一九四二年(昭和十七年)八月七日、約二〇〇〇の兵を乗せてグァム島を出発、宇品へ向って帰国の途についた二隻の輸送船『ぼすとん丸』と『大福丸』は、その日夕刻、反転してグァム島へ引き返すことになった。
乗船していた兵隊たちにとっては、それが残酷な運命のはじまりであった。
もっとも、一木支隊と呼ばれたこの兵隊たちは、ちょうど二カ月前に凄惨な銃火の試練を浴びるはずであったのが、作戦予定が思いがけぬことから中止になって、そのときには幸運にも死の|顎《あぎと》から逃れ得たのである。
中止になった作戦は、ミッドウェー環礁のサンド島とイースタン島に対する上陸作戦である。この作戦は日本海軍の惨敗に終ったミッドウェー海戦として知られているが、作戦の目的の一つは、ミッドウェーに上陸作戦を行なってこれを占領し、アリューシャン列島西部とミッドウェーを結ぶ哨戒線を形成して「帝都」を米軍の空襲から守ろうとするものであった。さらに、この作戦を敢行すれば、米国の太平洋艦隊が救援に出動して来るであろうから、これに決戦を強いて一挙に米海軍戦力を覆滅しようという狙いがあった。この狙いの方が連合艦隊司令長官山本五十六にとっては重大であったかもしれない。ミッドウェー遠征の大艦隊の編成を見ると、そう思えるのである。
このミッドウェー占領作戦に充当されたのが一木支隊である。上陸作戦は六月七日の予定であった。
その二日前、六月五日、日本海軍機動部隊(南雲部隊)のミッドウェー島空襲から悪夢の如きミッドウェー海戦がはじまった。圧倒的に優勢なはずの日本海軍は、この海戦で主戦力の一級空母四隻と、多数の飛行機、多数の練度の高い搭乗員を失ってしまったのである。
ために、上陸作戦は中止となり、一木支隊の輸送船団は反転して、グァム島(当時は日本軍が占領していて、大宮島と呼んでいた)へ向った。
一木支隊の兵隊にとっては、このときの反転は好運であった。もし予定通りに上陸作戦が行なわれたとしたら、一木支隊は、二カ月半後ガダルカナル島で経験しなければならなかった惨烈な戦闘を、ミッドウェーで経験したはずであった。
一木支隊は、当時、ミッドウェー作戦用に縮小編成されていて、歩兵第二十八連隊(旭川)の歩兵一個大隊──歩兵四中隊、機関銃一中隊、歩兵砲一小隊──連隊砲一中隊、速射砲一中隊、通信隊、衛生隊三分の一から成り、支隊長は歩二八の連隊長一木清直大佐、兵力約二〇〇〇であった。
ミッドウェー作戦時の一木支隊の歩兵部隊は、当時の護衛部隊指揮官であった田中頼三海軍少将の回想では、小銃弾薬各自に五発となっているが(戦史室『南太平洋陸軍作戦』(1))、これは記憶の誤りであろう。ミッドウェー作戦当時一木支隊本部兵器掛将校であった山本一氏(のちに一木支隊第二梯団としてガダルカナルに上陸、中尉に任官、ガ島撤収時には山本筑郎参謀を補佐して、最終次に生還、現在横浜市在住)から筆者に寄せられた書簡で、歩兵の携帯弾薬は前盒二個で六〇発、後盒一個で六〇発、計一二〇発、携行食糧は占領目的の島が狭い関係から二日分であったと記憶している、とのことである。いずれにしても、上陸戦闘を安易に考えた軽装であった。ミッドウェー上陸は夜間の計画で、輸送船から大発動艇で発進して、珊瑚礁に達したら携帯折畳舟によって上陸する。上陸してから飛行場占領までは|遮二無二《しやにむに》銃剣で突入する。占領してからはじめて発砲を許す、というのは残敵を射殺するという意味であろう。驚くべき独善的な計画であった。
これに対して米軍は、日本軍の企図を察知して、その進攻のおそくも半月ほど前までに、ミッドウェー環礁のサンド島とイースタン島を各種要塞砲、対空砲、対上陸舟艇砲をもって針鼠のように武装し、鉄条網を張りめぐらし、機雷と水中障碍物を敷設していた。
ミッドウェーには、六月四日までに、飛行機一二一機、士官一四一名、下士官二八八六名が、豊富な資材弾薬を用意して配置についていたのである。
士気も旺盛であった。日本軍がもし上陸しようとしたら、「珊瑚礁の上でやっつけろ!」というのが、守備の海兵隊の合言葉であった。日本軍が、予定通り、手漕ぎの折畳舟などで珊瑚礁内を渡ろうとしたら、潰滅的な砲火の乱打を浴びたにちがいなかった。
したがって、一木支隊の兵隊たちは、上陸作戦が中止になって、|生命《いのち》拾いしたことになるであろう。その上、彼らは、八月六日乗船、七日グァム島を出発、宇品へ向って帰国の途についた。いくら強がりを言っても、帰国を喜ばない兵隊はない。戦わずに帰るのを残念がるのは、手柄を立てたい一心の指揮官ぐらいのものである。
一木支隊には、しかし、悪運がつきまとっていた。帰国するはずの船に乗り込んだ一木支隊は、出港したその日のうちに、直ちにグァム島に引き返し乗船のまま待機せよ、使用予定は東部ニューギニア、という参謀総長指示を受けて、またもや反転したのである。
この急変は、その日の日の出前、米軍がガダルカナル島と対岸のツラギに来襲して上陸を開始したからであった。この時点で、一木支隊の使用予定が東部ニューギニアという総長指示の用兵意図には、明確な根拠が見出されない。
けれども、使用予定がニューギニアであろうと、ガダルカナルであろうと、兵たちの運命には大した変りはなかったのである。
乗船していた兵隊たちにとっては、それが残酷な運命のはじまりであった。
もっとも、一木支隊と呼ばれたこの兵隊たちは、ちょうど二カ月前に凄惨な銃火の試練を浴びるはずであったのが、作戦予定が思いがけぬことから中止になって、そのときには幸運にも死の|顎《あぎと》から逃れ得たのである。
中止になった作戦は、ミッドウェー環礁のサンド島とイースタン島に対する上陸作戦である。この作戦は日本海軍の惨敗に終ったミッドウェー海戦として知られているが、作戦の目的の一つは、ミッドウェーに上陸作戦を行なってこれを占領し、アリューシャン列島西部とミッドウェーを結ぶ哨戒線を形成して「帝都」を米軍の空襲から守ろうとするものであった。さらに、この作戦を敢行すれば、米国の太平洋艦隊が救援に出動して来るであろうから、これに決戦を強いて一挙に米海軍戦力を覆滅しようという狙いがあった。この狙いの方が連合艦隊司令長官山本五十六にとっては重大であったかもしれない。ミッドウェー遠征の大艦隊の編成を見ると、そう思えるのである。
このミッドウェー占領作戦に充当されたのが一木支隊である。上陸作戦は六月七日の予定であった。
その二日前、六月五日、日本海軍機動部隊(南雲部隊)のミッドウェー島空襲から悪夢の如きミッドウェー海戦がはじまった。圧倒的に優勢なはずの日本海軍は、この海戦で主戦力の一級空母四隻と、多数の飛行機、多数の練度の高い搭乗員を失ってしまったのである。
ために、上陸作戦は中止となり、一木支隊の輸送船団は反転して、グァム島(当時は日本軍が占領していて、大宮島と呼んでいた)へ向った。
一木支隊の兵隊にとっては、このときの反転は好運であった。もし予定通りに上陸作戦が行なわれたとしたら、一木支隊は、二カ月半後ガダルカナル島で経験しなければならなかった惨烈な戦闘を、ミッドウェーで経験したはずであった。
一木支隊は、当時、ミッドウェー作戦用に縮小編成されていて、歩兵第二十八連隊(旭川)の歩兵一個大隊──歩兵四中隊、機関銃一中隊、歩兵砲一小隊──連隊砲一中隊、速射砲一中隊、通信隊、衛生隊三分の一から成り、支隊長は歩二八の連隊長一木清直大佐、兵力約二〇〇〇であった。
ミッドウェー作戦時の一木支隊の歩兵部隊は、当時の護衛部隊指揮官であった田中頼三海軍少将の回想では、小銃弾薬各自に五発となっているが(戦史室『南太平洋陸軍作戦』(1))、これは記憶の誤りであろう。ミッドウェー作戦当時一木支隊本部兵器掛将校であった山本一氏(のちに一木支隊第二梯団としてガダルカナルに上陸、中尉に任官、ガ島撤収時には山本筑郎参謀を補佐して、最終次に生還、現在横浜市在住)から筆者に寄せられた書簡で、歩兵の携帯弾薬は前盒二個で六〇発、後盒一個で六〇発、計一二〇発、携行食糧は占領目的の島が狭い関係から二日分であったと記憶している、とのことである。いずれにしても、上陸戦闘を安易に考えた軽装であった。ミッドウェー上陸は夜間の計画で、輸送船から大発動艇で発進して、珊瑚礁に達したら携帯折畳舟によって上陸する。上陸してから飛行場占領までは|遮二無二《しやにむに》銃剣で突入する。占領してからはじめて発砲を許す、というのは残敵を射殺するという意味であろう。驚くべき独善的な計画であった。
これに対して米軍は、日本軍の企図を察知して、その進攻のおそくも半月ほど前までに、ミッドウェー環礁のサンド島とイースタン島を各種要塞砲、対空砲、対上陸舟艇砲をもって針鼠のように武装し、鉄条網を張りめぐらし、機雷と水中障碍物を敷設していた。
ミッドウェーには、六月四日までに、飛行機一二一機、士官一四一名、下士官二八八六名が、豊富な資材弾薬を用意して配置についていたのである。
士気も旺盛であった。日本軍がもし上陸しようとしたら、「珊瑚礁の上でやっつけろ!」というのが、守備の海兵隊の合言葉であった。日本軍が、予定通り、手漕ぎの折畳舟などで珊瑚礁内を渡ろうとしたら、潰滅的な砲火の乱打を浴びたにちがいなかった。
したがって、一木支隊の兵隊たちは、上陸作戦が中止になって、|生命《いのち》拾いしたことになるであろう。その上、彼らは、八月六日乗船、七日グァム島を出発、宇品へ向って帰国の途についた。いくら強がりを言っても、帰国を喜ばない兵隊はない。戦わずに帰るのを残念がるのは、手柄を立てたい一心の指揮官ぐらいのものである。
一木支隊には、しかし、悪運がつきまとっていた。帰国するはずの船に乗り込んだ一木支隊は、出港したその日のうちに、直ちにグァム島に引き返し乗船のまま待機せよ、使用予定は東部ニューギニア、という参謀総長指示を受けて、またもや反転したのである。
この急変は、その日の日の出前、米軍がガダルカナル島と対岸のツラギに来襲して上陸を開始したからであった。この時点で、一木支隊の使用予定が東部ニューギニアという総長指示の用兵意図には、明確な根拠が見出されない。
けれども、使用予定がニューギニアであろうと、ガダルカナルであろうと、兵たちの運命には大した変りはなかったのである。