野球の事を書こうと思う。自慢の出来るような球歴は全くないが、野球は好きだった。だった、というのは、最近、野球が余り面白くなくなって来たからである。
私がはじめてグラブを持ったのは、半島から九州に引揚げて来て二年ほどたった頃だった。
当時、私の住んでいた地方では、少年野球という奴《やつ》が全盛期で、私もその一員に参加したわけである。
アメリカから何とか言う神父がやって来て、
「野球をやる少年に不良はいない」
などと無責任な事を言っていた時代である。
だが、その宣教師の言葉が嘘《うそ》である事は、私たち少年の全員が知っていた、と思う。私たちは、その神父の白々しい言葉に激しい恥ずかしさを覚えずにはいられなかった。
なぜならば、私たちの周囲で野球のリーダーたちは、ほとんど不良であるか、または不良がかった少年ばかりだったからだ。こんな事を書くと、おれは不良じゃない野球少年だった、と抗議が出るかも知れない。それは確かに真面目《まじめ》な野球少年や、野球部員も少なくなかっただろう。しかし、野球の花形選手やボスが、少年達の日常でも、やはりボスである場合が多かった事は否定出来まい。
最初、私は皮のグラブを買う事が出来なかった。そこで、私は頭をひねって、軍用のキャンバスを大きな掌《てのひら》の形に切り、それをぬいぐるみにして布製の自家用グラブを作りあげた。形こそ悪かったが、それで結構キャッチボールの役には立った。
夕暮れの山際《やまぎわ》の平地で、バシッ、バシッと掌にボールの衝撃を感じながらキャッチボールをするのは、爽《さわ》やかな気分だった。当時、野球とアメリカと民主主義は、三《さん》位《み》一体《いったい》のごとき印象で私たちの周囲に充満していた。
やがて、村内の少年野球大会に左翼手として出場した私は、決勝の一点を相手方に献ずる大失策をやらかし、自分の才能にかすかな疑問を抱《いだ》く事になった。当時の少年野球では、声を出す、というのが一つの熱意の証拠であり、特に外野手は守備についている間中、何か怒鳴り続けなければならない。私はそれが苦手だった。そこで、投手の練習をはじめた。
高校に入ると、野球部員と、他のアマチュアとの間に一線が引かれる。最初の年、クラス対抗で投手としてデビューした私は、間もなく下手投げの変則投法がわざわいして肩をいため、毎回ノックアウトを食ってメンバーから外《はず》される事となった。それが野球との別れだった。だが、あのピシッと掌に吸いつくボールの感触、ストライクを見《み》逃《のが》した際の苦い後悔、走者としてセカンドをうかがう心のふるえ、などは、永く私の記憶に残った。
早稲田にはいって、バイトの間に神宮に通った。当時は、広岡、小森、荒川、沼沢、岩本、石井、宮崎、などという選手が早稲田におり、ひどく彼らは大人《おとな》だったような印象が深い。立教の小島、慶応の多胡《たこ》、山本などという選手が活躍した時期で、秋山、土井、近藤など明治勢力も人気を集めていた頃だ。小柄なセカンド宮崎が卒業の年の早慶戦で大活躍したり、なにせ面白い時代だった。
私の関心はやがてプロ野球に移った。以前、西日本パイレーツといった時代からの西鉄ファンだった私は、長い間、西鉄を応援し続けてきた。考えてみると、当時は西鉄の全盛時代であり、早稲田、西鉄とも、景気のいい側だけを私は好きになってきたような気もする。弱小球団に肩入れするのが本当のファンかも知れないが、私は弱い早稲田チームなどというものに関心はなかった。
やがて、いつの間にかプロ野球にも飽きて来た。といっても、代りに高校野球を見ようという気もおきなかった。
いつの間にか、野球が遠いところへ行ってしまったような気がしていた。
先日、ある男性週刊誌の編集長から、近頃の若い読者が、野球にほとんど関心がなくなったらしい、という話を聞いた。
「野球ってのはカッコわるーい、と言うんです、連中は」
と、その人は言った。
「なぜでしょうね」
私はその時、こんな説明をした。
「今の三十代の男までは、誰でも一度はキャッチボールをやった事があるでしょう。あれが最近はなくなったからじゃないでしょうか」
私は野球を見ながら、自分の記憶の中から一つの追体験を行なっていると思う事があった。つまり、選手の一挙手一投足に、自分の過去を重ねて共にプレイしていると感じる事がある。ライナーを横っ飛びに捕球する野手の掌にピシッと来る衝撃を私は自分のものとしてスタンドで味わっているのである。バッターボックスに立った時の不安と動揺、強打者に対面した時の投手の心境、外野でぼんやりと打球をみつめる孤独感、そのようなものが、私たち観客の側に重ね合わされた体験として感じられる時、はじめて野球はひとつの主体的な行為となるのだろう。
「だから、スタンドでぼくらは単に見てるだけじゃない。感覚的にゲームに参加してるんです。だから野球は面白いんでしょう」
「そうですね」
と、相手は言った。
「そういえば、ぼくも少年時代に野球らしきものをやった事がある。ほとんどの少年は戦後の一時期、キャッチボール位はやったはずだ。だけど、今の若い連中はそうじゃない」
「アメリカと民主主義と野球ですよ」
と、私は言った。
「この三つがきり離し難く結びついていた時代にぼくらは少年期を過した。だから野球が面白いんだ。しかし今は——」
「一度もボールを握った事のない青年が多くなって来ましたね」
「そこでは、野球は完全な見るだけのスポーツショウになる。だからつまらないんでしょう」
「じゃあ、今の若いもん全員にキャッチボールをやらせりゃいいわけですな」
「さあ」
野球の将来について、私は何とも言えない。だが、次第次第に少年たちが自由にキャッチボールをする場所が少なくなって来たような気がする。勿論《もちろん》、高校野球や大学の野球も盛大に続くだろう。だが、昔のように、少年皆野球といった風潮はなくなり、野球部に入って専門的に野球をやる少年と、そうでない全くボールをにぎった事のない少年とのグループが、はっきり分れてくるのではないか、という気がする。
大学へ進んてエリートになる連中は、専門的に勉強する。野球をやる少年は、部にはいって専門として野球をやる。そんな時代になって来たのではないか。
戦後の一時期はそうではなかった。優等生も、不良も、好きな少年は誰もが野球をやった。その機会があり、その場所があった。
今はそうではない。野球の観客がへるというのは、野球をやる人間がへったということではないか。ただ見るだけのゲームなら、野球よりも更にスピードがあり、ドラマチックなゲームがあるかも知れない。野球は私たちにとって、単なるゲーム、またはスポーツではなかった。それは、戦後、という時代そのものではなかったか。
男性週刊誌の若い読者が、野球記事に関心を持たないというのは、一つの時代が終ったというような感慨がある。野球が終ったというのではない。私たち当時の少年たちを捕えた、あの時代そのものが終ったといえるかも知れない。
スポーツに政治や社会の影を見るのは邪道だろう。だが、そういうものと切り離したスポーツや芸術があると思うのも、また錯覚だ。今の少年たちは、果して何を自分たちの時代のスポーツとして選び取るであろうか。
私がはじめてグラブを持ったのは、半島から九州に引揚げて来て二年ほどたった頃だった。
当時、私の住んでいた地方では、少年野球という奴《やつ》が全盛期で、私もその一員に参加したわけである。
アメリカから何とか言う神父がやって来て、
「野球をやる少年に不良はいない」
などと無責任な事を言っていた時代である。
だが、その宣教師の言葉が嘘《うそ》である事は、私たち少年の全員が知っていた、と思う。私たちは、その神父の白々しい言葉に激しい恥ずかしさを覚えずにはいられなかった。
なぜならば、私たちの周囲で野球のリーダーたちは、ほとんど不良であるか、または不良がかった少年ばかりだったからだ。こんな事を書くと、おれは不良じゃない野球少年だった、と抗議が出るかも知れない。それは確かに真面目《まじめ》な野球少年や、野球部員も少なくなかっただろう。しかし、野球の花形選手やボスが、少年達の日常でも、やはりボスである場合が多かった事は否定出来まい。
最初、私は皮のグラブを買う事が出来なかった。そこで、私は頭をひねって、軍用のキャンバスを大きな掌《てのひら》の形に切り、それをぬいぐるみにして布製の自家用グラブを作りあげた。形こそ悪かったが、それで結構キャッチボールの役には立った。
夕暮れの山際《やまぎわ》の平地で、バシッ、バシッと掌にボールの衝撃を感じながらキャッチボールをするのは、爽《さわ》やかな気分だった。当時、野球とアメリカと民主主義は、三《さん》位《み》一体《いったい》のごとき印象で私たちの周囲に充満していた。
やがて、村内の少年野球大会に左翼手として出場した私は、決勝の一点を相手方に献ずる大失策をやらかし、自分の才能にかすかな疑問を抱《いだ》く事になった。当時の少年野球では、声を出す、というのが一つの熱意の証拠であり、特に外野手は守備についている間中、何か怒鳴り続けなければならない。私はそれが苦手だった。そこで、投手の練習をはじめた。
高校に入ると、野球部員と、他のアマチュアとの間に一線が引かれる。最初の年、クラス対抗で投手としてデビューした私は、間もなく下手投げの変則投法がわざわいして肩をいため、毎回ノックアウトを食ってメンバーから外《はず》される事となった。それが野球との別れだった。だが、あのピシッと掌に吸いつくボールの感触、ストライクを見《み》逃《のが》した際の苦い後悔、走者としてセカンドをうかがう心のふるえ、などは、永く私の記憶に残った。
早稲田にはいって、バイトの間に神宮に通った。当時は、広岡、小森、荒川、沼沢、岩本、石井、宮崎、などという選手が早稲田におり、ひどく彼らは大人《おとな》だったような印象が深い。立教の小島、慶応の多胡《たこ》、山本などという選手が活躍した時期で、秋山、土井、近藤など明治勢力も人気を集めていた頃だ。小柄なセカンド宮崎が卒業の年の早慶戦で大活躍したり、なにせ面白い時代だった。
私の関心はやがてプロ野球に移った。以前、西日本パイレーツといった時代からの西鉄ファンだった私は、長い間、西鉄を応援し続けてきた。考えてみると、当時は西鉄の全盛時代であり、早稲田、西鉄とも、景気のいい側だけを私は好きになってきたような気もする。弱小球団に肩入れするのが本当のファンかも知れないが、私は弱い早稲田チームなどというものに関心はなかった。
やがて、いつの間にかプロ野球にも飽きて来た。といっても、代りに高校野球を見ようという気もおきなかった。
いつの間にか、野球が遠いところへ行ってしまったような気がしていた。
先日、ある男性週刊誌の編集長から、近頃の若い読者が、野球にほとんど関心がなくなったらしい、という話を聞いた。
「野球ってのはカッコわるーい、と言うんです、連中は」
と、その人は言った。
「なぜでしょうね」
私はその時、こんな説明をした。
「今の三十代の男までは、誰でも一度はキャッチボールをやった事があるでしょう。あれが最近はなくなったからじゃないでしょうか」
私は野球を見ながら、自分の記憶の中から一つの追体験を行なっていると思う事があった。つまり、選手の一挙手一投足に、自分の過去を重ねて共にプレイしていると感じる事がある。ライナーを横っ飛びに捕球する野手の掌にピシッと来る衝撃を私は自分のものとしてスタンドで味わっているのである。バッターボックスに立った時の不安と動揺、強打者に対面した時の投手の心境、外野でぼんやりと打球をみつめる孤独感、そのようなものが、私たち観客の側に重ね合わされた体験として感じられる時、はじめて野球はひとつの主体的な行為となるのだろう。
「だから、スタンドでぼくらは単に見てるだけじゃない。感覚的にゲームに参加してるんです。だから野球は面白いんでしょう」
「そうですね」
と、相手は言った。
「そういえば、ぼくも少年時代に野球らしきものをやった事がある。ほとんどの少年は戦後の一時期、キャッチボール位はやったはずだ。だけど、今の若い連中はそうじゃない」
「アメリカと民主主義と野球ですよ」
と、私は言った。
「この三つがきり離し難く結びついていた時代にぼくらは少年期を過した。だから野球が面白いんだ。しかし今は——」
「一度もボールを握った事のない青年が多くなって来ましたね」
「そこでは、野球は完全な見るだけのスポーツショウになる。だからつまらないんでしょう」
「じゃあ、今の若いもん全員にキャッチボールをやらせりゃいいわけですな」
「さあ」
野球の将来について、私は何とも言えない。だが、次第次第に少年たちが自由にキャッチボールをする場所が少なくなって来たような気がする。勿論《もちろん》、高校野球や大学の野球も盛大に続くだろう。だが、昔のように、少年皆野球といった風潮はなくなり、野球部に入って専門的に野球をやる少年と、そうでない全くボールをにぎった事のない少年とのグループが、はっきり分れてくるのではないか、という気がする。
大学へ進んてエリートになる連中は、専門的に勉強する。野球をやる少年は、部にはいって専門として野球をやる。そんな時代になって来たのではないか。
戦後の一時期はそうではなかった。優等生も、不良も、好きな少年は誰もが野球をやった。その機会があり、その場所があった。
今はそうではない。野球の観客がへるというのは、野球をやる人間がへったということではないか。ただ見るだけのゲームなら、野球よりも更にスピードがあり、ドラマチックなゲームがあるかも知れない。野球は私たちにとって、単なるゲーム、またはスポーツではなかった。それは、戦後、という時代そのものではなかったか。
男性週刊誌の若い読者が、野球記事に関心を持たないというのは、一つの時代が終ったというような感慨がある。野球が終ったというのではない。私たち当時の少年たちを捕えた、あの時代そのものが終ったといえるかも知れない。
スポーツに政治や社会の影を見るのは邪道だろう。だが、そういうものと切り離したスポーツや芸術があると思うのも、また錯覚だ。今の少年たちは、果して何を自分たちの時代のスポーツとして選び取るであろうか。