下の部屋のホテルが、東京には無数にあってしかるべきだ。原稿を書いたり、仮眠を取ったりするためなら、一坪の部屋で充分だ。しかるに現在、私の部屋はドアの入口の所から奥の机の所まで歩いているうちに日が暮れるかと心配になる。
受験生たちがどこに泊ろうが、勝手だが、恐らく東京の大学へ息子《むすこ》をやるために、入学金を、恩給証書を高利貸に渡して工面し、友人縁者の間を恥をしのんで金を借り歩いた親がないとはいえないのではないか。国立であろうと私立であろうと、東京へ出て来て受験のためには相当の金はかかるはずだ。私は思う。どんな受験生が私は好きか。
それは数枚の一万円札を用意するために、見栄《みえ》も恥も捨てて駆け回った父親の涙を知っていて、あえて上昇志向を心に抱《いだ》き大学へ進もうとする青年であり、自分が家庭を犠牲にし、兄弟の前途をふさいで、彼らの絶望の上に自分の希望を打ち立てようとしている事を痛いほど知っている高校生が好きだ。
九州出身者なら、九州から鈍行を乗りつぎ、参考書を枕に通路でごろ寝しつつ悠々《ゆうゆう》上京してくるような受験生が好きだ。東京の宿が高いと思えば、新宿あたりのフーテンと共に街に眠ってデパートの便所を使い、大学の池で顔を洗って試験場へのぞむような高校生が好きだ。場合によったら、ジャズ喫茶か何かで金持の遊び人女子学生でも引っかけ、相手の車でも貸してもらって、その中で寝るような若者が好きだ。新宿旭町《あさひちょう》付近でも、どこでも一泊二百円のベッドハウスぐらいびくともしない受験生が好きだ。
そんな事を先日、喋《しゃべ》ったら、一人の学生が、
「おれは山《さん》谷《や》あたりのベッドハウスで原稿を書く作家が好きだ」
と言った。なるほど、ツインの部屋に一人で泊って、空中飛行などしている作家が、他人の事を好きの嫌いのと、言えた義理ではない。もうやめよう。おれはおれ、彼らは彼らである。自分は若者を理解する、青年に関心がある、彼らの世代を支持する、などと言う中年男や老人は私も嫌いだ。世代とは他の世代に対する敵対者である。われわれは芽むしり仔《こ》撃ち、他の上下の世代を食い殺すべきであり、若い世代は、われわれ昭和ヒトケタ派を打倒し、追放するためにがんばらねばならぬ。ゆめ仲良くすべきではあるまい。私の高校時代に、最も思い出深いのは、校舎の裏で決闘を行なって勝敗決せざる不良少年の一人であった。仲の良かった友達の事などもう忘れてしまっている。人生とはそんなものだ。
疲れて深夜、ホテルのスナックへ行ったら女子高校生らしい二、三人が、受験参考書を椅子において煙草をふかしながら、ジンリッキーなどを召し上っているのにぶつかった。
あれも青春、これも青春。
春宵一刻価六千金。ダブルの部屋で共に進学の夢安らかな母子もあろうし、空を飛ぶ作家も、ジンリッキーで目元を染めた女子高校生もある。人生はまことにさまざまだ。
ホテルというやつは妙に官僚的なところがあって、日本ではことにそうだ。
シングルの部屋が空《あ》いていない時には、仕方がないのでツインの部屋に入れられる。こんな時、外国ではシングル料金か、又は、割引になる場合が多い。日本ではそうではない。正規のツインの料金を取られてしまうから辛《つら》い。サービス料、税込みで約六千金。
辛いのは金の面だけではない。仕事とはいえ、春宵、独《ひと》りで広い部屋にぼんやり坐っているのは馬鹿馬鹿しいような気がしてくる。隣りに真白なベッドが空いている。勿体《もったい》ないと思うのが男だ。あのベッドには料金が払ってあると考えればなおさら腹が立ってくる。仕方がないので、深夜、ベッドの上に立ち上り、パンツ一枚のあられもない姿で、エイヤッ! とターザンの如き奇声をあげ、ぼいーん、とこっちから空いたベッドへダイビングをするのである。
スプリングがきいていると、落下してまた跳《は》ね上る場合もある。今度は逆に向うのベッドへ、ぼいーん。出来るだけ高く飛び上ってベッドへ落ちれば、バネがキーンとなる音が耳にひびく。エアコンディショナーの非人間的な唸《うな》り。窓外の東京タワーの灯。ぼいーん。ぼいーん、である。
汗をかいて空中を飛行するパンツ一枚の男。一六七センチ、五十五キロ。職業、小説家。ぼいーん。
こういうのをよしなしごと、という。書きつづれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
ツインの部屋でも空いている時はいい。今日は、東京中のホテルから断わられた。いつも顔見知りのフロント氏が、気の毒そうに、
「この一、二週間は全く駄目なんでございます。本当に相済みません」
「ダブルでもいいんですが」
「それもないんでございます。申し訳ない」
「国際的な会議でもあるんですか。それとも万博か何か——」
「万博はまだ先でございます」
「観光シーズンには早いし——」
「いえそれが——」
と、クローク氏も、ふっと言いよどんで苦笑しながら、
「受験シーズンなんでございます……」
「…………」
とっさに私はわからなかった。それを見てとって、彼曰《いわ》く、
「地方から大学受験の高校生のお客様で都内中のホテルがふさがりました」
「なるほど——」
しかし、げせないところもある。
「受験生でねえ。だけど、受験生がダブルやツインというのは、どういうんです。まさかクラスメイトの女友達と一緒なんて事じゃないでしょう」
「ええ、お母さまと御一緒の方や、ごきょうだいと御一緒の方も多いもんですから」
なるほど、小生は地方に住んでいて都会の事情にうといと自己批判した次第だ。ダブルの部屋にお母様と受験生が一緒にお泊りになって、深夜はげましあってるの図なんてものは、まず珍なる風景と申せましょう。独り、ぼいーん、なんてのは時代おくれなのである。
ひるがえって私たちの受験の頃は、と考える。
この発想が、まずいけないと再度自己批判した。自分の若い時代をふり返って、現在を批判するのはステレオタイプだ。現在は現在、過去は過去、と、バーのホステスがヒモ氏に説教してるのに出会った事がある。
「おれたちの若い頃はこうだった」
などというのはナンセンスだ。私などは九州の高校だが、雨の日は、往復二里以上の道を裸足《はだし》で歩くのが当然だと思っていた。天気のいい日は、タカボクリという厚歯の下駄で通った。だから今の高校生に、ハダシになれなどとは言えない。
だが個人的な感慨というやつは、憲法で保証されている個人の自由だ。個人的感慨を言えば、大東京を見おろすマンモスホテルのダブルの部屋に泊るような受験生たちを、私は嫌《きら》いだ。
ホテルが結局安上りだという説もある。だが、合理、非合理は別として、好きではない。これは個人的感慨であり、私の勝手である。
日本には本当の市民のためのホテルがないと私はかねてから文句を言って来た。今の日本なら、一泊二千円以下の部屋のホテルが、東京には無数にあってしかるべきだ。原稿を書いたり、仮眠を取ったりするためなら、一坪の部屋で充分だ。しかるに現在、私の部屋はドアの入口の所から奥の机の所まで歩いているうちに日が暮れるかと心配になる。
受験生たちがどこに泊ろうが、勝手だが、恐らく東京の大学へ息子《むすこ》をやるために、入学金を、恩給証書を高利貸に渡して工面し、友人縁者の間を恥をしのんで金を借り歩いた親がないとはいえないのではないか。国立であろうと私立であろうと、東京へ出て来て受験のためには相当の金はかかるはずだ。私は思う。どんな受験生が私は好きか。
それは数枚の一万円札を用意するために、見栄《みえ》も恥も捨てて駆け回った父親の涙を知っていて、あえて上昇志向を心に抱《いだ》き大学へ進もうとする青年であり、自分が家庭を犠牲にし、兄弟の前途をふさいで、彼らの絶望の上に自分の希望を打ち立てようとしている事を痛いほど知っている高校生が好きだ。
九州出身者なら、九州から鈍行を乗りつぎ、参考書を枕に通路でごろ寝しつつ悠々《ゆうゆう》上京してくるような受験生が好きだ。東京の宿が高いと思えば、新宿あたりのフーテンと共に街に眠ってデパートの便所を使い、大学の池で顔を洗って試験場へのぞむような高校生が好きだ。場合によったら、ジャズ喫茶か何かで金持の遊び人女子学生でも引っかけ、相手の車でも貸してもらって、その中で寝るような若者が好きだ。新宿旭町《あさひちょう》付近でも、どこでも一泊二百円のベッドハウスぐらいびくともしない受験生が好きだ。
そんな事を先日、喋《しゃべ》ったら、一人の学生が、
「おれは山《さん》谷《や》あたりのベッドハウスで原稿を書く作家が好きだ」
と言った。なるほど、ツインの部屋に一人で泊って、空中飛行などしている作家が、他人の事を好きの嫌いのと、言えた義理ではない。もうやめよう。おれはおれ、彼らは彼らである。自分は若者を理解する、青年に関心がある、彼らの世代を支持する、などと言う中年男や老人は私も嫌いだ。世代とは他の世代に対する敵対者である。われわれは芽むしり仔《こ》撃ち、他の上下の世代を食い殺すべきであり、若い世代は、われわれ昭和ヒトケタ派を打倒し、追放するためにがんばらねばならぬ。ゆめ仲良くすべきではあるまい。私の高校時代に、最も思い出深いのは、校舎の裏で決闘を行なって勝敗決せざる不良少年の一人であった。仲の良かった友達の事などもう忘れてしまっている。人生とはそんなものだ。
疲れて深夜、ホテルのスナックへ行ったら女子高校生らしい二、三人が、受験参考書を椅子において煙草をふかしながら、ジンリッキーなどを召し上っているのにぶつかった。
あれも青春、これも青春。
春宵一刻価六千金。ダブルの部屋で共に進学の夢安らかな母子もあろうし、空を飛ぶ作家も、ジンリッキーで目元を染めた女子高校生もある。人生はまことにさまざまだ。