ガダルカナル島はソロモン諸島の南端部に位置している。ソロモン諸島というのは、東経一五五度から一六二度の間に、南緯五度から一一度にわたって、ブーゲンビル島を北西端とし、サンクリストバル島を東南端とする南北約一一〇〇キロメートルの長さに点在する|概《おおむ》ね平行した二条の列島群である。
ガダルカナルはその南西側列島の南端部に近い。東経一六〇度線と南緯一〇度線の交叉点を求めれば直ぐに見出される、太い甘藷のような形をした、あるいは肥った芋虫が這っているような形の島である。
島長は東西に一三七キロメートル、島幅南北に四五キロメートル、同梯尺の地図で見る限りでは、房総半島とほぼ同じくらいの大きさに見える。
緯度経度を言っても所在をおぼろな地図の形として捉えがたい向きには、オーストリアの北にある巨島ニューギニアの東端から東ヘ一〇〇〇キロの位置と想像されたい。
そんな位置にある大部分はジャングルに蔽われた未開の島だが、日本海軍はここに、五月、飛行場適地を見出して、七月初旬、第十三設営隊一三五〇名と第十一設営隊一二二一名を送り込んでいた。(先遣隊七月一日上陸、本隊七月六日上陸、七月十六日設営開始)
日本海軍はまた、ソロモン諸島政庁のあるツラギ(ガダルカナルの対岸)とその隣小島ガブツを早くも五月三日以降占領して、小艦艇の基地とし、第八十四警備隊を編成配置していた。(本隊約二〇〇名がツラギに、約五〇名がガブツに、約一五〇名がガダルカナル島ルンガ岬付近に配置されていた。)
ガダルカナルでは、飛行場の第一期工事(滑走路の長さ八〇〇メートル、幅六〇メートル)が八月五日に完成したばかりであった。
米軍の来攻はその矢先のことである。
設営隊は工事中から米軍飛行機の爆撃を受ける状況にあったので、工事完成と同時に戦闘機隊が進出することを要望したが、戦闘機隊を即時推進する用意が日本海軍にはなかった。
一つには、ミッドウェーで受けた損害があまりに大きくて、その補充がまだ出来ていなかったのと、もう一つには、日本側では、七月下旬からガダルカナルとツラギに対する連合軍の爆撃が頻繁になっていることは認めていたが、それは米豪連合軍が日本車のポートモレスビー(ニューギニア南東岸)攻略を阻止するために日本軍の前進基地に対する制圧攻撃を行なっているに過ぎない、と判断していて、米軍の本格的反攻がそんなに早く行なわれるとは予想していなかったからである。
日本は、米国の本格的反攻開始は早くても翌十八年(一九四三年)以降のことと考えていた。精密な情報蒐集からの推論ではなくて、緒戦の成功に|傲《おご》った希望的観測であった。
米国は、しかし、日本軍が既述のように五月初めにツラギを占領したことを、米豪連絡線にとっての重大な脅威として、敏感に反応していた。五月二十八日には、早くもニミッツ提督が海兵隊を用いてツラギを奪回することを提案しているし、六月八日にはマッカーサー将軍が師団一個と空母二隻、大型爆撃機数十機を用いて、日本軍の最尖端根拠地ラバウルを奪回する作戦案を提案している。
そのいずれも採用されなかったが、第一海兵師団と空母二隻とを基幹とする兵力をもって、八月初めごろツラギとガダルカナル島を攻撃することが統合幕僚長会議で決定をみたのは、六月二十六日のことである。
当初、ガダルカナルとツラギに対する反攻作戦開始は八月一日の予定であったが、第一線部隊の準備時間の不足から、八月七日に延期されたのである。
日本は米国の対日反攻準備に対して敏感な対応を示していなかった。
ガダルカナルとその対岸のツラギに日本海軍が基地を設営したのは、アメリカが脅威を覚えた通り、アメリカとオーストラリアとの連繋を遮断するために、一つにはニューギニア南東岸の要衝ポートモレスビー攻略作戦に航空基地が必要であり、二つにはフィジー、サモア、ニューカレドニア方面(後述)に力を及ぼすための前進基地としての必要からであった。
ガダルカナルに関する数多い戦史・戦記・資料の類のほとんどすべてが、大本営陸軍部の首脳や幕僚の大部分は、ガダルカナルに海軍の飛行場があることは勿論、ガダルカナルという名前や位置さえも知らなかった、それは、陸軍部としてはソロモン方面に対する関心が薄かったせいである、と書いている。
はじめ、関心が薄かったのは事実である。しかし、関心が薄かったというよりも、甚だしく不注意であったというべきである。
当時大本営陸軍部作戦課長であった服部卓四郎はこう書いている。(『実録太平洋戦争』第二巻──中央公論社刊)
「……不思議なことに、大本営陸軍部では、この島に敵が上陸するまで、海軍がガダルカナルに飛行場を建設し、また、一部兵力をこの方面に派遣してあった、ということは、|海軍部から何ひとつ聞かされてなく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|従ってまったく知らなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のである。」(傍点引用者)
陸軍部作戦課長ともあろう者がこう言うのは全くおかしい。
七月七日(米軍反攻開始のちょうど一カ月前)、大本営海軍部作戦課はFS作戦(フィジー、サモア、ニューカレドニア作戦──後述)を一時中止せざるを得ないことを陸軍部作戦課に申し入れた。その際、理由として提出された文書に次のくだりがある。長文のものなので、該当部分だけを引用する。(戦史室『南太平洋陸軍作戦』(1))
「NK作戦(ニューカレドニア作戦──引用者)ニ於テハ先ヅ『ツラギ』水上基地及『|ガダルカナル《ヽヽヽヽヽヽ》』|陸上飛行基地《ヽヽヽヽヽヽ》(|最近造成ニ着手八月末完成ノ見込《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》)ヨリスル基地飛行機ヲ以テ『エフェート島』(『ガダルカナル』ヨリ七〇〇|浬《カイリ》)『ニューカレドニア』方面敵航空兵力ヲ撃破シテ『エフェート』島航空基地ヲ急襲攻略シ同地ニ我航空部隊ヲ推進シテ『ニューカレドニア』所在航空兵力ヲ撃滅スルノ要アリ(以下略)」(傍点引用者)
ガダルカナルを知らなかったとすれば、一つの作戦中止に関する(しかも陸軍も研究していた作戦の中止に関する)海軍作戦課から陸軍作戦課への文書を、作戦課長も参謀たちもまるで見ていなかったことになる。
もしそうなら、関心が薄いどころではない。明らかな不注意であり、怠慢である。
ガダルカナルはその南西側列島の南端部に近い。東経一六〇度線と南緯一〇度線の交叉点を求めれば直ぐに見出される、太い甘藷のような形をした、あるいは肥った芋虫が這っているような形の島である。
島長は東西に一三七キロメートル、島幅南北に四五キロメートル、同梯尺の地図で見る限りでは、房総半島とほぼ同じくらいの大きさに見える。
緯度経度を言っても所在をおぼろな地図の形として捉えがたい向きには、オーストリアの北にある巨島ニューギニアの東端から東ヘ一〇〇〇キロの位置と想像されたい。
そんな位置にある大部分はジャングルに蔽われた未開の島だが、日本海軍はここに、五月、飛行場適地を見出して、七月初旬、第十三設営隊一三五〇名と第十一設営隊一二二一名を送り込んでいた。(先遣隊七月一日上陸、本隊七月六日上陸、七月十六日設営開始)
日本海軍はまた、ソロモン諸島政庁のあるツラギ(ガダルカナルの対岸)とその隣小島ガブツを早くも五月三日以降占領して、小艦艇の基地とし、第八十四警備隊を編成配置していた。(本隊約二〇〇名がツラギに、約五〇名がガブツに、約一五〇名がガダルカナル島ルンガ岬付近に配置されていた。)
ガダルカナルでは、飛行場の第一期工事(滑走路の長さ八〇〇メートル、幅六〇メートル)が八月五日に完成したばかりであった。
米軍の来攻はその矢先のことである。
設営隊は工事中から米軍飛行機の爆撃を受ける状況にあったので、工事完成と同時に戦闘機隊が進出することを要望したが、戦闘機隊を即時推進する用意が日本海軍にはなかった。
一つには、ミッドウェーで受けた損害があまりに大きくて、その補充がまだ出来ていなかったのと、もう一つには、日本側では、七月下旬からガダルカナルとツラギに対する連合軍の爆撃が頻繁になっていることは認めていたが、それは米豪連合軍が日本車のポートモレスビー(ニューギニア南東岸)攻略を阻止するために日本軍の前進基地に対する制圧攻撃を行なっているに過ぎない、と判断していて、米軍の本格的反攻がそんなに早く行なわれるとは予想していなかったからである。
日本は、米国の本格的反攻開始は早くても翌十八年(一九四三年)以降のことと考えていた。精密な情報蒐集からの推論ではなくて、緒戦の成功に|傲《おご》った希望的観測であった。
米国は、しかし、日本軍が既述のように五月初めにツラギを占領したことを、米豪連絡線にとっての重大な脅威として、敏感に反応していた。五月二十八日には、早くもニミッツ提督が海兵隊を用いてツラギを奪回することを提案しているし、六月八日にはマッカーサー将軍が師団一個と空母二隻、大型爆撃機数十機を用いて、日本軍の最尖端根拠地ラバウルを奪回する作戦案を提案している。
そのいずれも採用されなかったが、第一海兵師団と空母二隻とを基幹とする兵力をもって、八月初めごろツラギとガダルカナル島を攻撃することが統合幕僚長会議で決定をみたのは、六月二十六日のことである。
当初、ガダルカナルとツラギに対する反攻作戦開始は八月一日の予定であったが、第一線部隊の準備時間の不足から、八月七日に延期されたのである。
日本は米国の対日反攻準備に対して敏感な対応を示していなかった。
ガダルカナルとその対岸のツラギに日本海軍が基地を設営したのは、アメリカが脅威を覚えた通り、アメリカとオーストラリアとの連繋を遮断するために、一つにはニューギニア南東岸の要衝ポートモレスビー攻略作戦に航空基地が必要であり、二つにはフィジー、サモア、ニューカレドニア方面(後述)に力を及ぼすための前進基地としての必要からであった。
ガダルカナルに関する数多い戦史・戦記・資料の類のほとんどすべてが、大本営陸軍部の首脳や幕僚の大部分は、ガダルカナルに海軍の飛行場があることは勿論、ガダルカナルという名前や位置さえも知らなかった、それは、陸軍部としてはソロモン方面に対する関心が薄かったせいである、と書いている。
はじめ、関心が薄かったのは事実である。しかし、関心が薄かったというよりも、甚だしく不注意であったというべきである。
当時大本営陸軍部作戦課長であった服部卓四郎はこう書いている。(『実録太平洋戦争』第二巻──中央公論社刊)
「……不思議なことに、大本営陸軍部では、この島に敵が上陸するまで、海軍がガダルカナルに飛行場を建設し、また、一部兵力をこの方面に派遣してあった、ということは、|海軍部から何ひとつ聞かされてなく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|従ってまったく知らなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のである。」(傍点引用者)
陸軍部作戦課長ともあろう者がこう言うのは全くおかしい。
七月七日(米軍反攻開始のちょうど一カ月前)、大本営海軍部作戦課はFS作戦(フィジー、サモア、ニューカレドニア作戦──後述)を一時中止せざるを得ないことを陸軍部作戦課に申し入れた。その際、理由として提出された文書に次のくだりがある。長文のものなので、該当部分だけを引用する。(戦史室『南太平洋陸軍作戦』(1))
「NK作戦(ニューカレドニア作戦──引用者)ニ於テハ先ヅ『ツラギ』水上基地及『|ガダルカナル《ヽヽヽヽヽヽ》』|陸上飛行基地《ヽヽヽヽヽヽ》(|最近造成ニ着手八月末完成ノ見込《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》)ヨリスル基地飛行機ヲ以テ『エフェート島』(『ガダルカナル』ヨリ七〇〇|浬《カイリ》)『ニューカレドニア』方面敵航空兵力ヲ撃破シテ『エフェート』島航空基地ヲ急襲攻略シ同地ニ我航空部隊ヲ推進シテ『ニューカレドニア』所在航空兵力ヲ撃滅スルノ要アリ(以下略)」(傍点引用者)
ガダルカナルを知らなかったとすれば、一つの作戦中止に関する(しかも陸軍も研究していた作戦の中止に関する)海軍作戦課から陸軍作戦課への文書を、作戦課長も参謀たちもまるで見ていなかったことになる。
もしそうなら、関心が薄いどころではない。明らかな不注意であり、怠慢である。